第3話 お嬢はお嬢でもヤのつくお嬢



 ミヤコ区は二十三区の中でもトップクラスの安全地帯セーフティエリアであり、上流階級に属する富裕層やセレブなどが多く住み、閑静な住宅街が区の多くを占める。中心部に行くほど土地代やら物価やらがバカ高くなり、外側から一層、中心部に向かって五層に分けられていた。


 學園は四層目にあり、睡蓮を虐めていた百合子チャンとその取り巻きチャンたちは三層目の住人だ。


 ミヤコ区にある高級賃貸マンション『プティ・フルールみやこ』は地上四十階に地下三階建て、コンシェルジュ付き、玄関からフロアまでの二重ロックセキュリティーはオートロックに加えて指紋認証式。七階から四十階が住宅階で、三十階から上階はワンフロアルームかハーフフロアルームとなっているセレブ仕様。


「お嬢、もう十時すぎてますけど。ガッコー行くんじゃなかったんですか」


 最上階・四〇〇一号室。


「めンどくさくなってきたよぉ……」

「ケジメ、つけなきゃ怒られんのはお嬢ですからね」

「もぅ……わかったよぅ……準備すればいいんだろぉ」


 クイーンサイズのベッドがでんっと置かれてなお余裕のある寝室は睡蓮の城だ。ベッドルームにだけは、枢も足を踏み入れることはない。


 扉越しにかけられる声に返事をして、のっそりと緩慢な動作でベッドから起き上がった。


 ズル休みをしてもよかったのだが、襲われたはずの睡蓮わたしが五体満足で学校に現れたら百合子チャンたちは大層驚くだろう。その間抜けな面を拝みたくて登校することにしたのだ。なんて真面目チャンなんだろう、わたしって。


「ふぁ、ぁ」


 あくびをこぼして、洗面所で顔を洗い歯を磨く。寝間着にしている浴衣の襟元を直しながらリビングへ向かうと、パンの焼ける良い匂いがしてきた。


「おはようございます、お嬢。よく眠れましたか?」

「ぐっすり。なに作ってるノ?」

「スクランブルエッグですよ。寝起きだし、簡単でいいでしょう?」


 サクサクのトーストにバターを塗って、出来立てのスクランブルエッグを乗せる。その上からマヨネーズとケチャップを混ぜたオーロラソースをかけてレタスを乗せて、もう一枚のパンで挟み込む。三角形にカットすれば簡単な卵サンドの出来上がりだ。


 枢の作ってくれるサンドウィッチが一番好き。スクランブルエッグはほどよく甘くって、オーロラソースのしょっぱさがアクセントになる。


 ウチの家の料理当番はカロリーだとかバランスだとか小うるさいのだ。若いうちは好きなもン食べてもいいでしょ、と言った日には「若いうちからです!!!!!」と百十デシベルが返ってくる。ちなみに、車のクラクションなどが百十デシベルに値する。騒音で訴えるぞ。


「イタダキマース」と食べ始めた睡蓮の前にオレンジジュースを置いた枢は、エプロンを外して向かい側に腰かける。自分用に入れたコーヒーを啜りながら、もきゅもきゅと自身が作ったサンドウィッチを頬張る睡蓮をじぃっと見つめた。


 体の細胞は部位などにもよるが早くて小腸が二日、長くて血液が四か月ほどで生まれ変わる。骨は三年から七年かかるからノーカウントだ。マンションに越してきたのは今年の二月。今は六月。ほぼ毎日と言ってもいいほどに、睡蓮は枢の手料理を食べている。

 細く華奢でしなやかな白く美しいお嬢様の体を、自分が作っているのだとそう思うと、言い表せない背徳感や独占欲で溺れそうになる。


 唇に着いたソースを舐め取る赤い舌を目が追いかけて、貴い御方へ向けるには相応しくない劣情にハッと目を反らした。


「ンふふ、堪能した?」

「…………すみません、見すぎました」

「イイヨ。クマちゃんだからネ。昨日の塵だったら目ン玉ほじくりだしちゃうとこだったケド」


 きゃらきゃらと悪辣に無邪気に笑う。


「ね、今日から一緒に行こっか。途中まで車とかもめンどくさいし、ガッコーの前まで送ってもらお」


 オレンジジュースを飲み干して「美味しかった。ゴチソウサマ」と立ち上がった睡蓮に、枢は黒い目をぱちぱちと瞬かせた。


「よろしいので?」

「うン。どーせ、どっかではバレるんだし。それに、こっちの人たちってトーホクの情報ほとんど持ってないみたい。かなはじめ名乗って、今の今まで無傷ってほンと平和すぎる。ずっとこっちに居たいわよネ」


 カラカラと笑う睡蓮が本気で言っているとは思わないが、にいた頃の、傷だらけのお嬢様を思い出すと、つい面持ちが暗くなる。


 包帯も湿布もガーゼは貼っていない、どこも怪我をしていないお嬢様。

 睡蓮にはできることなら無傷で、健やかでいてほしい。美味しいモノを食べて、柔らかな布団で寝て、可愛いお洋服で着飾って美しいお嬢様でいてほしい。


「私は、」

「ン?」

「私は、お嬢様の行く先がたとえ鬼の道だろうと、どこまでも、地獄までもお供いたします」


 宵闇の帳を広げて振り返った睡蓮は、長い睫毛に縁取られた瞳をパチパチと瞬かせて、破顔した。


「知ってるヨ。オマエは――クマちゃんはどこまでもわたしと一緒だもの」


 地獄への片道切符。ずぷずぷと足が底なし沼に沈んでいく。蜘蛛の糸はどこにもなくって、ただお互いが離れないように抱き合うことしかできない。


 枢は、睡蓮に依存に近い恋慕を抱いている。底なし沼みたいに、溺れてしまうほどの甘い感情だ。


 向けられる感情に気づけないほど鈍くない。枢の重くて甘ったるい感情に気づいていながら、睡蓮は『応え』もしないし『答え』も示さない。


 気づいていないふりをして、お気に入りのクマちゃんを利用するのだ。好きな人と結婚できると思えない。まっとうな道を歩けるはずがない。學園に通う間だけ、三年間だけ自由な時間を与えられた。遊学、と父は言っていた。睡蓮は将来、女だてらに組の頭となって男衆を率いていかなければいけない。


 怖くないと言えば嘘になる。暴力を振るうのも、傷つくのも慣れてしまった。恐怖心をちょっとだけ遠いところに置き去りにして、自己を分裂させる。そうすることで、睡蓮は睡蓮であることができる。


 泣き虫で怖がりなお嬢様は、もうどこにもいない。


「クマちゃん、ガッコー行こ。髪、やってチョーダイ」

「はい」


 睡蓮は立ち止まるわけにはいかない。組を導く光にならないといけないのだ。



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