第6話 桜の香りの謎編(1)

 あれから一ノ瀬家の屋敷でメイドの仕事が始まったわけだが、想像以上に優はおバカだった。


 特に英語が全くできない。


「ねえ、朝比奈さん。be動詞って何?」

「は? そこから?」


 私は頭を抱える。


 一ノ瀬家の本邸の方には、なんと優専用の勉強部屋があり、本棚には参考書もあり、ホワイトボードまである。前任の家庭教師が置いていったもののようだが、なぜ辞めたのかは今のところわからない。


「あのね、それ中学生レベルの問題よ、ヤバイわよ、あなた……。一体授業中は何をやってたの?」


 麗美香は、本棚にある中学生用の英語の問題集を取り出し、優に解かせたが、ほとんど出来ない。


 それどころか、うとうとと眠そうにしている。イケメンであるが、こうしてヤル気の無い姿はイライラしてくる。


 問題もほとんど解けない。アルファベットも覚えているのか不安になるレベルである。


 しかも優はとんでもない事をしてきた。上目遣いで麗美香を見つめ、ぶりっ子のように顔を傾ける。


「ねえ、麗美香ちゃん! こんな勉強はいいから、ゲームでもしよう?」


 軽い色仕掛けか?


 名前を呼び、媚を売る様な事をしている。目はうるうるとし、自分がイケメンである事を最大限活用していて、麗美香は腹が立って仕方がない。ただ、勉強が出来なければ可愛いものであるが、媚を売ってくる様子は麗美香をさらに苛立たせた。


 今まで成績が悪かった理由もよくわかる。


 こうやって媚を売って乗り切っていたのだろう。宿題もたぶんやっていないはずだ。このルックスだったら馬鹿な女子が「宿題を代わりににやってあげる」と言っているのが、ありありと想像がつく。テストも成績が悪くても、こんな風に教師を言いくるめていた可能性も高い。教師だって肉的な人間である。成績だけが良い麗美香のようなブスよりも、成績悪いがイケメンな優の方が可愛がられる光景は、嫌というほど想像がついた。


「ねえ、坊ちゃん」

「何?」


 優は坊ちゃんと言われるのが、あまり好きでは無さそうで、ちょっと顔を顰める。その顔を思慮深そうに見えるから麗美香はムカつく。ブスが悩んでいても「この無愛想が! ちょっとは愛想良くしろ!」と言われるだけなのに、何とい言う理不尽さだろうか。


「人間だってね、どうせ老いぼれるのよ? 今はイケメンで良いでしょうけど、いつかはハゲでデブのおじさんになるのよ? そんな時に何の教養もなくて中身がスカスカだったらどうするの?」


 ちょっと説教臭いが、いくらイケメンだって賞味期限がある。賞味期限切れになった時の世間の反応を想像するだけで怖い。すでに賞味期限切れなのか、もともと食べられたものではないかもしれない麗美香は、そんな光景がありありと想像できる。


 世間はイケメンと美人、金持ち、頭がいい人(学歴かスキルがある人)が好きだ。本当に理不であるが、この世間で生きている以上、そんなルールを受け入れてこの人生ゲームという糞ゲーをプレイするしか無いのだ。


「おぉ、麗美香ちゃんは達観してるね。面白い人だ! 僕の周りには、こんな人はいないかった」


 なぜか優はこんな麗美香には不快感を示さず、むしろ好意的な態度を見せた。媚を売っているようにも見えたが、その目はちょっとキラキラとしていて、嘘を言っているようには見えなかった。


「いいから、問題ときなさい!」

「おぉ、怖い!」


 そう言いながらも優は問題集を開き始めた。


 一応言われたら行動するような素直さは持っているらしい。ちょっと見直すが、優といると自分のペースを乱されるようで、麗美香は疲れてしまった。


 その後夕飯を作り、優に持っていった。タケノコの炊き込みご飯、菜の花のおひたし、豆腐ハンバーグ。それに味噌汁を盆にのせる。


 宿題に出した問題集を頑張ってといてるようで、持っていった料理はスルーされた。


 あまり食べ物には興味が無いのかもしれない。


 私も離れの方の自室に戻り、作った夕飯を食べる。豊も交えてみんなで夕飯という事になったらどうしようかと思った。隠キャ故にみんなで食事は苦痛であるが、豊さんによるとそこまでしなくて良いと言われてホットする。


 広いキッチンに作ったご飯は、いつもと味が違うのかとも思ったら別にそんな事はなかった。


 それにしても学校の女子達にキャーキャー騒がれているイケメンがバイト先にいたなんて。


 絶対学校の人達には口外できない。嫉妬されるかもしれない。下手したらいじめのターゲットになるかもしれない。そう思うと豊がこの件を口外するなと言った意味がだいたい想像がつく。おそらく前にあのイケメンが原因で何かトラブルがあったのだろう。


 そう思うとイケメンである事もあまり羨ましいとは思えなくなってしまった。


 優に勉強を教えていた時は、心の中でかなり毒付いていたが、嫌な人間だったかもしれない。勉強が出来なさすぎる件はかなり問題ではあるが。


 食べ終えた食器をまとめて、離れのキッチンに持っていく。ここのキッチンは一般家庭と似たようなサイズ感なので、ちょっとホッとしながら皿を洗う。


 ちょうど皿を洗え終えたとき、豊がキッチンに入ってきた。


「どうですか? 坊ちゃんの様子は」

「信じられませんよ。be動詞もわからなかったなんて…」


 麗美香は、苦笑しながら言う。


「ま、私もbe動詞はよくわかりませんよ。一般動詞とどう違うんです?」

「be動詞は、状態とか存在とか『ある』と言った概念ですね。だから、動きが伴う動詞にくっつけると変な感じになります。日本語の『です』とか『ます』では無くて、接着剤みたいな役割です。あ、確かに意外と日本語にしにくい概念かも‥。日本語にない概念というか日本語訳しづらいというか」


 そう話しながら、be動詞がわからないという優は一方的に悪くない気もしてきた。そういえば中学生の英語の教科書でそれを丁寧に説明しているのは、あまりない事に気づく。なぜかろくに説明もせずbe動詞が解ってる前提で進行形や受動態の文法説明に進んでしまう。


 そもそも英語と日本語の違いすらまともに説明している教科書は見た事がない。日本語に訳せない英単語などもいっぱいあるのに、学校の英語の問題を解いているとそんな事は無いように感じる。学校の教科書やテストだけが正しくて、どんなものにも予め答えが決まっていような錯覚をしてしまう。実際はこんな風に穴だらけなのに。


「その、坊ちゃんはイケメンでしょ?」


 豊は口元をモゴモゴとさせ、何か言いたげだったがハッキリとしない。


「そうですけど」


 イケメンである事は認めるが、やっぱりその数々の恩恵を想像するとイライラとする。


「これまでうちもメイドを雇っていたんですが、坊ちゃんの顔にみんな惑わされて、ドロドロの恋愛トラブルに発展する事が少なくなく…」


 豊は心底困ったようにため息をつく。その表情から今までの苦労が想像できる。


「なので、朝比奈さんも坊ちゃんに興味を持たないでくださいね」


 釘まで刺してきたが、豊がそういう理由も麗美香にはわかってしまい、反抗する気分にもなれなかった。


「持ちませんよ。自分よりバカな人には。そもそも恋愛には興味が無いです。この顔で男の子にもよく馬鹿にされていましたからね」


 麗美香は、自嘲気味に笑う。この捻くれた微笑みに豊も何か感じとったらしい。


「失礼しました」

「いえ、いいんですよ。本当に世の中の人はイケメンと美人に弱いですよねぇ」

「はは。朝比奈さんだって言うほどひどくは無いですって」

「そうですかねぇ」

「お化粧した事は?」

「そっち方面も興味ないですね」

「もったいない」


 なぜか豊は、がっかりしたような表情そ見せる。聞くと豊は元メイクアップアーティストで、化粧のプロなのだと言う。


「え? びっくり。そうは見えなかったです」

「よく言われますよ。これでもちょっと芸能人のメイクとかもしてたんですから」


 豊はよっぽどメイクの事が好きなのか、いつもよりテンションが高かった。やっぱり人は好きな事を話している時は楽しいのだろう。


「今度、朝比奈さんにもメイクやってあげますよ」

「えぇー、恥ずかしいですよ」

「いえ、やりがいがある顔です!」


 それってつまり遠回しにブスといわれているのだろうか。ただ、豊には悪意が無さそうだし、しばらくメイクの事で盛り上がった。麗美香は別にメイクは好きではないが、豊の口ぶりに圧倒され、話しを聞いているだけでも楽しかった。


 そのおかげで豊とはちょっと打ち解けた。優とは仲良くなれるかはわからないが、とりあえずバイトの雇い人とこうして少し打ち解けるのは、悪い事でが無いと麗美香は思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る