第二章
勇気を出して、貴女に話しかけた
ソールズベリー女大学の敷地は様々な棟があるためにとても広く、その中にある大講堂もまた広かった。
大学にようやく慣れてきたといったところの、とある亜麻色の髪を持つ新入生は、途中で道に迷ってしまったために大講堂の後ろの方の席に座ることになってしまっていたが、その生徒はこんなこともあろうかと用意していた使い古しのオペラグラスで講堂の中心を見ることができていた。
そこでは一人の女性が黒板に文字を書きながら声を上げていた。
金色の長い髪を後ろで一本に纏めて、白衣を着たその女性の声はよく通っていた。それはこの大講堂にいる全員が静かに彼女の授業を聞いていたことの証左であり、彼女の声が不思議と響くものであったからだ。
そして、その女性は数式と解説を書ききると、ゆっくり振り返る。
眼鏡をかけたその女性の名前はソフィア・ロングフェロー。若くして多岐にわたる分野で活躍する、このソールズベリー女学校で最も有名な博士のうちの一人。
彼女は理知的ながらも柔らかな雰囲気をまとっていて、ゆっくりとチョークを何も置かれていない教壇に置く。
「――以上。これで無限小を厳密に考えることが出来ます。
そして、これにより、微分積分学の講義を終わります」
ソフィアのその言葉に、講義を聞く生徒たちは黒板の文字列を理解しようと首を傾げたり、せめて講義内容だけでも写し取ろうとノートにペンを走らせる。中には納得顔で頷いたり、豊かな髭を蓄えた明らかに堅気じゃない男が腕を組んで笑っていたりもしたが、それはそれ、である。
その亜麻色の髪を持つ生徒は、納得顔で頷いたうちの一人だった。
「微分積分学を理解することは、今日の数学の土台の一つを理解するという事でもあります。授業内容をしっかりと復習して、その土台を堅牢なものにすることを期待します」
ソフィアはポケットから懐中時計を取り出し時間を確認する。授業終了の直前、完璧なタイムキープだった。すごい。彼女は顔を上げると、大講堂に集まる全員を見渡し、生徒たちの注目を集めるように手を一つ叩く。
「さて、これで全五回の集中講義が終わりましたが。それらの講義内容、特に今日の分を理解できたと自負する者、手を挙げて。
……よろしい」
講堂にいる人間の内、1割にも満たない数の手が上がる。その一割には、先ほどまで使っていたオペラグラスを仕舞った生徒もいた。その数と生徒を見渡したソフィアは、ゆっくりと頷いて、それから口を開く。
「極限の講義を最後に持ってきたのは、このイプシロン-デルタ論法がごく最近に学会で承認を得た物で、かつ、理解が難しいからです。そして、これが理解できないからと言って、微分積分と言うツールを全く使えないと自信を無くす必要はありません。
また、講義を聞いただけで理解できるものは、今見た様にほとんどいません。故に、しっかりと復習をし、時には友人と議論をし、理解を少しずつ深めていってください」
ソフィアがそう言い切った時、ちょうど授業終了の金が鳴る。
「はい!講義は終了!皆、次の予定に遅れないように!」
ソフィアがそう手をパンパンと叩くと、大講堂にがやがやと言う喧騒が戻ってくる。そして、おおよその生徒が大講堂を出ていく準備を始めるが、ソフィアは教卓に手をついて立ったままだった。
一方、大きな肩掛けカバンにオペラグラス他、荷物を全部突っ込んだ生徒は、ソフィアが帰ってしまう前に大講堂を降りていく。ソフィアにも彼女が見えていたのか、体をそちらの方へと向けた。
二人が並べば、お互いの歳はそう離れていないように見えたし、ソフィアは大講堂の席から見えた印象よりも背がかなり高かった。
「こんにちは。質問ですか?」
「こんにちは、先生。質問ではないのですけど、よろしいですか?」
生徒のその言葉に、ソフィアは首を振る。
「他生徒からの質問があるかもしれないので、少し待っていてください」
ソフィアがしばらく待って、大講堂の人間が誰もこちらに来ないことを確認すると、改めて向かい合う。
「場所を変えましょうか」
「はい!」
生徒はキラキラとした目でソフィアの言葉に頷く。そして、大講堂の出口に向かいがてら、ソフィアは自己紹介を始める。
「知っていると思いますが、私の名前はソフィア・ロングフェロー。貴族ではありますが、学内では気にしなくて結構ですよ」
「申し遅れました。私は、シャーロット。シャーロット・ホームズと言います。ロングフェロー先生とぜひお話をしてみたくて――、先生?」
ソフィアは目の前の女生徒の、シャーロット・ホームズという名前を聞いて、驚いたように目を丸くさせた。それに首をかしげるのはシャーロットで、ソフィアは小さく頷くとともに目の前の生徒のことを下から上に視線を動かして観察する。
正直質のいい
疑問を浮かべる濃い碧眼を持つ瞳もはっきりとしていて、全体的に可愛らしい雰囲気をまとっていた。
「いえ、何でもありません。君がシャーロット・ホームズさんですか」
「えっ?」
次に驚いたのはシャーロットだった。彼女は自分のことが尊敬している人に知られているとは、もしや何か悪いことをしてしまっていたであろうか、とまだ短い大学生生活を高速で思い返す。
しかし、その焦った表情を見てソフィアはくすくすと笑い、シャーロットの肩を叩く。
「主席合格者と聞いていますよ」
「えっ、あっ!ありがとうございます!」
「君自身の頑張りなのですから、お礼を言う必要はありませんよ。胸を張ってください」
ソフィアの言葉にシャーロットは照れながら、大講堂の扉を押し開ける。すると、ぴゅうっと冷たい風が、外から大講堂へと入ってきて、二人の服や髪を乱す。
イギリスの大学の入学時期は9月である。そのため、新入生が大学生活に慣れ始めた時期となると、冬真っ只中になるのだ。
その吹き込む風にソフィアはブルリと体を震わせると、大講堂を出るなり早足に歩き始める。足のコンパスの差でシャーロットが慌てて小走りになると、ソフィアは白衣の前を寄せながら大講堂近くの学内カフェへと視線を向ける。
「将来有望な生徒にはココアとチョコを進呈しましょう」
「いいんですか!?」
シャーロットは花が開いたかのように笑顔になると、小走りがわずかにスキップのようになる。そんなシャーロットの様子にソフィアが微笑み、二人はやがて一面がガラス張りなのが特徴のカフェの中へと入っていく。
カフェの中は暖かく、そしてがやがやとしていた。ほとんどが女性なのだが、教授陣や、一部の聴講生の男性もわずかに見えた。中には、黒人をはじめとした有色人種もいて、客層はこの大学の特徴をよく表していた。
「ココアを二人分、チョコレートを三人分でお願いします」
ソフィアはカウンターでそれだけ注文をすると、さっさと席につき、その対面にシャーロットを座らせる。
「三人分ですか?」
「少ないのですよ。少しね」
「ああ、そうなんですか」
二人しかいないのに三人分の注文をしたソフィアに疑問を投げかけたシャーロットは、ソフィアのその少し不満げな表情での回答に、口元を押えて小さく笑う。
「可愛らしい人なんですね」
「……口説いているのですか?」
「いいえ?」
シャーロットが楽しそうに言うのに、ソフィアが少し鼻白む。しかし、シャーロットは自覚がないのか首を傾げるばかりだった。そんな彼女に、ソフィアは一つ咳払いをすると一面のガラス窓から外を見る。
高さも幅も大きく、透明なガラスの向こうには、冬らしく曇った空と、落葉した木々、そしてその下に黄色く小さな花が生えていた。行き交う女生徒たちはそんな景色を見る暇もないほど忙しそうに、何より楽しそうに歩いていた。
「デイジーですね」
シャーロットもソフィアに釣られて外を見ていたのか、声をあげる。それにソフィアが首を傾げると、彼女はソフィアと目を合わせて外へと指を向けた。
「あの小さな黄色い花です。ナラの木の下あたりにあります。
冬でも頑張っているんですね。綺麗です」
シャーロットが微笑みながらそういえば、ソフィアもその黄色い花を見る。ソフィアもデイジーを見つけたのを確認したシャーロットは、自分もまたデイジーへと目を向ける。
そして、嬉しそうに口を開く。
「私、デイジーが一番好きな花なんです。それを貴女と見れるなんて、今日はいい日です」
「……そうですね。私も、中々悪くない気分です」
一方のソフィアはわずかに言葉を途切れさせながらシャーロットに言葉を返した。
そうして、二人がそのデイジーをしばらく眺めていると、ウエイトレスがやってきてテーブルにココアとチョコレートを置く。
ソフィアは目の前に置かれた二人分のチョコレートの盛り合わせから、いくつかを取り分けると、それをシャーロットの皿に移した。
「少し差し上げます」
「あ、ありがとうございます」
シャーロットが一瞬戸惑うも、すぐに嬉しそうに笑顔になる。そして、チョコレートを一つとると、それを口に運び、さらに幸せそうに顔を綻ばせる。ソフィアはそんなシャーロットの表情をしばらく眺め、口角をわずかに上げると、彼女に気付かれないように小さくため息をつき、ココアを一口飲むのだった。
「甘い」
ソフィアがそう言うと、シャーロットはチョコを飲み込み、目を細めて晴れやかな笑顔を見せるのだった。
「美味しいです!」
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