出航

 テムズ・トンネルが崩落して数日後の、ブリストルはエイヴォンマス。開発されたばかりのコンクリートで作られた巨大な埠頭がその地にはあり、そこにとある客船が停泊していた。

 黒い船体に金色のライン、全長は150mという巨大さ。2本の煙突からは黒い煙が立ち上り、船体に乗るブリッジや客室すらもとんでもない大きさだった。しかし、その一方で予備の三本のマストは帆を完全に畳んで寂しく立っていた。

 この船の名はブリタニア。世界初の大西洋横断を狙う蒸気船で、スクリュープロペラや複式機関も採用した野心的な設計だった。

 そんなブリタニアを見上げるのは、瀟洒なドレスを身に纏ったソフィア。この船の設計をした人間でもあった。


「見た目以上に大きく感じるなあ」

「うう……そうですね……」


 ソフィアの言葉に、低い位置から震え声で答えるのは、くすんだ金色の髪を持つ子供。その子供はソフィアの腰にぎゅうっとしがみついて、泣きはらしたのか目元を赤くさせていた。


「エマ。もうそろそろ機嫌を直してくれないかな?」

「やです……。行かないでください」


 少女、エマはソフィアの義妹の一人だった。彼女達4人の義妹は、ソフィアがアメリカへと旅立つことに対し、皆一様にぐずった。全員が泣き、行かないで欲しい、行くならつれていけとわがままを言ったのだ。

 ソフィアは何とかその四人を説得して、認めさせたのだが、当日になってこの腰にしがみつくエマが我慢できなくなったのだ。


「おねーちゃーん!!すっごいおおっきい!!」


 そんな二人とは打って変わって元気いっぱいだったのが、ベアトと言う愛称のベアトリーチェ。彼女は目の前の蒸気船に大興奮状態だった。最後方から最先端まで走っては、ジャンプしながら船員に手を大きく振ってを繰り返していた。

 アリスとクレアも一緒になってベアトと追いかけっこをしていて、子供たちは大いにはしゃいでいた。


「戻ってきなさい!……全く」

「うぅ……お姉様ぁ……」


 腰のエマが小さく泣き声をあげ始めてしまい、ソフィアはどうしたものかと目をつぶって、ため息をかみ殺す。子供相手にため息などついてはいけないが、今、許されるなら盛大に溜息を吐きたい気分だった。


「エマ」


 ソフィアはエマを一旦引きはがし、しゃがんで彼女と視線を合わせる。エマは鼻水を啜りながら、潤んだ目を開けてソフィアのことを見た。


「お土産もたくさん買ってきてあげるし、手紙も毎週書く。

 君達からの手紙は時々しか受け取れないけど、その分いっぱい書いていいから。

 ね?」


 ソフィアは微笑みながらエマの涙をハンカチで拭う。その言葉でエマは何とか納得したのか、こくりと頷いた。そして、またも鼻水を啜りながら、ソフィアの胸の飛び込んだ。


「帰ってきたら、一緒にお茶してくれる?」

「もちろん」

「うう……。もう、わがまま言いません」


 エマは最後にひとしきり涙を流すと、そのぐずりがようやく収まる。そんな彼女の頭を、ソフィアは微笑みながら優しく撫で、口を開いた。


「いい子だ。将来は立派なレディだね。――ぐえっ!!」


 最後にもう一度エマのことを抱きしめてやろうとしたとき、横からすごい勢いで子供が飛んできて抱き着いてくる。それに、先日の戦闘でまだ体の節々が痛むソフィアは汚い悲鳴を上げてしまう。


「お話終わった?お姉ちゃん!!お姉ちゃん!!私もあれ乗りたい!!」

「駄目だって……言ってるでしょうが!!」

「いでっ!」


 ソフィアは割と本気で怒って、飛び込んできた義妹の内で最も活発な子供、くせ毛の金髪がトレードマークのベアトの額にデコピンをする。そして、彼女に説教をし始めたのだった。

 その説教でベアトが涙目になってしまった頃、荷物の搬入を終えたらしいアスタロトが客船のタラップから降りてきた。


「お嬢様。お時間でございます」

「分かった。じゃあ、皆、家ではジョージお父様のいう事をよく聞くんだよ」

「はーい!」


 いの一番に返事をしたのはベアトでそれに続いて他3人も各々返事をする。


「それじゃあ。いってきます」


 ソフィアは笑顔で手を振って彼女らの元を離れ、客船のタラップへと向かう道中で辺りを見回す。その結果何かを見つけたのか、彼女は僅かに口角をあげる。


「アスタロト。少しお手洗いに入ってくる」

「かしこまりました」


 そして、ソフィアはタラップを登る直前、アスタロトにそう断ってトイレへと足を運ぶ。その歩みの中、アスタロトから死角になった物陰に入ると、彼女はトイレへの道を外れて先ほど見つけた場所へ足を向けた。

 そこは、客船とは別に停泊していた貨物船に乗せる荷物が待機させられていた場所だった。


「いないか……」


 そこでは、インバネスコートを着た男が木箱に腰を掛けてため息をついていた。その場所からは客船ブリタニアが停泊する埠頭がよく見えていた。

 ソフィアはそんな男の背後を目指しながら一つ咳ばらいをする。


「いるぞ」


 そして、ソフィアが発したのは見た目からは想像もできないほど低い声。ダンの声だった。


「うわあ!!」

「そのまま、前を見ていろ」


 インバネスコートを着た男、アランは思わず驚いた声を上げ、立ち上がってしまう。そして、そんな彼に振り向かれると困るソフィアはいつも以上にどすの利いた声でアランに命令を出した。


「なぜここにいる」

「いやあ、ここなら一目会えるかなと」

「どの船に乗るかは言っていないはずだが」


 ソフィアは腕を組みながらアランの背中にため息交じりの声を投げかけた。すると、アランは頬をかいて、すこし誇らしそうな声色で解説を始める。


「アメリカに行くって言ってて、かつ技術者っぽいダンのことだ、あの最新鋭の蒸気船に乗るんじゃないかなって」

「お見事」


 ソフィアは掛け値なしにアランのことを褒める。すると、アランは客船の前で別れを告げる家族たちのことを眺めながら口を開く。


「いやあ、凄い船だね」

「まあな。で、何の用だ?」


 場を温めるための世間話をすぐに切って落としたソフィアに、アランは困ったように笑い、それから少し真剣な表情になる。


「あのトンネルに囚われていた人たちは全員元居た場所に帰ったよ」

「そうか」

「僕からもお礼を言わせて欲しい。手伝ってくれてありがとう」

「かまわない。で、まだあるのか?私はもうそろそろ行かないといけないのだが」


 アランからのお礼の言葉を適当に受け取ると、ソフィアはタラップの方を見る。そこでは未だにアスタロトが待ちぼうけを食らっていた。


「これ、僕の事務所の住所。何かあれば連絡を、教えて無かったよね」


 アランは後ろ手に一つの紙を木箱に置いた。ソフィアはそれを受取ろうと手を伸ばして、途中でその手を止める。


「……いらん」

「わかった」

 

 ソフィアの拒絶の言葉、しかしやや間があっての拒絶に何か思うことがあったのか、アランは一つ頷いた。そして、彼は何か決心をした表情で、小声で語り始める。


「ここからは僕の独り言だ。

 これから僕は、ロンディニウムで何が起こっているのかを探るつもりだ。君の言っていた某氏のことも、地下ののことも調べる」


 ソフィアは何も言わない。これは独り言だからだ。アランの決断にソフィアは何も口を挟まないし、彼の行動を制限する気もなかった。


「手始めにウェールズに行くことにしたよ。

 ドラゴンのことについてはグウィネズに行って確かめる。ちょうど、鉄道でリヴァプールから近くまで行けるみたいだしね。

 某氏のことについては、ちょっと見当は付かないかな」


 ドラゴン。イギリスのドラゴンで最も有名なのは、赤い竜Y Ddraig Gochだろう。その伝説にはいくつかのバリエーションがあるが、そこには必ず対になる白い竜がいる。果たして、ロンディニウムの地下で見たのはどちらだったのだろうか?

 それ以前に、そもそも赤い竜の伝説は基本的にはウェールズの物だ。イングランドのロンディニウムの地下に封印されたという伝説ではなかったはず。アランはここに疑問を持っていた。だから、封印伝説のある地のグウィネズに向かうのだ。

 その上、公爵がこのドラゴンに執着しているのも、よく考えてみればその理由が分かっていない。


「それだけ」


 そう最後に呟くと、アランはポケットに手を突っ込んだ。

 海風が一陣吹き、客船からボーゥという低い汽笛も鳴った。

 ソフィアは髪が風で乱れるのを手で押え、それからあらかじめ用意していたものを小さな鞄から取り出し、木箱の上に置く。


「ここに一つ、物を落としていく。これをどう扱うかは勝手だ」


 それは、かつて密輸船を悪魔に襲わせたときに手に入れた暗号文だった。これには魔術的な暗号化がなされており、ソフィアでは手出しができないものだった。彼女はそれをここに置いていくことにした。


「それじゃあ、私はもう行く。

 ……死ぬなよ」


 ソフィアはそれだけを言ってその場から立ち去る。アランは木箱に置かれたものの上に腰かけると、客船が人々を収容し、ゆっくりと埠頭から離れていき、やがて水平線の向こうへと消えていくまでを見守った。


「僕が来るって解ってたんじゃないか」


 アランはそう呟いて、それから、「ああ、来なかったら僕を認める気はなかったんだな」と一人納得した。




 外洋を当時では考えられないほどの速度で進む客船、ブリタニアの一等客室でソフィアは一人本を読んでいた。外にはまだグレートブリテン島が見えていたが、これはそのうち見えなくなるだろう。

 ソフィアが読書を楽しんでいると、客室の扉がノックされる。入室の許可を出せば、入ってくるのはアスタロト。当然だ。彼をロンディニウムから引きはがすための出張なのだから。

 そして、そんなアスタロトは部屋に入ってくるなり、ムと眉を顰める。


「客室に置いてあったんだ」


 ソフィアは手元の本を閉じる。それは聖書だった。悪魔のアスタロトから見れば不愉快なその本を、ソフィアは備え付けの机の中にしまう。


「で、何の用だ?」

「お食事の用意が出来ました」

「そうか」


 ソフィアは立ち上がり、そして一瞬だけ聖書のある棚へ目を向け――


(悪魔でありサタンである竜、か)


 少し笑った。

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