潜入

 イーストエンドとは一口に言ってもその境界線はあいまいだ。

 ロンディニウムの東にあること、テムズ川の北側にあること、港湾施設があるあたりが中心であること。

 明確なのはこれくらいだ。今は取り壊されたロンディニウムの壁の向こう側だの、アルドゲート・ポンプと呼ばれる給水所から向こうがそうだ、とも言われるがやはり明確ではない。

 そんなイーストエンドの中心になっていた港湾施設、それそのものは健全に使用されていた。ただ、そこで働く人間は低所得者層で、彼らの給料はどうしても低く、彼らを支えるサービスもやはり低品質なものになって行く。その悪循環がここが結果的にスラムになり果ててしまった原因の一つだった。

 それに加え、低所得者でも生活が出来るという事は、田舎からロンディニウムにやってきたばかりの人間も集まってくるという事で、ロンディニウム全体が繁栄するにつれてそのスラム化はますます加速していた。

 最近では、そんなスラム住人が生んだ子供が加わり、ますます混沌とした雰囲気になりつつある。

 そんなスラム街の比較的マシな通りをダンことソフィアとアランは歩いていた。


「嫌な雰囲気だ」

「これからもっと酷くなっていくぞ」


 アランがイーストエンド全体に横たわる、活気があるようで無気力さが垣間見える空気に顔をわずかに顰める。しかし、ここはこれから半世紀以上もかけてさらにひどくなっていく上に、そもそもここはまだイーストエンドの端の方だった。ソフィアはその二重の意味を持つ言葉を語る。


「よし、手分けするか。効率的に行こう」


 そして。ソフィアはポケットに手を突っ込みながらその言葉を残してアランと別れようとする。それに慌てたのはアランで、彼は彼女の背中に声をかける。


「どこでどうやって合流するんだ!」

「大量失踪の事件現場で集合!」


 ソフィアは片足でくるりと回転して後ろを向くと、相談もなく勝手に集合場所を決めてしまう。そして、その回転の勢いのまま、スーツをはためかせながら進行方向へと向き直し、そのまま歩き続けた。


(ネクタルだったか?今もあるかわからないが、まずはあそこを目指そう。それから例のテラスハウスに行けばいい。

 これにアランはつれていけないからな)


 ソフィアはアリバイ作りのために道行く人に「かつてここで失踪事件があったらしいが?」と聞いて回る。最初は包帯をぐるぐる巻きにした男に警戒心を抱かれ、まともに聞き込みが出来なかったが、適当に金を包めば皆口々に情報を話し始めた。

 曰く、


「ゴーストストリートの失踪だな。確か100人もの男女が一夜にして消えたんだ」

「誰も寄り付かねえ場所だよ。今でも人が消える」

「あそこは昔娼館だったんじゃ。それで、お偉方に一斉摘発されたんじゃ」

「実はあそこの土地は王族が持ってるって話だ。だから誰も近寄れないんだ」

「あのストリートは今じゃ、ゴーストストリートって言われてる。本当の名前は忘れたな。誰も近寄らねえ」

「その事件と同じ夜、どっかのパブでも殺人があったんだよ」

「あそこには近寄るな!ゴーストが出る!よそ者が手を出すな!」


 虚実入り混じる市民の証言にソフィアはうんざりしながら、かつてパブ、ネクタルがあったと記憶していた地点の近くで中年の無精ひげを生やした男を捕まえる。


「聞きたいことがある。ここらあたりで、パブの店主が殺されたって話、知らないか?」

「ん?ああ。あそこだよ。あそこのネクタルって所だ。あそこのネクタルって所で、男が死んだ。あそこだな。今もやってる」


 中年の男はひげをぞりぞりと掻きながら、思い出す仕草なのか首をゆらゆら振りながら応える。そんな男にソフィアはポケットから手を出しながら続けて質問をした。


「その店主が殺されたのと同時期に大量失踪事件があったらしいな。知らないか?」

「知らない。いや、知ってる。20人ほどいなくなった。全員、いなくなった」

「そうか。ありがとう」


 ソフィアは中年の男の顔をよく見て、それから最後に一つと付け加えて質問をする。


「君は普段どこで何をしている?」

「俺か?俺は、靴を磨くのが仕事。道端で靴を磨いている」

「そうか。邪魔したな」


 ソフィアは手を上げて男から離れていく。そして、数歩離れた後、振り返り、その男のことをもう一度よく見た。

 その中年の男は、農民が着るようなスモックを着ていて、幅広の帽子をかぶっていた。明らかに、靴磨きではない。そもそも、ソフィアの包帯について何も触れなかった。

 ソフィアは不気味さを覚えながら、その男がゆらゆら歩いてやがて路地へと入っていったのを見送ってから、教えられたネクタルへと歩みを進めた。

 そしてやってきたネクタル。ソフィアはパブの木扉を開け、その中へと油断なく歩みを進める。

 果たしてそこは汚らしい男たちの巣窟だった。よれよれのスーツを着たうらぶれた男たちが煙草と酒とをテーブルに並べて管を巻いていたらしいが、今はその全員が驚きか敵意を持った目で闖入者を睨みつけていた。

 そんなパブの玄関で、ソフィアは堂々と声をあげる。


「聞きたいことがある。それを聞いたらすぐ立ち去る」

「なんだあ?てめえ……」

「ああ、注文はしないとな。店主、ジンをボトルごと」


 うらぶれた男たちの中でひときわ気性が荒いらしい男が立ち上がるが、ソフィアは彼のことを無視してカウンターへと適当な数のシリング硬貨を投げる。投げられたシリング硬貨は空中でチンッと音を鳴らしながら互いに当たり、ほとんどはカウンターの向こうへと消えたが、1枚は届かずに床に落ちてしまう。


「舐めんじゃねえ!」


 男はそんなソフィアの態度が自分を舐めていると取ったのか、声を荒げてこぶしを振り上げる。そして、それが降り下ろされた瞬間、ソフィアは体を逸らしつつ前に踏み込みながら自身も拳を振るった。

 男の拳は空を切り、ソフィアの拳は真っすぐ男の顎を貫く。

 ゴッという骨と骨がぶつかる音が小さく鳴り響き、男は振るった拳の勢いそのままに倒れ込んで、けたたましい音を鳴らして木扉へと頭を突っ込ませた。結果、男の首はあらぬ方向に曲がり、その痛々しさに店内の人間が顔を一斉に逸らす。

 一方のソフィアは着崩れたコートを襟を引っ張っることで着直し、視線をちらっと倒れる男に向ける。

 そして、生きていることを確認すると、もう一度店内の人間に問いかけた。


「聞きたいことがある。昔、このパブの店主が殺されたらしいが、本当か?」


 男達は一斉に今の店主へと顔を向け、視線が突き刺さる彼は苦虫を嚙み潰したような表情で頷く。


「理由は分かるか?」

「知らねえ」

「知っている表情だ、言え」


 ソフィアは取り出したシリング硬貨を親指で弾き、真上へ飛ばす。そして、それをキャッチして、視線を店主のみならず客にも順番に向けていく。


「……アヘンのごたごただろう。それくらいしか分からねえ」


 客の一人が静かな口調で言えば、ソフィアは彼にシリング硬貨を投げてよこす。


「へへ。ありがとよ」

「もう一つ。同時期に起こった大量失踪と関係はありそうか?」


 加えて、ソフィアはポケットに手を突っ込みながら問いかける。すると、客たちは素っ頓狂な表情になり、顔をそれぞれ見合わせる。


「それはねえだろ。ありゃ、悪魔の仕業だ。人間にゃできねえ」

「んだ」

「悪魔なんて言うなよ……」


 中々的を射ている発言だったが、ソフィアは何も言わない。一瞬、Jについても聞こうかと思ったが、藪蛇なのでやめておく。


「場所は分かるか?」

「ああ、ゴーストストリートだな。ここを出て真っすぐ行ける」


 最後にその事件の場所を聞けば用は済む。ソフィアは踵を返しかけて、足元の伸びている男につま先を当ててしまう。彼女はその邪魔な男を足で転がして扉の前からどけながら、後ろのうらぶれた男たちに声をかけた。


「聞きたいことはそれだけだ。ああ、ジンは適当に飲みたまえ。迷惑料だ」


 ソフィアはそれ以上は何も言わずに扉を開けて、パブネクタルを出ていく。

 ネクタルを出たソフィアは先ず左右を確認した。見覚えのある人間はいるか?こちらを注視している人間はいるか?その疑念を解消するためだ。

 その確認が終われば、かつて馬車で通った道を歩き始る。

 そして、十数分の後に着いたのは、かつての姿よりも汚らしくなったテラスハウス。その建物が面しているゴーストストリートと呼ばれる通りも、人が不思議とまばらだった。

 煤や埃で黒くなり、窓ガラスは割れたり曇ったり、人口が流入し続けているロンディニウムには似つかわしくない、人の息吹が全く感じられない建物だった。


「嫌な雰囲気だ」


 その建物を見上げながらソフィアが呟くと、後ろから声がかかる。


「ちょっと中を覗いたけど、中はもっと酷いよ」


 ソフィアが振り返ると、そこにはアランがいた。彼はソフィアよりも一足先に聞き込みを終えてここに来ていたらしかった。そして、そんな彼にソフィアは空を見上げながら口を開く。

 空は夕焼け色になっており、ロンディニウム上空に常にかかっている薄雲のせいで、もう日が落ちてしまったのではないかと錯覚してしまうほど街は暗くなっていた。


「もう暗い。今日は止めにしないか?」

「何言ってるんだよ。それだと次は僕一人で来る羽目になるじゃないか」


 そのソフィアの言葉に、アランはにやりと口角を上げてからかい口調で彼女のことを口撃する。


「もしかして、ゴーストが怖いのかい?」

「ああ、実に怖い」


 ソフィアの思いがけない肯定にアランは目を丸くさせ、まったく予期していなかったと無言で表情に表す。そんな彼の表情に心外そうな顔をしたソフィアは空に向けていた視線を、テラスハウスへと向けて口を開く。


「当然だろう。ゴーストがいようがいまいが、実際に何らかがあったからこそ、ここには誰も住んでいないのだ。

 場合によっては生きた人間に襲われる可能性も、この建物を調べられたら困る人間に狙われる可能性もある」

「ああ……、なるほどね。そういう意味ね」


 ソフィアが幽霊に怖がった真の理由に、アランは期待が外れたと肩を落としてしまう。そして、落とした肩を回し、気合を入れ直すためにインバネスコートの居住まいを正す。


「じゃあ、ますます、今行かないと。次来る時にダンがいる保証もないし」

「……。ああ、そうか。私はダンだったな」

「もういい加減慣れなよ。さ、行くよ」


 そう言ってアランはテラスハウスの観音扉を開いた。彼に続いてソフィアもテラスハウスへと入ると、そこは人があまり出入りしていないのか、埃っぽい匂いに満ちていた。

 まずは玄関ホールとは名ばかりの狭い廊下。ここはテラスハウスに住む住人の共有スペースだった。植えられた花がとっくに枯れた小さな植木鉢が哀愁を誘う。


「本当に見捨てられた家なんだね」

「ああ。流石に不気味だ」


 二人が歩みを進めると、割れたガラスが床に落ちていたのか、チャリ、と小さな軽い音が鳴る。アランはどう探索しようかと目配せをし、ソフィアは無言で玄関ホールに面する扉へと目を向ける。

 二人がその扉を開くと、そこは一つの部屋だった。はっきり言って狭いリビングキッチンのワンルームで、穴の開いたベッドと、足が腐って折れたテーブルが置いてあった。

 ソフィアがキッチンの方へ行き、そこにあったはずの食材を調べる。


「腐るどころか風化しているが、観察するに色々置いてあったらしい」

「食材を持って行かなかった、もしくは持っていけなかったってことかな?」


 アランはそう言いながらベッドの下を覗く。特に何もなかったようで、彼は首を振りながら顔をあげる。そして、二人はその部屋を出ていく。


「とりあえず、順番にめぐろうか」

「そうだな」


 アランの提案にこのテラスハウスの部屋を一つづつ調べていく。しかし、調べても調べても何も出てこない。すべての部屋は本当にある日突然家主が居なくなって、そのまま放置されたようだった。

 ソフィアにとっては、かつて自分が鍵を取り換えた地下室をアランに調べさせ、何も出ないことを確認させることができたのが収穫と言えば収穫か。

 すべての部屋を調べ終えた二人は、廊下を抜けて庭へと出る。塀に囲まれた長方形の形をした地面むき出しの庭は、このテラスハウス全員の共有物であり、洗濯をしたり衣服を干したりする場所だ。

 それに加えて、小屋が二つ。片方は物置で、もう片方はトイレだろう。

 それらを見てソフィアは何も出ないと解っているため、少々徒労を感じてうんざりした声を上げた。


「次は庭と洗濯場、そして小屋、か。いい加減何か出てくれればいいのだが」

「嫌な雰囲気がする」

「もうとっくにしている」


 ソフィアがジト目でアランのことを見ると、アランは冷や汗をかきながら厳しい目で物置の方へと目を向けていた。


「いや、そうじゃない。すごく、嫌な予感がする」

「ゴースト?」


 ソフィアのその問いかけに、アランは何も言わなかった。ソフィアは彼のそんな様子をみて、内心覚悟をする。


(ゴーストだな。果たして私の用意しておいたが通用するだろうか……)

「よし、さっさと見て帰るか」

「ああ……」


 二人は固まって庭を横切り、洗濯場を覗き見る。そこには何もない。次はトイレ。臭いだけ。

 そして、一番最後に物置小屋の前に二人は立った。木で作られた物置小屋はしっかりとした作りだったからか、痛んでこそいるがそこにしっかりと立っていた。

 そんな小屋の扉をソフィアが開こうとしてノブに手をかけると、開かない。鍵がかかっているようだった。


「鍵開け、できるか?」

「できるけど、うーん……。このタイプは時間がかか――っ!」


 アランが鍵穴を覗き見て、振り返ってソフィアにそう告げる。

 そう告げた瞬間、彼は目を見開き固まった。

 ソフィアはアランのその様子に、コートの内側に手を突っ込みながら素早く振り返る。

 そこには、ワンピース姿の女の子が立っていた。顔は見えない。夕日に照らされて、蜃気楼のように揺らめく彼女の表情は苦しんでいるようにも、笑っているようにも見えた。

 そんな女の子を睨みつけながらソフィアは懐でつかんだ、ある物を抜き出す。

 曇りない銀色の細く長い銃身。その銃身の根元は円形に大きく膨らみ、一番付け根にはもうすでに立ち上がったハンマーが。

 現代的なリボルバーだった。ハーモニカガンでも、ペッパーボックスピストルでもない、その銃口を女に向けて、ソフィアは鋭く叫んだ。


「そこの女!!何も言わずに手を上げろ!!」


 その言葉に、女の子は笑った。

 肩を震わせ、悲鳴のような声で笑い声をあげた。


「アラン!どけ!」


 ソフィアはアランを無理やり退かし、物置小屋の鍵に銃口を向ける。そして、一息に引き金を引いた。

 バッギィィンッ!!!

 リボルバーが弾を発射する銃声と、鉄製の鍵が吹き飛ぶけたたましい金属音。

 ソフィアはすぐさま物置小屋の扉を蹴り開け、すぐにまた女へと振り向き直す。女はまだ笑っていた。


「アラン!!物置小屋を確認しろ!!早く!!」

「あっ……ああ!」


 ソフィアは生唾を飲み込み、段々と俯きながら笑い声のトーンを下げていく女と相対する。


「死体だ!白骨死体がある!」

(クソッ!誰かが隠してたのか!)


 ソフィアはあの夜しっかりとこの家を探索させなかったことを今更後悔する。よく考えてみれば、同じ組織の人間が一堂に集められたら、何かを疑って可愛い我が子を用心のために隠すくらいのことはする。

 そして、親が死んで開けられなくなった物置小屋の中で一人の子供が死んだのだ。


「アラン!!あれは人間だと思うか!?」

「明らかにおかしいだろ!!」


 ソフィアはアランのその言葉を、ある種の同意ゴーサインだととらえ、女の足に向かって発砲した。

 しかし、女は身じろぎ一つせず、彼女の背後の地面から小さな土煙が上がるだけだった。


(やっぱりただの弾丸じゃダメか!!)

「何やってんだ!!逃げるぞ!!ダン!!」


 アランがソフィアの腕を思いっきり引っ張ったその時、女が獣がとびかかるかのように二人へと襲い掛かる!

 アランとソフィアは身をひるがえして全力疾走をし、その後ろを女が形容できない声を上げて迫ってくる中、二人は怒鳴り声をあげる。


「ありゃなんだ!!」

「幽霊だろ!!というか、何だよそれ!!」


 ソフィアが叫びながらリボルバーの弾倉を横にスライドさせて、そこに装填された金属薬莢の弾丸を抜いていく。アランはそんなソフィアの手元を一瞬見て、疑惑の声をあげた。


「自作ピストル」


 面倒な説明を全部ふっ飛ばしてソフィアが答えると当時に、玄関扉にたどり着き、その両開きの扉に二人は体当たりをするかのように肩を当てて強引に開く。


「……で、あれは何だと思う?」


 果たして、そこには、スモックを着た中年の男がいた。それを見たアランが息を整えながら隣のソフィアに問いかける。

 ソフィアは左右を見て、このゴーストストリートに自分達三人しかいないのを認めると、実に大きなため息をついた。


「扉を開ける時、変な奴に出会い過ぎじゃないか?」


 背後には幽霊の女、前には農夫の男。

 ソフィアはそっと、銀の弾丸を弾倉へと込めた。

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