研究は悪だくみ

 マームズベリー侯爵の屋敷は侯爵と言う地位や田舎に邸宅を構えているというのもあって相応に広い。

 建てられた時期が少し古いのでパッラーディオ様式の影響がとても強いカントリー・ハウスは、ギリシアやローマ風の古臭くも威厳のある装飾が多いが、歴史主義的な様式は外交官であるジョージにはよく似合ったものだと言えよう。

 その邸宅の端の部屋において、そんな歴史主義的なものとは真っ向から反発することをしていたのはソフィアだった。

 彼女は真っ白な白衣を着て、ガラス製の実験器具を幾つも並べて研究を行っていた。今は無煙火薬を作るために様々な実験をしている所なのだが、本人はあまり楽しそうでは無かった。


(アスタロトを誤魔化すためとはいえ面倒な工程だな……)


 すでに知られている爆発物や激しく燃える物質をかき集めその共通点を洗い出したり、時にはすでに発見されている物質を再検証したりしていたのだが、時には無駄と分かっていてもやらないとならないのがソフィアにとって苦痛そのものだった。

 ただ、まだ原子や分子についての理解が乏しいこの時代、それに関する研究を積み重ねておくことは必要だと、ソフィアは自分に言い聞かせながらそう言った作業を行っていた。

 そんな彼女がコールタールを熱しながら蒸留を始めたその時、部屋にノックの音が響き、ソフィアは火を止めず器具から目を放さないようにして声だけで返事をする。

 部屋に入ってきたのはアスタロトであり、彼は手に紙束を持っていた。


「お嬢様。工房からの報告書です」


 工房とは、ジョージが屋敷に残っていた金を投入して作った蒸気機関車を研究開発する工場のことだった。ちなみに金を出すときジョージははやく詐欺会社から金を持ってこないと破産すると嘆いていたが、その嘆きは無視された。

 ソフィアは手を後ろに伸ばし、アスタロトはその手に報告書を乗せる。そして、それを受け取ったソフィアはテーブルに報告書を置き、ちらちらとその報告書に目を通しながらコールタールの分留を続ける。


「バルブとシリンダーの破損の報告がやはり多いな」

「特に複雑な部分ですからそうなるかと」

「結露した水が溜まってしまっている可能性がある、か」


 ソフィアは試作品の蒸気機関車の破損個所を見ながら予想通りだったか、とつぶやく。バルブとシリンダーは共に稼働部品であり、大雑把に言えばバルブは蒸気の流れをコントロールする部分、シリンダーはその蒸気の圧力を運動へと変えて車輪に伝える部分である。


「逆にボイラーの性能は向上し続けています。はっきり言って過剰性能と言えます」

「そうだな。ボイラーの重量が重くなりすぎているのも問題か。これではレールやシャーシが歪むんじゃないか?」


 ボイラーとは火を焚き水を沸騰させる部分であり、ここが蒸気機関車の心臓部である。効率よく新鮮な空気を供給し石炭を燃焼させ発生する熱を水へと伝達する、その改善はかなり上手くいっているようにみえたが、実際には熱風を通す煙管と呼ばれる部分が肥大化しボイラー全体が大きくなっているのでパワーが相対的に上がっているだけ、という可能性もあった。

 ソフィアは今あるボイラーから過剰なほどの蒸気を大量に供給されてはそりゃあバルブとシリンダーの不具合が多発するな、と納得しながらコールタールから出てくる泡を眺める。


(記憶が正しければこれはベンゼンだったはず。次がトルエン、フェノールだったがか?しかし、最初の内は不純物は多いだろうな)

「コールタールですか?」

「ああ。コークスを作る時に大量に出てくるようになるからな。研究しておきたかった」


 アスタロトが後ろからソフィアの実験を覗き込みながら問いかける。コークスとは石炭から不純物を取り除いたもので、石炭を蒸し焼きすると作ることが出来る。その際に出る不純物の一つがコールタールである。

 コールタールには様々な物質が混ざっており、その中には無煙火薬となるピクリン酸とトリニトロトルエン(TNT)の原料となるフェノールとトルエンも混ざっている。最終的にはピクリン酸は駆逐されてしまう物の、今纏まった量の原料を実験室で用意できる点と、すでに知られている物質であるという点、この2点でソフィアは合成に着手していた。

 加えて、コークスは蒸気機関車の燃料や鉄の精錬にも使用するのでこれから大量に必要になる物であり、その副産物としてコールタールも大量に余ると予想されていた。そのためソフィアはコールタールをどうにか有効活用できないかと研究をしていたのだ。

 アスタロトはコールタールから分留できる物質の価値を知っているからか、含み笑いをしソフィアがどこまで行けるのかを想像する。そんなアスタロトに内心ため息をついたソフィアはいくつかの意味を持つ言葉を小さく呟いた。


「予想以上に上手くいっているな」

「何がです?」

「蒸気機関車だよ。効率よく失敗できている」


 ソフィアは手を動かしながらとりあえず頭の中に入れた報告書を反芻しながら微笑む。工房にはいくつかの種類の設計図を手渡し、それを元に複数種類の部品を作っていた。そして、そのそれぞれを並行して実験し、そのどれがどのように失敗し成功したのかをノウハウとして蓄積していた。

 しかし、そういった地道な研究にアスタロトはどこか不満げで、ソフィアはそんな様子の彼により詳しく語って聞かせる。


「最初からすべて上手くいくなどあり得ないからな。多くの失敗が次の成功の糧となる。その点で、とてもうまくいっている」

「しかし、全て我々に任せてくださればもっと短期間に製造が可能です」


 今工房で働いている労働者の内、2割が人間のふりをした悪魔で、8割が純粋な人間であった。もしこれが全て悪魔だった場合、ソフィアが示した最も高度で先進的な蒸気機関車を作ることさえできただろう。

 しかし、ソフィアはそれを望まなかった。

 彼女は分離した、おそらくベンゼンと思われるものをビーカーに移すと、また別のビーカーでコールタールから分留される物質を採取しながら口を開く。


「第一に、何も失敗せずに完成品を作り上げては疑惑が生まれる。

 第二に、全てが経歴の無い技術者の場合、これでも疑惑が生まれる。

 第三に、人間を育てておかなければ拡大していく需要に生産が追いつかなくなる。

 第四に、様々な背景の人間を技術者に仕立て上げることで生まれるメリット。

 他にもあるが、聞くか?」

「いいえ、よしておきましょう」


 ソフィアは不純物の多いであろうベンゼンの入ったビーカーを見ながら、『最終的に悪魔を排除するのだから』という部分を隠してアスタロトのことを説得する。そして、工房から送られてきた報告書の話題はそこで終わり、ソフィアは次の話題へと脳を切り替える。


「それで、投資会社に溜まっている資金はどれくらいになっている?」

「予測の上では早ければあと2か月で、遅くとも5か月以内には目標金額に到達します」


 ソフィアは手を止めずに考える。あまりに上手くいきすぎていないか、性急すぎないかと。性急なのは確かにポンジ・スキームにおいては良い傾向だ。しかし、あまりに急拡大してしまえば裏を疑う人間も出てくるのはまた事実。

 ソフィアはアスタロトに問いかける。


「新聞ではどれくらい話題になっている?」

「最初のころは懐疑的な見方でしたが、最近は投資を煽るような見出しを出しているのが見受けられます」

「そうか。私は最近は過熱しすぎていると感じている。大口の投資の申し込みはいくつ入っている?」


 ソフィアはこの時初めて実験する手を止めて、両手を机につき、決断をする準備を始める。決断とは冷静さとエネルギーが必要なものだ、ソフィアはそれをよく知っていた。


「事前の命令の通り、大きすぎる投資は審査などと言って一旦止めています」

「詳細を」


 ソフィアが詳細を求めると、アスタロトはどこからともなく書類を取り出してそれを見せる。その中には名だたる資産家や貴族が名を連ねていて、ソフィアはその内容を精査していく。


「リーズ公……これが一番の大物か」

「そうですね。調べによるとこれから始める馬主業の足しにしようとしているようです」

「はぁ……馬主……馬主業もジョージにさせてやらないといけないのか?面倒だな……。

 いや、その悩みは今は放っておこう」


 ソフィアはため息をつきながら書類を机の上に投げ捨て、椅子にドカッと乱暴に座る。そして、目を閉じてここで投資会社を破綻させた場合、どれくらい計画に遅延が生じるかを考える。

 もちろん、目標金額に到達する前に引き払うのにはデメリットがある。しかし、これ以上続けても刺激してはいけない所を刺激するというデメリットもある。


(厄介なのは前者は計算できるが、後者はどこまで行っても空想となるところだな。

 最悪がエクソシストが出張ってくること、まだマシなのがスキームが看破されること、かなりの痛手がスキームがバレてその上資金回収が出来なくなる点。

 だが、それらがどのタイミングで発生するかが分からない)


 ソフィアはそれらのデメリットを天秤にかけようとして、やめる。

 ソフィアは両手を上げて肩を落とし、やれやれと自嘲気味な笑みを浮かべながら目を開いた。


「根本的に、だ。今ここでリスクを負わなくてもいい。

 何より、蒸気機関車さえ完成すれば真っ当に稼げる。

 アスタロト。予定よりかなり早いが、これらの大口投資だけ回収したら破綻させる」

「かしこまりました」


 ソフィアの決断にアスタロトは慇懃に一礼をした。そして、ソフィアはこめかみに指を当て、机に肘をつきながらこれからのことについてアスタロトと相談し始める。


「製鉄業に進出するのは遅れるだろうが、鋼鉄への精錬法の研究資金は確保できるか?」

「はっきり言って難しいかと。工房の技師を集めるのと設備投資に当初の計画よりも金がかかっています。

 女学校を作るという話も持ち上がったので、その分の資金も必要になります。

 無論。全ての技術者を悪魔にすれば現状集められる予算内で済むでしょうが……」

「それはしない」


 アスタロトは粛々とソフィアの相談に乗るが、その一方で甘い誘惑をすることも忘れない。悪魔とはそう言う物なのだが、ソフィアはどうしてもその誘惑を煩わしく思ってしまう。

 アスタロトはじっとソフィアのことを見つめ、ソフィアは頭の中でそろばんをはじき続ける。


(蒸気機関車はどうしても開発に時間がかかるから最初に着手したのは良かった。

 鋼鉄生産は蒸気機関車よりは短期に行えるはず。電信もだ。

 鉄道会社、女学校、無煙火薬と銃器開発……。やることが多すぎるな……。

 ギリシアに始まる東方問題はもうすでにイギリスを騒がせていて、ジョージにはしっかりと働いてもらわないといけない。

 できれば、ネイティブアメリカン、今はまだインディアンか。彼らとも接触したいし、細かい所ではケープ植民地にダイアモンドを発掘しに行きたい。

 投資詐欺で資金集めはやはり短期的には有効だが、長期的に見ればあまりに足りなさ過ぎたな……)

「うん……うん。そうだな、工房に投入する金を増やそう。それと女学校設立は継続で。製鉄業参入と精錬法の研究は延期。それと……」

「それと?」


 ソフィアはアスタロトの顔を見て、一つの体のいい厄介払いを思いついた。


「君達悪魔へ仕事を与えようじゃないか」

「ほう!」

「まず一つ。イングランド、ウェールズの地質調査。これはそこまで注力しなくてもいい。もうすでに行われているからな。確認と演習の意味合いが強い」

「では、本命は?」


 アスタロトは目つきを鋭くさせながらソフィアからの命令を待つ。そして、悪魔達の主人は立ち上がり、壁に貼られた世界地図へと歩み寄る。


「ケープ植民地」


 アフリカ最南端、先のナポレオン戦争でイギリスが獲得した土地を指し示す。


「元フランス領ルイジアナ」


 アメリカ13植民地以西、今アメリカが虎視眈々とインディアン達から奪おうとしている土地を指し示す。


「ワッハーブ王国」


 オスマン帝国の南、エジプトの東、砂漠の大地アラビア半島を指し示す。


「価値があるかは分からないが。これだけの広域、何かの資源はあるはずだ。例え今使えなくとも研究で使えるようになる可能性のある物もあるかもしれない、徹底的に地質と動植物を調べるんだ」

「はっ!」


 未来を知るソフィアはこの三つの土地、そのどれもから重要な資源が出ることを知っている。ケープ植民地周辺にはダイアモンド、プラチナ、金が。元フランス領ルイジアナからは鉄鉱石、石油が。アラビア半島はそれはもう大量の石油が眠っている。

 山師としてはこれ以上の無い精度であろう。しかし、アスタロトに疑われないように適当なそれでいてそれらしい理由もつけ足していく。


「目的を明確にしておこう。

 ケープ植民地は獲得したばかりで国がまだ全貌を把握していない。手を本格的に入れてくる前にこちらで何とかしたい。これが最優先。

 ルイジアナはできるならインディアン達と協力すること。十中八九アメリカ上層部は西進政策を取ってくるだろう。アメリカに力を付けさせ過ぎないためにもインディアンに武力を持たせたいからな、今の内から接触していこう。

 ワッハーブ王国辺りは後回しでいい。あくまで欲しいのはスエズ地峡だからな。この周辺の調査をするついでに、ムハンマド・アリーに恩を売るための地形図入手が目的だ」

「かしこまりました」


 隠された物を見つけることができるため、地面に眠っているものを実はすでに知っているアスタロトがそう頷いた時、騒がしい音が外から聞こえてきた。

 ソフィアが訝し気に窓の外を見ると、かなり速度を出した馬車が家の裏手を走っているのが見えた。

 そんな馬車を見て使用人たちが声を上げていたのだ。


「ジョージか?」

「恐らくは、何かがあったんでしょう」


 二人して窓の外を見ながら首を傾げ、しばらく待っていると研究室の扉がいささか乱暴にノックされる。


「入りたまえ」


 ソフィアがジョージに勘違いされいるため、アスタロト風に少し威厳を込めて入室を許可すれば、扉がゆっくり開き、外出用のスーツを未だ羽織ったままのジョージが一礼して入ってくる。


「慌ててどうした?」


 ソフィアが問いかけると、ジョージは一度深呼吸をしてから真に迫った表情で歴史的大事件を口にした。


「ギリシアとオスマンが戦争状態に入りました」

「……議会は?」


 いささかのの動揺も見せずに、いや、“見せなかった”という演技をした、その実一切動揺していないソフィアが言葉を返す。


「介入に傾くかと。戦時国債についてはもうすでに協議が始まっています」


 いわゆる東方問題。ギリシア革命からの一連の流れで、ギリシアはオスマンに独立戦争を仕掛け、ウィーン体制を維持しようとしたイギリスなどの大国が介入していくこととなるのがこのギリシア独立戦争だ。対するオスマンはムハンマド・アリーに援軍を要請したり、最終的には戦争に敗北しギリシアの独立を許すことにになり、彼の国の凋落が決定的になって行った歴史的なターニングポイントだ。

 それにソフィアは手を入れる気満々だった。


「スチュアート。オスマンに侵入している悪魔の首尾は?」

「金融詐欺を開始するところです」

「よろしい。予定通りに金や宝石の運用という名目で資金調達すること。ある程度まとまれば実際に相応に現物を買っていくぞ。

 こっちは資金を回収する気はないからな。好きに、派手に、楽しくやるぞ」

「御意に」


 ソフィアの言葉にアスタロトが実に楽しそうな笑みを浮かべながら美しく礼をする。

 そして次にソフィアはジョージに目線を向けると、手の指を組みながら語り掛ける。


「ジョージはムハンマド・アリーに接触はできそうか?」

「それは可能ですが、横入りはあまり良い顔はされないかと」


 ジョージは侯爵としてそれなり以上の貴族であり、有能な外交官だ。しかし、それでも外交官は彼一人ではないのだ。


「それはそれで構わない。必要なのはムハンマド・アリーをこちら側に引き込むことだからな。君はそういう提言をしていけばいい」

「引き込むとしても材料が少ないと思われます」

「スエズ利権では押しが弱いか。そうだろうな」


 ソフィアはそこまで言うとアスタロトのことを指さし、にやりと笑う。


「オスマンから大量の金を流出させようじゃないか」


 ソフィアのその言葉にジョージはごくりと生唾を飲み込み、戦争と金融詐欺で滅茶苦茶になるであろうオスマン経済のことを思うと背筋に冷たい汗が伝ったのであった。

 しかし、ソフィアの計画はそれだけではなかったようで、彼女は椅子から立ち上がると棚に置いてあったガラス瓶を一つ手に取ってジョージの目の前にコトンと置いた。


「それは……?」


 ジョージは黄色い物質が入ったガラス瓶に対し、その得体のしれないものはと、毒?はたまた呪いか魔術?と顔色を悪くさせながら問いかける。

 すると、ソフィアはそんなジョージの顔を見てふっと笑い、安心しろと言いたげにその瓶のふたを上からトントンと指で叩く。


「ただの黄色の染料だよ。ただの、ね」


 その名はピクリン酸といった。

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