クリアランス・後編
ロンディニウムの端、イーストエンドは夜になっても賑やかだ。その日過酷に働いた労働者がその疲れを何とか誤魔化したり発散するために、安酒で酒盛りをし、女を抱く。
中には喧嘩や問題を起こす人間もいて、それらを取り締まるために自警団染みたものが形成されてすらいた。今日、その自警団も犯罪組織や政治組織であったりするのが、市警や軍などの頭痛の種ではあるのだが。
そういった元気のある人間たちがいる一方で元気もなく横たわる者も、言葉すら通じない、そもそも肌の色も違う人間もいるのがイーストエンド。ここはロンディニウムから貴族と資産家、持っている者以外の全てが流れつく場所だった。
そして、そのイーストエンドを走るのは一台の馬車。
時刻は、賑やかなイーストエンドですら人々が明日のために眠りにつく時刻。
中にはソフィアとアスタロト、そして5人の赤ん坊が乗っていた。
「運河狂時代最盛期の時代に作られた水路が幾つかあるそうで、水路を隠すようにタウンハウスが作られ、小規模なスクエアを形成しているようです。
そして、そこにパブ、ネクタルがあります」
「組織だっていそうだな」
「恐らくは。いかがいたしますか?」
「話を聞くだけでいいからな。暴れるつもりはない」
ソフィアは肘をつき車窓から外を見ながら、アスタロトに言葉を返す。アスタロトはそれに残念そうにし、ソフィアは溜息を吐きながらアスタロトが望む殺戮を予告する。
「ただ、ジョージが一枚かんでいた組織はしっかりと潰しておく。今待機させている悪魔達を突入させろ。事前の命令の通りにするように」
この時代、アヘンはどこでも買えた。それこそ、ソフィアの隣にいるような、赤ん坊に泣き止ませるために与えることもあったほどに浸透していた。しかし、この世界では史実よりも早い段階でアヘンの規制が随分と進んでいて、今購入できるのは許可が下りている一部の薬局か、違法な取引をしているもぐりの薬局が最大手だった。
まだ、薬物の売人が跳梁跋扈するほどには人々に浸透しきっておらず、闇にも潜っていないアヘンの駆逐はそれなりに順調そうに見えた。
(規制のタイミングとしては正解だったのかもな……)
ソフィアは規制法を通そうとしている議会の評価を上昇させておく。
「後は航海法やら穀物法やらを何とかしないとなあ」
「両方とも自由主義者に猛烈に攻撃されていますね」
航海法、穀物法は共に保護貿易政策の一環として施行されている法律であり、前者はイギリス船でなければ輸出入が出来なくなり、後者は一定の値段の穀物の禁輸でイギリスの穀物を守るという物だ。
前者も密貿易の増加などを引き起こしたが、特に後者の法律は数多くの問題を孕んでおり、地主貴族や農業資本家に対する優遇が過ぎたことや、高騰していく小麦の価格で労働者がパンを買えなくなるなどの事件を起こした。
この世界でも、ピータールーの虐殺は発生し、それはソフィアが生まれる前の物であったが、未だにこの事件は人々の心の奥底に負の記憶として残っているのだ。
(確かにこの保守的な法律は邪魔だ。だが、これは逆に利用できる可能性もある。
物事を一面的にとらえてはダメだ。もっと視野を広くしなければ)
ソフィアは常に考え続けていた。どうすれば競争に打ち勝てるのかを、どうすれば最終的な勝利条件を満たせるのかを。
(悪魔達もいずれ邪魔になる。排除の方法も考えておかないとな)
ソフィアはちらりとアスタロトのことを見る。彼の悪魔は御者に道を指示していたので、ソフィアが彼に視線を向けたことは気付かれてはいない。ソフィアは気付かれる前に視線を流れる景色へと向け直す。
悪魔は悪魔らしくろくでもないことを考えているのだろう。馬鹿正直にソフィアにしたがっているわけではない。悪魔達にも悪魔たちなりの勝利条件がある。
(霧の都のマギでは、ルシファーの復活が悪魔達の共通の目的だった。
ルシファーはこの世界を滅ぼすつもりだ。故に私とは相容れない。
だから――)
「お嬢様。目的地、ネクタルにつきました」
「わかった。店主を呼び出せ」
「御意に」
アスタロトの言葉にソフィアは気持ちを切り替えて命令を下す。そして、馬車を降りていったアスタロトを見送った後、彼女は額に親指を当てながら俯き加減に目を閉じ、小さく呟く。
「アスタロト、君もいつかは排除しなければな」
例え聞こえていたとしてもよかったその呟きは、馬車の中の赤ん坊しか聞いてはおらず。やがてアスタロトはネクタルの店主、一見するとただの初老の男性に見える人間を馬車の前に連れて来た。
「一体何のようだ」
他人を信用していない目で店主がそう言えば、ソフィアは声を男の物に変えながら声を発する。
「そう警戒するな。少し尋ねたいことがあっただけだ」
「警戒するな?はっ!無理だね。顔も見せない輩をどう信用しろってんだ」
馬車の中から聞こえてきた声に店主は警戒心をさらに上げながら言葉を返す。加えて、隣に立つアスタロトからじりじりと距離を離してもいるようだった。
「それもそうだな。まあいい、質問だ。Jという人間を知っているか?」
店主は何も言わずに肩を落とすジェスチャーをする。そのジェスチャーの意味はどうとでも取れたが、ソフィアは『誰が信用できない奴に話すかよ』ととらえた。
「スチュアート。例の物を」
ソフィアの声でアスタロトは馬車の荷台からいくつかの木箱を下ろしていく。その中身は本来運び屋たちがこの店主に卸そうとしていたアヘン、それに加えてジョージが購入していたアヘンだった。
アスタロトは木箱の蓋を開け、店主に中身を確認させる。すると、店主はみるみる顔を青ざめさせ、手を震わせながら馬車の方を見る。
「運び屋たちは始末した」
「警察か?……違うな、やり口が残酷すぎる」
店主は目敏く木箱についていた血痕を見つけていた。真実、それはソフィアたちが後から目立つように塗りたくった物だとは気付けるはずもなく。
「私は君には興味がない。だからこのアヘンは差し上げよう」
「……」
「だから、Jと言う人物について知っていることを話せ」
不信感と嫌悪感、それから敵愾心と恐怖心をないまぜに店主が口を開いたり閉じたりして、言うべきか言わざるべきかを迷う。
そんな様子を馬車の中から見たソフィアは小さくため息をつき、店主に語り掛ける。
「私の目的はJだ。Jはアヘンと人間を売買していた。
Jを辿るために運び屋を探し出し、排除した。だが、彼らはあまりロンディニウムの内情については詳しくなかった。何も知らなかったと言ってもいい」
ソフィアは原野で尋問した運び屋たちが殆ど情報を持っていなかったことを思い出しながら語り続ける。結局得られた情報は取引をしていた人間の偽名くらいだったのだ。はっきり言って、何も情報が得られなかったと言ってよかった。
「ある意味当然だろう。彼らはただの媒介だ。媒介は何も知らなくても機能する。故に何も知らされていなかった。
だが、君は違うだろう?
少なからずロンディニウムに通じているはずだ。アヘンの密貿易に目を付けた様に目端も利くし、伝手もある程度あるのだろう。ある意味素晴らしい才覚だ。
推理して見せようか?君の素性は……」
ソフィアがそこまで行ったところで、店主は一切の訛りの無い言葉で怒鳴り始めた。
「もういい!!黙れ!!Jの何が知りたいんだ!!」
「Jが何者か知っているか?」
「知らない!」
「Jの目的は?」
「知らない!」
ソフィアはまず、勢いのまま即答できるであろう質問を投げる。そして、続いて一番知りたいことを簡潔に問いかけた。
「Jのシマは?」
「この北隣の通りだ!そこで最近色々やってた」
「それだけ?」
「ああそれだけだ。もういいだろう!?俺はほとんど何も知らないんだよ!」
店主が首を振りながら両手を上げてもううんざりだと声を荒げる。その様子を見たソフィアは自分の目的は達成できたと頷く。
「ありがとう。行くぞ、スチュアート。店主よ、迷惑をかけたな。
くれぐれも今日のことは内密に」
アスタロトに声をかけ、店主から見えない方の扉から彼を馬車に乗せると、馬が嘶いて馬車が発進する。残された店主は頭を掻き、足元に残されたアヘンの入った木箱を思い切り蹴飛ばすのだった。
そして木箱を運び込み、店の奥へと引っ込もうとしたとき、彼の意識は暗転して、一生戻ることはなかった。
一方、動き始めた馬車の中ではアスタロトとソフィアはすぐに切り替えて次の話し合いを始めていた。
「ジョージはまだあまり影響力は持っていなかったようですね」
「そうだな。助かったよ。これで店主がJについて噂話でもなんでも話し始めたら頭を抱えるところだった」
「となると」
「これから向かう先で売人を殺せばロンディニウムからJの影を消せる」
ソフィアはあらかじめジョージに聞いていた密貿易の拠点と、先ほどネクタルの店主から聞いたJのシマが一致したことに安堵を覚える。喫緊の問題が無くなることはとても僥倖であり、限りのあるリソースを無意味なものに向けなくて済むようになったのはとても喜ばしいことだった。
「あとは海外ですが……」
「それは昼に話した海外で金融詐欺をするときに接触、その後破綻させると同時に一掃する」
「上手くいきますか?」
「上手くいかせるんだ」
アスタロトの提言にソフィアはあらかじめ考えていた策をすぐさま返す。そして、上手くいくだろうと楽観視もしていた。最悪何もしなくてもジョージは裏社会での活動をやめる、そうすれば時間が経てばJの存在は風化していくと考えていたのだ。
しかし、それでもソフィアは頭の片隅で最悪の状況の想定はしておく。下手に一掃に失敗して利益度外視の復讐心を持たれることだけは避けておかなければいけないことだろう、と。
「お嬢様。目的の場所につきました」
「ああ。向かおうか」
馬車は狭い路地で停車する。若干汚いテラスハウスの壁によった馬車の扉を開き、通りからは見えないようにしながらソフィアは両手にカバンを持って裏口から建物の中へと入っていく。
廊下には明かりがともっておらず、月明りも差し込まないのであまりにも暗かった。
しかし――
「あまりに血なまぐさい」
そこにはむせ返るほどの血の匂いが充満していた。ソフィアは不快そうに顔をしかめながらランプを灯し、それを掲げる。アスタロトは彼女の数歩先を歩き始め、今夜の旅の終着点へと案内を始める。
「悪魔ども、ここを綺麗にしておくのを忘れていないだろうな……」
「それは大丈夫でしょう。命令には絶対忠実なのが我々悪魔ですから」
ソフィアの最初に描いた物語は、一夜にしてこのテラスハウスの人間が忽然と失踪した、という物だ。ジョージに自分の子飼いの配下を全てこのテラスハウスに集めさせておき、悪魔には一切の殺しの証拠を残さずに始末させてその物語を完結させようとしていたのだ。
血も暴れた形跡も何かを持ち出した雰囲気も無い不気味な事件。
一つの都市伝説として語られるくらいが、皆殺しのカバーストーリーとしてはちょうどいいだろうとソフィアは考えていたのだ。
しかし、今はどうだろう。廊下を歩き通り過ぎる部屋からはうめき声や悪魔のだろう嬌声が聞こえ、それはあまりにも不気味に過ぎた。
「後から修繕のために魔術を使ったから対価をよこせと言われても応じないからな」
「大丈夫ですよ」
ソフィアはまた一つため息をつきながら廊下をアスタロトの先導で進む。彼らは一旦2階に上り、それからまた廊下を進んで次は下る階段へと歩みを進める。
その下り階段は通常よりも長く、やがて一階以上の高さを下って、鉄扉へとたどり着く。
「ここです」
「わかった」
ソフィアはカバンを下ろしてから一つの鍵を取り出し、その鉄扉へと近づく。そして、その鍵を差し込む前に彼女はランプを掲げて鍵穴を覗き込む。
「機械的にも魔術的にも鍵がかけられているのは話の通りですね」
「そうだな。私にもわかる」
機械的な鍵そのものはかなり単純で古いものだった。ウォード錠と呼ばれるタイプで、機構としてはいくつかの障害物がただ設けられているだけの簡単にピッキングが出来るもの。
しかし、ウォード錠の特徴的な所は鍵の形を複雑にすることが出来るという点で、今ソフィアの手元にある物はその鍵の形を魔術の起点にし、その効果によって鍵としての堅牢さを担保していたのだ。
「うん。大体わかった。開けるか」
ソフィアは魔術のことはまだ分からない。しかし、魔術とは何かを一目見れたのは収穫だと頷き、鍵を差し込み、回す。
油をきちんと差して手入れされていたのか、鍵は一つも引っかかることはなく回り、カチャンと小気味良い音を鳴らす。
そして鉄扉を開けば、そこは倉庫だった。
木箱が整頓して並べられ、ソフィアがそれに近づいて中身を見ると、そこには何らかの書類か本が敷き詰められていた。
彼女がその中の一つを手に取り中身を見てみれば、それは3年前の冬の日付であり、そこに書かれていた内容はよりよい素体を作るための母体の選定についてだった。
具体的に言えば、素体とはアスタロトに捧げるための赤ん坊のことで、母体とはその母親のことだった。
それを読んだソフィアは興味深そうに書類を読み進めるが、今はそれどころではないと顔を上げる。
「凄いなこれ。私の母親はこうやって選んでいたのか」
「こちらはウィーン会議の時の工作についてですね。ケープ植民地を取るのには相当苦労していたみたいです」
「さっさとこれらを持ち出すぞ」
アスタロトも面白そうに箱の中を漁っていたが、ソフィアはそれを遮って最後の目的を果たそうとする。
今日このテラスハウスは一大事件の中心地になるのだ。こんな文章を残せるはずもなく、すべて回収しておかなければならない。ジョージは密貿易の証拠もあるので屋敷に置いておくよりもここの方が安全と考えたのだろうが、今となってはここが最も危険な場所なのだ。
アスタロトが木箱を幾つも担いで部屋を出入りし始めると、ソフィアはその間に鉄扉の魔法の錠前を取り外しにかかる。後からつけ足したものなので手順さえ分かっていればそれは簡単に取り外せ、その代わりに通常のもの、このテラスハウスの各部屋にも使われているものと同じ錠前を取り付ける。
(捜査官の中には魔術に詳しい奴もいる可能性があるからな。
命令しているとはいえ悪魔も魔術を誤魔化し切ってくれるだろうか)
霧の都のマギにはエクソシストと呼ばれる組織が登場し、怪事件が起きれば彼らも警察に加わって捜査をする。ソフィアはそんな彼らを恐れて鍵を取り換えているのだ。
「こちらは終わりました」
「こっちも終わった。後は汚すだけだ」
ソフィアが新たに取り付けてピカピカな錠前を、煤や持ち込んだ薬品を使って汚していく。そうすれば数分で数年は使いこんだようにみえる錠前の出来上がり。
アスタロトも書類の代わりに替えのランプや油、ペンキなど日用雑貨を運びえたことをソフィアに告げる。
これでソフィアが今日計画していたことすべてが完了した。
「さて、返るか。流石にもう眠い」
ソフィアが地下室から階段を上っていくと、先ほどまでは嫌になるほど血生臭かった空間が、古い家の匂いだけになっていたことに気が付いた。
ソフィアがそれにびっくりしているとアスタロトはしたり顔で胸を張る。しかし、ソフィアはそんなアスタロトを無言で睨みつけることで全てを物語ったのだった。
二人が馬車に戻ってくると、馬車は静かに発進する。誰にも見つからないように迷路のような路地を縫って走り、今日はこのままロンディニウムを出て行くつもりだった。
そんな馬車の中で、ソフィアは後回しにしていたものと向き合った。
5人の赤ん坊である。
(原作ではこの5人のだれかが悪役令嬢のソフィアになるんだよなぁ)
ソフィアは感慨深そうな視線を赤ん坊へと注ぐ。
本来のストーリーでは生まれたばかりのジョージの実の子供はアスタロトの贄とされ、その代わりに買ってこられた赤ん坊がソフィアとして育てられる。そして、育てられたソフィアはアスタロトとジョージの駒として動き、とあるタイミングで主人公と出会うのだ。
しかし、そうはならなかった。ジョージの実の子供は生きているし、今はその子供がソフィアだ。
年齢操作をしている関係上、実のソフィアの代わりに育てられる赤ん坊は必要だったが、まさか5人もいるとはソフィアは考えていなかった。ジョージには赤ん坊を買ったと言われただけで、ソフィアは勝手に1人だけと勘違いしていたのだ。
「後はこの赤ん坊だが……そうだな……。どうしようか」
ソフィアは赤ん坊全員が金色の髪を持っていることに気が付きながらため息をつく。ソフィアを含めそれぞれ色合いは違う物の、上手く探してきたものだと彼女は変に感心をした。
そして、ロンディニウムを出たあたりで、ソフィアは一つ、閃いた。
「ジョージに言って女学校を作らせるか」
「女学校ですか?」
「ああ、これは……名案だぞ!すべてがかみ合う!」
「はあ……。と、いいますと?」
アスタロトが首を傾げながら問い返すと、ソフィアは喜色満面、今までで一番良い笑顔で頷く。
「簡単に言えば、女性を集めて彼女達に多くの功績と栄誉を持たせる。数学、化学、機械工学、あらゆる分野で活躍する女性を生み出すんだ。
新たな発見は投資先を生み出せるし、大学を作ればその新たな発見も生み出しやすくなる。
そうすれば、どうだろう?
それはきっと、巨大な爆弾となって行くだろうよ」
(それに、私が持っている未来の知識を自然と潜り込ませることもできる。
なんでこれを思いつかなかったんだ!
これはアスタロトには言えない。言えないなあ!)
ソフィアは一人目をつぶりニヤニヤと次から次へとあふれ出てくるアイデアを精査しながら解説をする。それの真意に気が付いたアスタロトも悪魔らしい笑顔を作っていくが、それはどこかソフィアの笑顔とは方向性が違う様に見えた。
ややあってソフィアが目を開けると、赤ん坊の方を向き、口を開く。
「どうだ?賭けるか?アスタロト。この子達が優秀な人間になるかどうかを」
アスタロトは赤ん坊のことを覗き込み、それからため息をついた。
「賭けになりませんよ」
「そうか。きっと、この子達には色々なことを成し遂げさせるぞ」
ロンディニウムを離れ月夜の下走る馬車の中で、ソフィアはいかにして子供を育てて、彼女達に数多の栄光を勝ち取らせるのかを考え続けるのだった。
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