クリアランス・前編

 ソフィアとアスタロトがロンディニウムを巡り、契約も済ませたその夜。馬車はロンディニウムの東、グリニッジから少し離れた場所にあるテムズ川の岸辺に来ていた。深夜のテムズ川は暗く、特に開発もされていない芝生が生えた湿地は灯りが無ければ方角も見失ってしまいそうだった。

 そんなロンディニウム近郊にあって辺鄙な場所でソフィアは灯りも無く暗い馬車の中に居て、アスタロトと御者だけが外に待機していた。


「そろそろですね」


 アスタロトがそう呟くと、テムズ川の方からいくつかの灯りが現れ、それがゆらゆらと揺れながら近づいてくる。灯りで浮かび上がる影は十数人の屈強な男達。彼らは密貿易の運び手であり、未整備の原野を歩き難そうにえっちらおっちらと大荷物を背負ってやって来る。

 そして、随分と時間をかけてやって来ると、彼らは警戒心露わにライフルを向けながらアスタロトに問いかけた。


「Jの旦那の使いですかい?」

「ええ」

「じゃあ、合言葉言ってくれるんですよね?」

「The devil can cite Scripture for his purpose.

【悪魔も自分の目的のために聖書を引用する】」


 アスタロトが合言葉を告げれば、ため息と共に運び屋たちはライフルを下ろす。そして御者が彼らに近寄っていくと、地面に置かれた木箱の蓋を開けてその中身を確認し始めた。

 一方そのころ馬車の中のソフィアは、ジョージが一丁前にJと名乗っていたことに一人で吹き出して笑っていた。


「確認しました。アヘンと赤子5人、きっちりいます」

「そうですか」


 御者の言葉にアスタロトが頷くと、運び屋の中の一人、この部隊のリーダーらしき男が口を開く。


「報酬の話だ。赤ん坊は用意が簡単だったから安くていい。だが、アヘンは高く買い取ってもらうぜ。なんたって、突然禁輸品やら使用禁止にされるっつーんでウチもおおわらわなんだからな」

「と、いいますと?」


 リーダーの言葉にアスタロトが首を傾げる。すると、リーダーがちょいちょいとこっちによってくるようにジェスチャーをし、アスタロトはその通りに彼に近づく。すると、リーダーはアスタロトと肩を組み、声を潜めて話し始めた。

 そうやら他の人間にも聞かれたくない内容らしかった。


「Jに伝えておいてくれ。詳しくは言えねえがインドのケシ農園に軍がやってきて、接収するために発砲してきやがった。軍にバレてない畑はまだまだあるが、生産量と運び出せる量は減る。

 だから今後とも付き合いをするなら、軍を牽制するなり金をたんまり積んでくれ」

「……信じろと?」

「俺らが持ってるライフルはその軍から奪ったものだぜ?おい!そのライフルを見せてやれ!」


 リーダーが顎をしゃくって見せると、護衛の男がライフルをニヤニヤとしながら見せびらかしてくる。確かにそれはイギリス軍が正式採用しているライフルだった。


「人身売買は全く大丈夫だからな今後ともヨロシク。だた、今後も赤ん坊とかにしてくんねぇ?仕入れが簡単なんだよ」


 リーダーがそこまで言い終わると、彼は組んでいた肩を外して離れていく。そして、御者が木箱を馬車まで運び終えアスタロトが報酬の支払いをするタイミングで、馬車の中から静かな声が場に響いた。


「スチュアート。やれ」


 その言葉にアスタロトがぱっと右手を挙げた瞬間、ダーンッ!という銃声が何発も原野に鳴り響く。そして、その銃声と重なる様にバリンとガラスが割れる音、その瞬間あたりが真っ暗闇になった。


「やられた!!全員集まれ!!」


 ランプの灯を無理やりかき消されたことに気が付いたリーダーが叫び声を上げ、護衛の元へと走り寄る。しかし、その間にも事態は進んでいき、護衛の誰かが銃声を鳴らしてしまう。

 煌びやかなマズルフラッシュと共に、その銃口の近くにいた男の腕がはじけ飛んだ。


「あ゛あ゛あ゛ぁ!いでぇえ!」

「やめろ!撃つな!仲間に当たる!」

「じゃあどうしろって言うんだよ!」

「俺は逃げるからな!」

「やっぱり赤ん坊はダメだったんだよ!」

「軍か?軍なのか?あの時に手を引いておけば!クソが!」


 パニックになった男たちは統制も取れなく口々に怒声を上げ、何人かがその場から駈け出していってしまう。しかし、彼らの声はすぐに闇の夜中で途絶えることとなった。

 そして、そんな集団を原野の暗がりから冷徹に見つめるのはアスタロトと彼の部下たち、悪魔だった。悪魔達は暗闇でも先を見通し、パニックを起こしている集団へと音もなく近寄って彼らのことをいともたやすく地面に引き倒して制圧していく。


「ぐえ」

「やめろ!まだ船に仲間はいるぞ!お前らなんてッ!」

「金ならある!いくらでも払う!」

「命だけは助けてくれ!お願いだ!」

「嫌だあ……死にたくねぇ……」


 そんな男達の声も悪魔達が猿ぐつわを掛けていけばただのうめき声に早変わり。やがて銃声と怒声が響いていた原野には静寂が、木箱の中で泣く赤ん坊の声を除けば確かに静寂が訪れた。

 猿ぐつわを噛まされた男達は後ろ手に縛られ、いつの間にか灯りがともされた馬車の前へと転がされていく。

 アスタロトを含めた悪魔達はただの一般市民の格好をしていた。そんな中の何人かは転がっている男たちの顔をまじまじと見た後、その顔へと素顔を変化させていたが、明らかに異常なその光景に気が付いた人間はいなかった。


「では、質問に答えてもらおう」


 最初にこの事態の引き金を引いたものと同じ声が馬車の中から原野に響く。それは男の声だった。その実、声の主はソフィアなのだが、上手く声色を変えて女とは到底思えないような低い声を発声していた。


「今日の取引はこれだけか?」


 その質問に、集団は一様にリーダーへと視線をやる。アスタロトは彼の猿ぐつわを外してやって、質問に回答できるようにしてやった。彼は殺意を湛えた目で馬車を地面から見上げ、唾と共に言葉を吐き出す。


「チッ!誰が言うもんかよ」

「別に君がしゃべらなくてもいい。その他の人間に聞くだけだ。一旦黙らせろ」


 ソフィアの指示にアスタロトは運び屋の口に再び猿ぐつわを噛ませ、次は一番屈強な男のそれを外す。


「今日の取引はこれだけか?」

「しっ、知らねえ……」

「本当にか?」

「……」


 男は馬車の灯りから目を逸らすように暗闇へと目を向けながらそう言う。明るさの問題で外から中は見えずとも、中から外が見えているソフィアは一つ頷いて、アスタロトに命じて口をふさがせる。

 そして、同じことを順繰りに繰り返していき、最終的には全員に同じ質問を投げかけた。

 それが終わると、ソフィアは緊張感を与えるために時間を取ってから口を開く。


「さて、君達の殆どは殺される。だがチャンスをやる。取引だ。この中で情報を吐いた人間は牢屋に入れるだけにしてやろう」


 一拍置く。

 組み伏せられた男たちは自分に来たる結末に一様に顔を青ざめさせていたが、僅かに見えた希望に目を輝かせる。


「だが、それに加え、最も最初に情報を吐いたものは見逃してやる。そして……」


 また一拍。

 取り押さえられた男たちは各々目を合わせたり、逆にそっぽを向いて誰とも視線を合わせないようにする者もいた。


「最も多くの情報を提供してくれた者、喋った情報が他の人間と被らなかった者、これらは報復から保護し、かつ新たな仕事も与えてやろう。

 スチュアート。全員を離れた場所に移してやれ。お仲間がいては喋れるものも喋れないだろう」

「御意に」


 アスタロトが指示をすれば悪魔達は男達をそれぞれ離れた場所へと連れていこうとする。その時、一番屈強な男の猿ぐつわが外れてしまった。


「イーストエンド!イーストエンドでアヘンを売る!ゴホッ!喋ったぞ!俺は喋ったぞ!助けてくれ!」


 男は喉が枯れてせき込むほどに大声を出す。そんな彼のことを他の男達、特にリーダーが射殺さんばかりに睨みつける。しかし、情報を吐いた男は息を切らしながら期待のまなざしで自分のことを縛る人間のことを見上げる。


「約束だ。放してやれ。


 馬車の中から許しの声が響けば、縄はすぐさま解かれ、男は這う這うの体でその場から逃げだしていく。走り出した彼は馬車の灯りの範囲を超え、すぐに闇夜へと消えていった。


「さて、無罪放免権は消費された。だが、イーストエンドで誰に売るんだ?さあ、思う存分喋ってくれたまえ。期待しているよ」


 残された男達も馬車の灯りから離されて闇の原野へと引きずられていく。残されたのはソフィアとアスタロトと御者、加えて何もわからずに泣き声を上げ続ける赤ん坊だけ。

 するとガチャリと音を立てて馬車の扉が開き、中からソフィアが地面に降り立った。


「吐くでしょうか?」

「吐くだろうよ。吐いた方が自分に利益がありすぎる」


 アスタロトの問いにソフィアは手短に返しながら赤ん坊のことを抱き上げて、その赤ん坊のことをあやし始める。


「ほら泣かないで、べろべろばぁ~。ほら、君もあやすのを手伝え」

「あ、はい」

「たか~い高い」


 意外にも優し気な声色であやすソフィアと、こういったことに慣れない様子の御者との二人がかりで赤ん坊のことをソフィアがあやしていると、アスタロトが原野の方を見ながら声をあげる。


「先ほどの男が死にました」

「食っていいぞ。ああ、君には関係ないからね、泣かないで」


 イーストエンドでアヘンを売るという情報を吐いた人間の死亡報告に、ソフィアは適当に返す。そして、なんとか泣いていた赤ん坊のことを泣き止ませ、一息つこうかと言う所で、一人の悪魔が返ってきた。


「ご主人様。私担当の男は何も知らなかったようなので殺しておきました」

「わかっ『おぎゃあ!おぎゃあ!』……君も手伝え、有無は言わせん」


 せっかく泣き止んだ子が悪魔の割れた声でまたも泣き始めたので、ソフィアはその悪魔のことを鋭く睨んだ。

 そうやって赤ん坊のことを3人がかりでなんとかあやして落ち着かせると、ソフィアはため息交じりに馬車のステップに腰かける。赤ん坊に指を握られたままだったので、彼女は赤ん坊の好きにさせてやっていた。

 そして、遠くの方、テムズ川河口があるであろう方向を見ながら呟く。 


「河口付近で停泊していた母船も今頃軍が拿捕して検閲しているだろうな」

「そうでしょうねえ」

「先に潜入させた悪魔達の首尾は?」

「船夫は全員殺し、船長以下数名は誘拐して尋問中です。ジョージとの今回の取引を知っている人間をひとまずは排除できた可能性が高そうです」

「そうか」


 状況が自分の思い通りに運んだことにソフィアは特に感慨も無さそうにし、一方で赤ん坊が握ってくる指を通してその生命の暖かさと柔らかさに微笑んでいた。

 しかし、アスタロトはそのソフィアの微笑みを勘違いしたのか、密輸船で行われた虐殺に思いを馳せながらうっとりとしながら口を開く。


「軍は今頃どう言う反応をしているんでしょうね?

 密輸船が血だまりになっているのを見て青ざめるのか、それとも自分達が接収したアヘン畑に関係のありそうな船がもぬけの殻になっているのに青ざめるのか、ああ、これが他国に伝わった時に密輸出側が情報が漏れたことに青ざめるのかも……」


 ソフィアは楽しそうにしているアスタロトのことを放っておいて、この夜に端を発する一連の計画はまだ初手を打ち終えただけだと気を引き締める。

 今回、ソフィアは元々予定されていたジョージと密貿易商との取引――ソフィアを生贄にした後に育てる代わりの赤ん坊を用立てしていた――に合わせて、関係者を一掃することでジョージの背後をクリーンにしようとしていた。

 そしてその第一歩がこの夜の惨殺であり、これはまだただの第一歩だった。

 そもそも、密輸入は密輸出側もいて成立するものであり、今回は密輸入側を一旦掃除しただけである。

 その上、今は活動しておらずともジョージは世界ヨーロッパ中をまたにかけて密貿易網を構築しようとしていたし、原作では悪魔の力を借りたとはいえそれを成し遂げて社会の陰に大いに巣食ったのだ。

 ただ一隻の船を沈黙させたところで、彼にまとわりつく犯罪の匂いを全て消すことはできない。

 しかし、だからと言って何もしないわけにはいかない。何事も最初の一歩を踏み出すことが肝心なのだ。それが例え褒められることではなくとも。


「ああ、そうだ。これが船にあった書類です」


 アスタロトがどこからともなく取り出してきた書類の束と手記をソフィアに手渡す。彼女がそれらを見ると、通常の航海日誌と今回の取引とは別のいくつかの密貿易の情報、それから意味不明な文字の羅列が書かれてあった。書類すべてに目を通した結果、その文字の羅列には規則性があることが見て取れもした。

 ちなみに、男たちが離していたイーストエンドへのアヘン納入も場所だけは平文で記載されていた。


「暗号化されているな。コードブックは?」

「船、そして今ここにいる集団は誰も持っていません」

「この文章はリーダーや船長の物ではないのか?」

「違うようです。……証言によれば鞄に入れて特定の場所に埋める予定だったようです」

「送り主はアヘン農園側か人身売買側として、受け取り主はロンディニウムの犯罪シンジゲートか?それとも、軍と対立する人間?そもそもアヘン農園を接収しようとした軍か……?」


 ソフィアは一人考える。物語開始よりも20年も先んじて動き始めたので、原作知識が十全に機能しておらず、そのため未来の出来事というヒントはあったとしても、現在の真実をそのまま詳らかにすることはできなかったのだ。

 そんな悩むソフィアにアスタロトはニヤニヤとしながら話しかける。


「魔術を使いましょうか?今ならお嬢様の片目で使って差し上げますよ」

「いらん。こういうのは自力で解くのが楽しいんだろ」


 ソフィアがため息交じりに魔術の行使を拒否する。今回の襲撃もある程度は魔術を使用しているものの、そのどれもが強力なものではなく少し何かを誤魔化したり、悪魔が本来持つ性質などを利用したものだった。

 そうやってかたくなに魔術を使用しないソフィアにアスタロトはこうやって誘惑をして、ソフィアはそれを受け入れないのだった。

 そうこうしている内に尋問が進んでいき、アスタロトは時々闇夜の方へと視線を向けて何度か頷く。


「情報が入りました。アヘンはイーストエンドのネクタルと言うパブに卸すつもりだったようです」

「パブか。労働者にアヘンと酒を提供するんだな。近くに娼館もありそうだ」


 アヘンの卸先に納得したソフィアは、指を掴んでいる赤ん坊を猫なで声であやしながら指を引き抜き立ち上がる。


「さ、そのパブに行くぞ。まだまだやりたいことはあるからな、雑事はさっさと済ませよう」


 彼女がそう言っている間に、悪魔達が戻ってくる。そして、馬車のランプに照らされ始めた彼らは一様に赤く濡れていて、中には口から滴らせている物さえいた。

 ソフィアは彼らが見えると、自分の外套を脱いでそっと赤ん坊に被せてやるのだった。

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