悪魔との契約

 イギリス帝国の首都――この世界ではロンディニウム――における19世紀という時代は未曾有の人口増加によって様々な問題が表面化した時代だった。その問題は後のヴィクトリア朝の中期後期にかけて大規模な都市浄化が行われるまで遅々として解決がなされない問題だった。

 そして、そんなありとあらゆる問題の種がバラまかれ始めている時代のロンディニウムの大通りを、一台の馬車ががらがらと音を鳴らしながらゆく。


「不潔だな」


 そんな馬車の中でソフィアが眉をひそめて不快感をあらわにしながら呟く。彼女の前にはアスタロトが座っており、彼は馬車の中だけでも快適に過ごせるようにとソフィアの指示で焚かれた香の管理をしていた。


「下水が整備されているとはいえ追いついておらず、工場が乱立し、その廃液も垂れ流されていますからね。ここはまだマシでしょう」


 アスタロトが横目で馬車の外を見ながら言う。

 レンガ造りの家々が立ち並び、歩行者用道路には水平に均された石が敷き詰められ、馬車が通る道はしっかりと固められた砂利と土で作られていた。

 歩行者もそれなりの服を着て、ショウウィンドウを見ながらショッピングを楽しんでいるのが見える。世界に冠たる帝国の素晴らしい黄金の夜明けの光景である。

 しかし、それでもソフィアの目からは悪い環境に見えていた。

 道路には馬の糞尿が垂れ流され、そもそもその道路が砂利と土で舗装されているのもいただけない、時々見える路地にはごみが散乱しているのすら見えた。


「テムズ川沿いを走ってくれ」

「御者よ、テムズ川沿いに走りなさい」


 ロンディニウム塔――現実ではロンドン塔――のある中心街を一通り見終わったソフィアはそこから移動する様に進路を変更させる。


「馬と道路、下水システム、ごみ処理もか……」


 そして、ソフィアはそう呟きながら窓の外を見ながら思索にふけり始める。

 車窓を流れていくのはまだまだ発展途上の街で、あちこちで建設を行っているのが見えた。木で足場を組み、レンガを積み立て、必死に背を高く伸ばしていくのは今の成長を続ける帝国の象徴ですらあった。

 そして、そんな背の高い建物の間にみすぼらしい人々がいて、彼らはきっと新たな職に就けると農村から飛び出してきたのに、仕事にあぶれたり、仕事につけても低賃金で使い潰されているのは、それこそ帝国の縮図であった。


(馬を駆逐するのにはやはり車が必要になるだろう。だが、それには内燃機関が必要で……、それを0から開発するにはやはり長い時間が必要になるな。

 本編開始時期に間に合わせることを考えると、自転車を作るのが精一杯か。

 道路のアスファルト舗装は不可能ではない、はず。

 下水処理、工場廃液には手を入れたいがそこまで手は回らないだろうな……。本編で劣悪な下水網を利用した奴が出るから今の内から対処をしたかったんだが……)


「お嬢様。テムズです」


 景色を目に入れていても、見てはいなかったソフィアにアスタロトが声をかけてくる。

 その声で現実に返ったソフィアは窓の外のテムズ川を見る。

 ロンディニウムを貫くように何度か歪曲しながら流れるその川は、人が来る前は清流だったのだろうが、今はその見る影もなく汚らしく濁っていた。何かの泡が浮き、何かの破片のゴミが浮き、時にはまだ真新しいであろう帽子が流れていく。

 それを見ながらソフィアはため息をつく。


「これからもっと汚くなるんだろうな」

「でしょうね。人々は更にロンディニウムに集まってきて、もはやパンクしかけているこの都市は完全に破綻し、多くの物をこの川に投げ捨てていく。

 先ほど、ここはまだマシと言いましたが、そもそもどんなスラムでも今はまだマシでしょう。その内に人々は昼間でも煙に包まれる日が来ますよ」

「だろうな」


 アスタロトの言葉にソフィアは頷く。

 確かに、前世の歴史でもそうであったし、霧の都のマギの設定では史実以上に多くの工場が乱立し、その煙と蒸気で昼間ですらランプを持ち歩かないと道を見失ってしまうと揶揄されていたほどだ。

 だからこそ、人々は見えない何かに恐怖し、その隙をついて悪魔が跋扈し始めるのだ。

 そして、ソフィアはその流れをゲームの時よりさらに加速させようとしていた。彼女はそれを、テムズ川の岸辺でどぶ攫いをして金目の物を探している貧民を見ながらより自覚していく。

 ロンディニウム塔の東を通り過ぎていく時、ソフィアは小舟に乗った人々がテムズ川の支流へと入っていくのを見た。


「あれは?」

「ジェイコブス島ですね。労働者の住むところや工場が建っています。支流の名前はネッキンガー川、そして、そこから引き込まれた水路が張り巡らされた、ロンドンの中のベネツィアですよ」

「スラムに見えるな」


 ソフィアの指摘通りネッキンガー川はテムズ本流よりもさらに汚らしく、黒い何かが浮かび上がり水の色も緑色に変色していた。そして、川と家を隔てるものはただの木の部分すらあり、それも遠目には余り整備されていないように見えた。


「ベネツィアも似たような物ですよ。街に根差した水路は汚くなっていくものです」

「それもそうか」


 ソフィアは納得しながら一人思う。


(ゲームの舞台にもなっていた場所を今のうちに確認できたのは僥倖だな。イーストエンドまでは足を延ばさなくていいか)


 霧の都のマギで主人公が行き来した場所は多い。しかし、その位置関係者場所はデフォルメされた地図か、地の文で少ししか触れられることはなく、その上現代になればもうすでに消失した場所もあった。

 ジェイコブス島もその一つで、ネッキンガー川も一部を除いて一目にはつかなくなってしまうのだ。

 その後も馬車はロンディニウム塔を中心にめぐっていく。

 何だかんだと文句を付けていたソフィアだが、現実にジョージアン様式の様々な建物を見れば気分がよくなるのだった。


(特に、道路に面して長いテラスハウスが見れたのは良かったな。やはりああいう物は後世に残していくべきだ)

「お嬢様、そろそろお時間です」


 そして、途中から観光気分で楽しんでいると、アスタロトが水を差してくる。それにソフィアが一瞬眉を顰め、すぐに頷く。


「御者よ、予定していた場所へ行きなさい」


 アスタロトが御者に命じれば馬車の馬の鼻をロンディニウムの外へと向ける。そして、馬車が軽快に走って行けば、やがて壊されずに一部だけが残ったロンディニウムの防壁の陰に佇む、とある建物のはす向かいで停車する。

 その建物の前には市民が何人も並んで行列を作っていて、それに加えてソフィアたちの物とは別の馬車もその建物の近くに停車し、そこから降りた身なりのいい人間がその建物の中へと行列を無視して入っていく。


「かなり並んでいるな」

「小口でも良い、元本保証あり、としたのが功を奏しました」


 その建物の中で行われていたのは、ソフィアが提案したポンジ・スキームだった。

 身分にかかわらずに小口から投資が出来て、その配当も月利と年利で分けられて短期的に少額を儲けるか比較的長期的に多額を儲けるかも選択できた。

 最初は疑う物も多く、少ししか出資金を募ることはできなかったが、事業開始から一か月が経って本当に高配当が返還されてからは人が人を呼んでいる状態となっていた。

 実際に詐欺会社を運営しているアスタロトは得意満面の笑みで馬車の中から行列を眺め、口を開く。


「実際には元本保証なんてものは嘘なのに、人々は気付かないものなのですねえ」

「このご時世、知識のある人は少ないだろうからな」


 ソフィアは少しの哀れみと多くの呆れの表情を湛えながらそう言う。

 そして、そんな市民と資産家たちのことを見ながら、アスタロトがわずかに低い声をソフィアにかける。


「さて、お嬢様。契約の時間でございます」


 その言葉は一か月の猶予期間の終わりを告げるものだった。ソフィアは馬車のソファの背もたれに体を預けながら香炉の中の火を消す。


「私が君に望むのはもう決まっているよ」

「おっしゃってください」

「今使っているような体を成長させる魔術と、配下の悪魔への命令権」


 アスタロトはソフィアの言葉の続きを待つ。しかし、ソフィアは話は終わりだと言わんばかりに、別の香を取り出してきてそれに火をつける。すると、その香は魔よけの効果があったのか、アスタロトは不愉快そうな顔をする。


「……それだけですか?」

「それだけだが?」

「私は隠されたものを暴き出せますし、あなたに必要だろう様々な知識を与えることが出来ます」


 アスタロトはもらえる対価を増やそうとせんばかりにそう自分のことを売り込むが、ソフィアはどこ吹く風と香炉を弄り終わるとまた窓の外を見始める。


「いらん。私には必要の無いものだ」


 そして、なおも不機嫌そうなアスタロトのことをちらと見ると、さらに言葉を重ねていく。


「私は自分の頭脳に自信があってね。君が思っている以上に賢いと自負している。だが、私がどれだけ賢くともどうにもできない事が少なからずある。

 それが、成長するまでの時間と、私の代わりに実地で動いてくれる忠実な人手だ」


 ソフィアはそこまで言うと、香の香りを楽しむふりをするために目を閉じる。


「そうだなあ……隠された物か……」

(確かに、このロンディニウムの地下には隠されている封印がある。それを私に暴かせようとアスタロトはしているのだろうな。原作でもそうだった。

 しかし、自分からその情報を話したくはない、か)


 しばらく香を楽しむふりをして考え事をしたソフィアは目を開け、何でもないかのようにアスタロトに向かって言葉のナイフを突きつける。


「このロンディニウムに何かがあるな?」

「…………」


 アスタロトは何も言わない。しかし、不機嫌な顔をすっと執事然としたすまし顔にした。それでは肯定も同じじゃないかと、ソフィアは吹き出しそうになったがそれをこらえて口を開く。


「まあ、何でもいいさ。契約なんだろう?私が望む物は提示した。じゃあ、次は対価だな」

「それでは――」

「対価は、伝統的にGoldで払おう。どれくらいになる?」


 アスタロトは言葉を遮られて提案を叩き付けられたことを内心で歯噛みする。最初はソフィア自身から何かを取り立てようとしていたのだ。しかし、“伝統”とまで言われてはそれを退けてまで要求することはできない。

 はっきり言って、ソフィアにとって金は大したものではなかった。。今回の金融詐欺で相当量用意できるものであるし、そもそももうすでにいくらかマネーロンダリングの予行演習で換金すらしている。

 悪魔はあくまで人間によって存在する。だからこそ、人間たちの意向に沿わざるを得ないモノでもあるのだ。


「成長させる魔術と私の配下への命令権の二つなら、そうは多くはなりません。しかし、配下の悪魔を召喚するたびにある一定の金は納めてもらいます」


 アスタロトがそう言いながら手を叩くと、空中に炎が現れ、やがてそれが消えるとそこに羊皮紙が現れる。今回の取引が書かれた契約書だった。

 彼がそれをソフィアに手渡せば、ソフィアはその契約書を何度か読んで、それから自分の血でサインをする。


「これからもよろしく頼むよ、アスタロト」

「ええ、こちらこそよろしくお願いします。ソフィアお嬢様」


 二人は契約書の上で固く握手をする。大人の執事と10歳くらいのあどけない少女とが馬車の中で握手をする光景は、一見すればおままごとのようだった。しかし、契約書は果てしなく暗く重いもので、二人のこの握手は世界征服への最初の第一歩であった。

 そして、契約書が最初に現れた様に炎に巻かれて消えれば、ソフィアは馬車のソファの下から木箱を取り出し、重そうに持ち上げる。


「っ、ほら、約束通りの対価だ」

「……少々多いようですが」


 アスタロトがその箱を受け取ると、その中身の多さに首を傾げる。すると、ソフィアはしてやったりと口角を上げ、そしてとても楽しそうに、それこそまるで遊技を楽しむ少女のように笑う。


「誰が、今回の金融詐欺をこのロンディニウムだけで行うと言った?」

「は?」

「アメリカ合衆国、ニューヨーク。オーストリア帝国、ウィーン。オスマン帝国、コンスタンティノープル。特にアメリカとオスマンでは派手にやるぞ」


 アスタロトが目を白黒とさせている間に、ソフィアはなおも畳みかけていく。


「ジョージに言って外交官としての伝手を使って、アメリカとオスマンには悪魔を浸透させていく。それでこの二国を弱体化させていくぞ。

 アメリカではインディアンとの摩擦が、ギリシアでは革命が、エジプトでは事実上の独立が起きてるそうだ。ここにつけいらない手はない。

 市場の混乱の責任を政府に押し付けて、世論も国際情勢も操っていこうじゃないか!」


 アスタロトは自分の見立てが間違っていたのではないかと思い始めていた。自分が思っていた以上にこの少女は悪辣で、狡猾で、明敏であるのではないかと。


「むしろ、ロンディニウムでは目標金額さえ集まればそれでいいからな。市場の不必要な混乱は望んでいない。

 あそこまで並んでいるのなら逆にすぐに手じまいした方がいい可能性が高いな……。

 さあ、やるぞ。アスタロト。はやくその金塊を受け取り給え」


 アスタロトは実際の金の重さ以上に重く感じる木箱を受け取り、そして、これから悪魔より悪魔らしい主人に仕えられる喜びに頬が裂けるような鋭い笑みを浮かべながら頷くのだった。


「御意に、ソフィアお嬢様」

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