第二章 覚醒
「誰か助けてくれ!」という心からの叫びは声にならず、僕は通い慣れた校舎の廊下で光輝く異形の天使に追いかけられていた。
夢というのはどうしてこうも思い通りに体が動かせないのだろう。身体にまとわりつく空気が鉛のように重たい。おまけに声も出ない。
……夢?
途中で気付き、ふと考える。これはひょっとして明晰夢というやつなのではないだろうか。僕が見ている夢なのだから思い通りになるはずだ。
根拠のない妙な自信と共に振り返り、天使に相対する――つもりだった。
僕が立つその場所は先程まで死ぬ気で追いかけっこを繰り広げていた廊下ではなく、最後に記憶に残っていた教室であった。無数の意思なき石膏の視線。
目の前には桃色の天使が静かにこちらを見つめていた。厳密に言えば目はないのだが。
夢というのは不思議な言葉だと僕は思っている。睡眠時にみる視覚的、幻覚的な映像であったり、叶えたい願望だったりといった意味を持つ言葉である。英語では「dream」と言うが、こちらもまた同じ意味を持っている。
言語とはそれぞれの文化圏が反映されるものであり、そこで暮らす人々がどのようにして生きてきたかといった歴史を如実に表している。
より分かりやすい例を用いるならば、閉鎖的であった鎖国時代の日本語と、開国してからの日本語の変化のスピードはすさまじく、それは絶えず入ってくる欧米文化を吸収していったからである。ゆえに僕らは古文の勉強に四苦八苦するのだがそれはそれ、学生たる身分に置いては単位や赤点といった死神が付き纏うので仕方がない。
話を戻そう。僕達日本人と英語を母国語として用いる人たちとでは大いにその背景や歴史は異なるはずである。それなのに「夢」と「dream」は異なる言語、発音でいて同じ2つの意味を持っている。
何故なのか、と中学時代の英語教師に尋ねたことがあったが「そういうものだからだ」と返されてしまった上、当時のクラスメイトからも変な目で見られていたような気がする。
同じような意味を持つ英語を日本語に当てはめて僕たちは英語を勉強しているが、そこには微妙なニュアンスの違いが含まれており、何気なく用いると痛い目を見る、というのは僕の実際の体験談からくる。まあそれはどうでもいいことだ。こればかりは父の仕事が英語に関わるものであり、そこからの電話をとってしまった僕の運の悪さからくるものでもある。
「そういえば、僕は昔から『何で』が多かったな」と言葉にはならない世界で考える。
いつからだろうか、疑問を持つことを止めたのは。いつからだろうか、それを人に尋ねることをしなくなったのは……答えは自分の中で明らかではあったが、言葉が出ない世界でこうも頭に言葉が浮かぶのは何と皮肉なことか。
僕は目の前のコイツに殺されたはず…ってことはここは夢じゃなくて死後の世界ってやつか?
相変わらず、天使は静かにこちらを見つめている。その様子からは不思議と記憶に残る暴力的な気配は感じられない。
最後の記憶が間違っていなければ、僕はこの教室で人生を終えたはずだ。ああ、だからだろうか。もう自分が死んでいると分かっているからこんなに落ち着いているのか、と一人で納得しかけていたところで、
「ダイジョウブ」
聞き覚えがある抑揚のない音の響きが目の前から発せられた。
〈ダイジョウブ〉
何がだ。僕はお前に殺されたんだぞ?
〈〈ダイジョウブ〉〉
大丈夫なもんか、死後の世界を信じちゃいないが少なくとも現世での僕の人生は終わったんだ。
〈〈〈ダイジョウブ〉〉〉
響く無機質な音声は音叉を叩いたように広がっていく。
うるさい! もう何も抵抗しないから好きなようにしてくれ! 僕は無神論者だけど、ここまできたらもう何が出てきても驚かない自信があるぞ。
〈アナタハ イキテイル〉
一瞬聞き逃しそうになったその言葉にはこれまで通り心の中で言い返すか無視を決め込もうとし、しかし動揺せずにはいられなかった。
「何だって……?」
言葉が出ない状況であろうとそう思わずにはいられなかった。あの状況から僕は一体どのようにして逃げおおせたというのか。
〈〈アナタハ イキテイル〉〉
小さい頃、父親にこんなおもちゃを買ってもらったっけ、同じ言葉を繰り返すやつ。もうとうの昔に壊れてしまった覚えがあるけれど。
〈〈〈アナタハ イキテイル〉〉〉
教室が砂のように崩れ始めた。
ノイズのようなものが走り、次第に視界が定かではなくなる。既に教室はその体を成していない。
まるで夢から醒める時のようだ、と僕は思った。母の声が飛び込んでくれば確信できたのだが残念ながらそうではないようだ。
この次に何が起きるかはもう予想がつかない。既に一生分の非日常体験を重ねたつもりだし、たとえ夢であったとしてもこの体験でしばらくの間妄想のネタには困らないだろう。
そこまで考えたところで僕の意識は再び途絶えた。
見知った天井、ではなかった。保健室でもない。何度か仮病でベッドをお借りした際、天井の模様の規則性について考えていたことがあるのでそれは断言できる。
見知らぬ天井、だった。
材質もよく分からない。白を基調に規則的に組み合わされ、緑色の光がその接合部を周期的に走っている。
どこかの病室という線も考えたがそれもなかった。首を動かし左右を見るに、
厳密には正しい表現ではない。
六畳ほどの広さの空間の中心部にベッドのみが置かれ、その上で僕は横になっていた。他に認識できるものは右脚の延長線上にあるドアのような物のみで、誰がどう見ても病院のそれではない。
じゃあ一体ここはどこなのか。未だ僕は夢の中でまた次のカットへ移るのだろうか。いい加減にして欲しい、もう脳の容量はパンパンだ。処理しきれない。
僕は成り行きに任せることにした。もはや自分から何かしらのアクションを起こす元気もない。場所に即して不貞寝を決め込むべく嫌に肌触りの良い掛け布団を頭に被ったところで、
「おはよう!」
今の心情を斜め上からぶん殴るような底抜けに明るい声が部屋に響いた。
「……は?」
当然の反応だろう。まだ僕はここが夢の可能性を捨て去ってはいない。故に僕は寝たふりをしていた。
「あれ? まだ寝足りないのかな? それとも本当に寝てる? うーん、おかしいなー」
中性的で弾むような声が辺りに響く。何故だろう、非現実的な状況に置かれているはずなのに、嫌に現実味のある声だった。
「やっぱり! バイタル上はしっかり覚醒しているじゃないか! 無視は良くないなー 挨拶は基本だよ!」
コイツとは合わない、ここが現実であろうと夢であろうと関わり合いたくないキャラだというのが僕がこの声の主に対して真っ先に抱いた感情である。
「新しい朝が来た! 希望の朝だ!」
これはウザい……
布団を剥がして上半身のみ起こし、
「……ここはどこで、貴方は誰ですか?」
初対面(?)の相手であっても最低限の敬意は払わねばなるまい。たとえ言葉の上だけであっても。
「おはよう!」
やっぱりコイツとは合わない、と確信した。今の僕の苛立ちというものが可視化されていたら確実にメーターがプラスに振れていただろう。
「……おはようございます」
とはいえここでプッツンしてもどうしようもない。現状の把握を第一と判断し、とりあえずは相手の出方を見よう。身の振り方を考えるのはその後だ。
……こんな時に感情の赴くまま行動できれば少しは変わるのだろうか。いや、考えても仕方がない。今の僕に出来ることをやるだけだ。
「うんうん、挨拶は大事だよ! なんたってコミュニケーションの入口、これがないと世間話も始まらないからね!」
今まさにその世間が存在するのか知りたいんだけれど。
「君の考えていることは大体分かる。ただそれに答えるにはある程度の時間と知識が必要だ。だから話をしよう! まずは起きて起きて!」
「……話というのはこの部屋じゃできない内容なんですか?」
別におかしなことを尋ねたわけではないはずだ。謎の声の主と会話が成り立っている以上、話だけならばここでも出来るじゃないか。
「君の言う話が僕と君との一対一で済むことならそれは君の言う通りだ。でもそうじゃない。他の仲間たちとも共有しないといけないことだからね」
聞き捨てならない単語が登場した。
「仲間?」
「そう、仲間さ! 文字通りのね。君と同じような形、境遇でここに迎えられた人が君以外にもいるということだ! 良いことじゃないか、君は一人ぼっちじゃあない!」
コイツは余計な一言を足さずにいられない性質なのか、と思いもしたが、それより確認すべきことがたくさんある。とにかく情報が欲しい。
「僕は……生きているんですか?」
何よりそれを知りたかった。ここがどこかなんてどうでもいい。僕の人生があの時あの場所で終焉を迎えたのかどうか、真っ先にその確認をしたかった。それに…コイツの口ぶりには間違いなく僕が知りたいことを知っている、そう確信できるだけの何かがあった。
「さっきも言っただろう? 僕と君とで完結するような問題でもないってことは。ただまあそれが気になって次のステップに進めないってのは僕も困るし……うん、じゃあその疑問にはお答えしよう! 他のみんなにも同じことは伝えてあるしね!」
「ーー生きてもいないし死んでもいない、それが今の君たちの状態だよ」
反応に困る答えが返ってきた。何だそれは、身体や魂の定義とかいう話か? 哲学的な問答は苦手なんだよ。もっと簡潔に教えてくれ。
「そう表現する以外に説明のしようがないんだ。あとは他の仲間たちと、ってところでどうだい?」
諦めが早いということは、見方を変えれば判断が早いということでもある。これ以上の情報はもう引き出せない、と僕は感じ取った。
「……分かりました。僕はどうすればいいんですか?」
すると謎の声の主は、
「その言葉を待っていたんだ!」
芝居がかった口調で使い古されたであろう化石のようなフレーズを投げかけてきた。満面の笑みを浮かべて両手を広げている絵面が目に浮かぶようだ。声のトーンが高くなったのは気のせいではないだろう。起き抜けの頭にはかなり辛いのでやめてくれ―ください。
「そこにドアが見えるだろう? その向こうに君の仲間たちが待っている。彼らの中から誰でも好きな人を連れて行くとよい……」
コイツからは必要な情報以外拾わないようにしよう、と心から決意した。
「分かりました」
ベッドから降りようと姿勢を変えるとご丁寧なことに我が母校の室内履きが用意されていた。履き心地的に僕のものだろう。立ち上がって歩き出し、ドアのような物の前で足を止めてほんの少し考える。
「仲間たち、って言ってたよな」
どんな人達なんだろう、これから僕は上手くやっていけるんだろか、というような入学式、はたまたクラス替え直後のような緊張感は微塵もない。
同じ形、同じ境遇で迎えられたというアイツの言葉が少し気になっているだけだ。もしあの天使もどきが世界レベルで暴れていたら? ドアを開けたらウン十億人がコンニチハ、というパターンを考えて若干ながら恐怖を覚える。
いや、もう考えても仕方がない、その時はその時、なるようになるだろう。繰り返すが僕は諦めという名の判断は早かった。
覚悟を決め、一歩前に出た。
……ドアはうんともすんとも言わない。
「……あの……ドアの開け方は?」
僕の語彙から敬語というカテゴリは失われつつあった。
「ゴメンゴメン! 完全に忘れてたよ! 片手をその黒い◼️の上に置いてごらん」
ドアの両脇、僕の腰より少し高い位置に確かに黒い◼️が二つ配置されていた。どちらの手でても振れられるように、という配慮なのだろうか。
何となく、本当にちっぽけで情けない事なのだが、このような状況に僕を落とし込んだ何かというものに対しての反抗心からか、僕はあえて利き手とは逆の左のパネルに触れた。
ピッ、というどこか心地よい音が響き、スライドしてドアが開く。
その向こうで歓待してくれたのは沢山の仲間たち……ではなかった。
「……これはどういうこと?」
もはや他人を敬うという概念は僕の中から消えていた。
ドアの向こうには
厳密には正しい表現ではなく、ドア型の長方形の向こうでは目に見える大きさの青白い粒子のようなものが上下に規則性を持って動いている。
やはり夢の続きか、という考えが諦めや怒りと共に再び浮かびかけたところで、
「それがここのドアだよ」
こちらの心情を読み取ったのか分からないが、少しトーンダウンした声が耳に届いた。
「ここでは君たちがいた世界の常識は通用しないんだ。ゴメン、まずはそれを説明するべきだったね」
「このドアについても後できちんと説明するよ。まずは僕を信じて欲しい。そこを通った先に君の仲間が待っている」
やけに大人しくなったじゃないか。最初からその口調の方が少なくとも僕の第一印象は良かったぞ。
大きく溜息をつき、何度目か分からない覚悟と共に、僕は青白い光へその身を任せることにした。
君を王にするために 餅野くるみ @kurumi-mochi
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