第百三話 同気相求む



「ほら、これは葵を引き止めるために開かれた催しでもあるみたいだしさ。存分に楽しまないと。行っておいでよ」

「……あぁ、そうだな」


 時雨に背を押された葵は、まだ納得のいっていない様子を見せながらも、屋台飯を手に取ってはしゃいでいる朔夜たちのもとに歩いていく。


「はい、東雲さん」


 葵がやってきたことに気づいた朔夜は、手に持っていたチョコバナナを手渡す。葵が甘いもの好きと知ってのことだ。

 温かくて、けれど、どこか郷愁を覚えるような……寂しい夕暮れの色を背景にした朔夜の姿が――いつの日かの、憧れ慕ってきた大好きな兄の姿と、重なって映った。葵はそっと目を閉じて、数度、瞬きをする。


「東雲さん? どうしたの?」

「……ぃで、いい」

「え?」

「……葵で、いい」


 気づけば葵は、そんな言葉を口にしていた。半ば無意識のものだったが、心のどこかで、ずっと思っていたことだった。皆が名前で呼び合っているのに、自分だけ苗字呼びであることを、少なからず引け目に感じていたのだ。


「うん! それじゃあ、葵って呼ぶね! 僕のことも、朔夜って呼んでくれたら嬉しいな」

「……朔夜。そのチョコバナナと、あと、焼きそばも食いてぇ」

「分かった。ちょっと待っててね」


 心から嬉しそうに笑っている朔夜を目にして、葵は肩に入れていた力をふっと抜いた。

 そして、焼きそばとラムネ瓶を手にやってきた蛍と瑞樹にも、「葵でいい」と、同じ言葉を口にしたのだった。


 ――後日、学校で朔夜が「葵!」とその名を口にしたことで、クラスの男子たち(特に、葵を“撫子ちゃん”という愛称で呼んでいる隠れファン一同)の間に衝撃が走ることになるのは、また別の話である。


 そして、そんな朔夜と葵のやりとりを読めない表情で静観していた真白の側に、時雨は静かに近づいた。


「真白くん、もしかして妬いてるの?」

「……は? 何にだよ」

「えー、朔夜くんが葵と仲良くしてるから、拗ねてるのかと思ってさ」


 時雨の揶揄するような発言に、真白はピクリと眉をひそめながらも、しかしいつものように声を荒げて返すような素振りは見られない。そのまなざしは真っ直ぐ朔夜に向けられたままで、切れ長の瞳は凪いでいる。


「別に。アイツがあぁやって、のんきに笑ってられんなら……俺は、それでいい」


 時雨に向けて、というよりは、自分自身に向けて。――否、誰に向けてのものでもない。

 心からそう思っているからこそ、紡がれた言葉なのだろう。


 ひと筆を走らせる時のように、さらりと真情を吐露した真白の顔は、慈愛の色で満ちている。そのまま時雨には見向きもせずに、朔夜のもとへと歩いて行ってしまった。


 時雨はその背を見つめながら、頭を掻いて、小さく嘆息した。


「……参ったなぁ」


 ――ただ、揶揄うだけのつもりだったのに。


 まさかの特大級の惚気を喰らってしまって、時雨は決まりが悪いような、照れくさいような、妙な気持ちになった。


 けれど、その顔は穏やかで、晴れやかで。口許には微かな笑みが浮かんでいる。


「――葵! ボクの分の焼きそばも、残しておいてよね」


 時雨は、声を張り上げた。

 そして、自身の主のもとに向かって、足を前へと踏み出した。


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