第九十二話 夏休みの宿題と男子会



「あれ、これってどうやって解くんだっけ……?」


 スラスラとペンを動かしていた朔夜の手が止まった。どうやら、関数の最大値と最小値を求める問題で躓いているようだ。


「ここは平方完成すると、頂点の座標が(3,5)になるだろう?」

「うん」

「こうやって書いたグラフを見ると、x=3の時に最大値となって、x=−1の時に最小値になるんだ。で、x=3 の時の頂点の y 座標が最大値となるから、y=5になって……」


 朔夜の自宅下にある小料理屋『なごみ処~椿~』にて、妖怪同好会のメンバーは夏休みの宿題を進めていた。といっても、夏休みも残すところあと一週間になった今、瑞樹や葵といった一部のメンバーは既に宿題を終わらせていた為、教える役に徹しているわけだが。


 朔夜もあとは数学のプリントを済ませれば完了だ。瑞樹に教えてもらって問題を解くことができたようで、嬉しそうにお礼を言っている。


 同じく宿題を終えている組の時雨は、隣で心底面倒くさそうに絵日記を描こうとしている真白に声を掛ける。


「でも良かったよ。あの日の真白くん、本気で人ひとり殺っちゃいそうな目をしてたからさ」


 突拍子のない発言ではあったが、時雨が言いたいことを直ぐに察した真白は眉を顰める。


「……朔夜が悲しむようなことはしねーよ」

「へぇ、そっか。それじゃあボクも、朔夜くんともっと仲良くならないとね。そしたら真白くんもボクには手出しできないってわけだ」

「……は? 仲良くなんてさせるわけねーだろ」


 楽しそうな声音でそう言った時雨が隣のテーブルにいる朔夜のもとに向かおうとすれば、ドスをきかせた低い声を出す真白に阻止される。


「ねぇ二人共、もう少し静かにできないの?」


 真白と時雨と同じテーブルに腰掛けていた葵は、目の前で行われるやりとりに辟易した様子で溜息を漏らした。その手元には書店のブックカバーがかけられた文庫本がある。


「お、終わったー!」

「ぼ、僕も終わったよ……!」


 真白と時雨がいつものやりとりを繰り広げている間に、朔夜と蛍は無事に全ての宿題をやり終えたようだ。清々しい表情で喜び合っている。


「真白はあと絵日記だけなんだよね? 終わったの?」

「……まだ」


 隣のテーブルから朔夜に呼びかけられた真白は、ツンとした顔で短く答える。


「まだ真っ白だよ。たった一枚なんだし、適当に書いちゃえばいいのにね」


 真白の手元を覗きこんだ時雨が言葉を付け足せば、余計なことを言うなと言わんばかりの鋭いまなざしで真白に睨まれる。


「……そういうお前は、何描いたんだよ」

「ボク? ボクは、葵にホットケーキを作ってもらったことだよ」


 時雨の言葉に反応したのは、終わった宿題を鞄に片付けていた蛍だった。


「え!? し、東雲さん手作りのホットケーキを、食べたの……!?」

「え? うん、そうだけど?」

「というか時雨くん、君、前までは東雲さんのことを呼び捨てで呼んではいなかったよね?」

「……あ」


 蛍たちの前では“葵ちゃん”と呼んでいたことをすっかり忘れていた時雨は、瑞樹からの指摘に、一瞬表情を固まらせる。

 何故ちゃん付けで呼んでいるのかと言えば、葵が女の振りをしていることがバレないよう、少しでも印象付けられるようにと思ってしていただけで、そこまで深い意味があるわけではなかった。


「ほら、ボクたち幼馴染だからさ、普段は呼び捨てで呼んでたんだよね」

「へぇ、そうなのかい」


 瑞樹が特に疑問に思うこともなく、納得した様子で頷く。


「そ、それじゃあ、ホットケーキを食べたって言うのは、東雲さんのお家に遊びに行った時にってことかな?」

「あー、それはね……」


 時雨は何と答えるべきか悩んだ末、助けを求めるように葵を見る。

 一般的に考えたら、年頃の男女二人がアパートに住んでいるというのは良くないのだろうと思ったからだ。


「……ここだけの話にしてもらいたいんだけど、実は私と時雨、一緒に住んでるの」

「「……え?」」


 驚きの声を上げたのは、蛍と瑞樹だ。

 朔夜と真白は、この間、時雨が泊まりに来た際に二人でアパート暮らしであることを聞いていた為、平然としている。


「ふ、ふふ、二人で?」

「えぇ、そうなの。時雨とは幼馴染で家族ぐるみの仲だったから、親からも一緒に住むなら安心だって言われたのよ」


 葵はいつかボロが出た方が面倒だと考え、一緒に住んでいるという事実を伝える選択を選んだ。


「そうそう。……あ。でもボクたちの間に、蛍くんが心配するようなことは何もないから大丈夫だよ」


 蛍が同好会唯一の女子(ということになっている)の葵を気にかけていることに、時雨はかなり早い段階から気づいていた。

 時雨が自分たちの間に疚しいことは一切ないとやんわり伝えれば、みるみるうちに顔を赤くした蛍は、ブンブンと胸の前で両手を振る。


「ち、ちがっ……! あ、あの、別に変なことを考えてるわけじゃなくてね……!」

「あはは、蛍くん、顔が真っ赤だね」


 ニコニコと楽しそうに笑った朔夜から頬の赤さを指摘された蛍は、周りから微笑ましい目で見られていることに気づいて、両手で恥ずかしそうに顔を隠した。




 店内には、和やかな空気が流れている。


 時雨に更に揶揄われて焦った声を上げている蛍の声を聞きながら、朔夜は窓の外に目を向けた。


 ――ここ数カ月でたくさんのことがあった。


 神や妖が突然狂暴化した原因や、瑞樹を誑かした妖のこと、それに、蛍が幼い頃に出会ったという、朔夜に似た妖についても――考えれば、疑問に思う点は幾つもある。


 けれど、朔夜が半妖であるという事実を伝えても尚、こうして変わることなく皆と笑い合えているという幸福を、朔夜は改めて噛みしめた。


 向かいの舗道に面した石塀の上から、数輪の向日葵が覗いている。陽の光をいっぱいに浴びた向日葵が風に揺れているのを見ながら、朔夜は嬉しそうに目を細めた。


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