第九十話 嫉妬と羨望、諦めと憧れ



「今すぐそいつから離れろ。……殺すぞ」


 平常時よりもずっと低い声を出した真白が、据わった目で針女を見つめている。

 これまでずっと余裕たっぷりの笑みを浮かべていた針女の表情が、ここで初めて崩れた。


「そ、それ以上近づくんじゃないよ! 一歩でも動いてみな、本気でコイツを殺っちまうからね!?」


 再び屈みこんで朔夜の喉元に針をあてがいながら、これ以上近づくんじゃないと、針女は金切り声で牽制する。


「……真白くん、ちょっと落ち着きなよ。殺気漏れすぎだって」


 真白の雰囲気に気圧されて震えている蛍に気づいた時雨は、小声で真白を窘める。しかし今の真白に、その言葉は届かない。

 真白の頭の中を占めているのは、早急に朔夜を救い出して目の前の針女を始末すること。それだけだ。


「アッ、アンタ! 早くこっちに来るんだよ!」


 針女の矛先が葵に向けられる。一番の目的である葵を早々に喰らってしまわないと、それよりも先に真白に殺られてしまうと考えているらしい。

 今の針女は気が動転していることもあり、言う通りにしなければ朔夜に危害が及ぶだろう。葵は言う通りに足を進めようとするが、後ろから袖を引かれて歩みを止めた。


「……月見くん」


 葵の行く手を阻んだのは、蛍だった。

 このまま行けば葵が危険な目に遭うと考え、咄嗟に袖を掴んだのだ。


「み、瑞樹くんは……、どうして……そ、そそ、そんな悪い妖怪に加担してまで……っ、瑞樹くんが叶えてもらいたい願いって、一体何なの……!?」


 震えていた蛍が、先程から俯いたままの瑞樹に、叫ぶような声音で問いかける。

 その顔は恐怖で血の気をなくしているように見えるが、恐怖に顔を歪めながらも、そのまなざしは真っ直ぐに瑞樹を向いている。


「……僕は……僕は、強くなりたいんだ。僕は……」


 おもむろに顔を上げた瑞樹は、眠り続けたままの朔夜に視線を向ける。


「僕は、朔夜くんのようになりたい。彼のように、強くて、優しくて、誰からも好かれて……羨望のまなざしを向けられるような。……そんな存在に、なりたいんだ」

「さ、朔夜くんに?」

「あぁ。だから……妖怪と取引をしたんだ。彼のように、心身ともに強い存在になれるよう――力を授けてほしいってね。そうだろう?」


 瑞樹は期待と懇願を宿した目で、針女に確認するように尋ねる。


「フッ、フフフ……」


 先ほどまで焦りを見せていた針女だったが、瑞樹からの問いかけに、突然笑い出した。片手に持った針は依然として朔夜の首元にあてがったまま、もう片方の手で口許を隠して、ただただ愉しくて堪らないというように笑っている。


「フフッ、人間は本当に馬鹿だねぇ。そんなの――嘘に決まってるじゃないか」

「……。……え? っ、嘘?」

「あぁ、そうさ。そんな力があるわけないだろう? ソイツを誘き寄せるために利用させてもらっただけさ。そこの小娘を喰らえば、私は今以上の力と美しさを手に入れることができるだろうからねぇ」

「なっ……東雲さんには、話を聞きたいだけで危害を加えるつもりはないと言っていたじゃないか!」

「だから言ってるだろう? 全部嘘だってね。第一オマエは、薄汚い嫉妬に駆られて意地汚いこともできる最低な人間ってことなんだろう? そんな奴が強く優しくだなんて、笑える話じゃないか」

「っ、……」

「まぁ、私は好きだけどねぇ。そういうあくどい子は」


 騙されていたという真実を聞いた瑞樹は、その場にへたり込んだ。


 瑞樹は、己の中で膨らみ続ける醜い嫉妬心を消し去り、心身ともに強くなる力を授けてやろうと――妖怪に唆されていたのだ。


「あぁ、可哀そうにねぇ。でも大丈夫。アンタが憧れてるっていう坊やと一緒に、私が纏めて喰べてあげるからね」


 針女は舌なめずりをして、瑞樹の頬に手を伸ばした。

 瑞樹は抵抗する気力も残っていない様子で項垂れている。


 しかし、そんな瑞樹を奮い立たせるように、再び声を上げたのは――蛍だった。


「ぼ、僕もね、瑞樹くんの気持ち、分かるんだ! だってね、僕もずっと……二人に憧れてたから……!」

「……え?」

「あの日、下駄箱の前で、瑞樹くんに声を掛けてもらって、朔夜くんに一緒に帰ろうって言ってもらえて……僕ねっ、すっごく嬉しかったんだ。ぼ、僕みたいな暗い奴に、笑顔で声をかけてくれて……友達になれて、本当に、嬉しかったんだよ……!」


 ポロポロと涙を流しながら思いを伝える蛍の姿に、瑞樹の目尻からも、一筋の涙が零れ落ちた。


 瑞樹は、ハーフというその容姿の珍しさや美しさも相俟って、幼い頃から奇異の目を向けられることが多かった。

 女子からもてはやされたり声を掛けられることはあれど、男子からは陰口を叩かれたり、仲間外れにされることも一度や二度の話ではなかったのだ。


 だからこそ、出会ったあの日から、明るく優しく誰からも好かれる朔夜のことを、気づけば目で追ってしまっていた。妬ましくて、羨ましくて、だけど同じくらい――否、それ以上に焦がれ、心から尊敬していたことも事実だった。友達になれたことを嬉しく思えていたことも――また事実だった。


 自分もあんな風になれたらと、側で焦がれ続けていた。


 ――ああ、そうだ。僕もただ、ずっと憧れていただけなのかもしれない。

 誰にでも優しくて、底抜けのお人好しで、芯の通った曲げない強さを持った、そんな魁朔夜という一人の人間に。


「さぁ、茶番はそこまでにしとくれよ。アンタが来ないなら、先にコイツらを纏めて喰っちまうだけだからね」


 朔夜だけでなく瑞樹の首筋にも針を当てがった妖怪に、袖を掴まれたままの葵は、蛍の手をそっと解いた。


 堪えていた真白も針女に悟られないように動き出そうとしたが――針女の下で動く気配に気づいて、小さく目を瞠った。


「それは無理な話だ」


 耳朶を震わす低い声に、この場にいる全員が、一瞬息を止める。


「オレもコイツも、テメェなんぞに喰われるのは御免被るからな」


 気づけば針女の足元から、白い冷気が漂っている。


「なっ、何だいこれは……!」

「――夜叉纏い、氷雨ひさめ


 いつの間に目を覚ましていたのか。妖怪化した朔夜が下から斬り上げるように刀を振るえば、辺りを冷えた空気が満たしたと同時に、氷の結晶が針女の身体を包み込んだ。そして次の瞬間、氷結した針女が、音を立てて砕け散った。


「……さ、朔夜くん、なのかい……?」


 キラキラと砕けた氷の粒子が舞う中、瑞樹に震える指先を向けられた朔夜は、口端を持ち上げて、ニヤリと妖艶な笑みを返した。


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