第六十話 妖と人、そして恋。
「……っ、はあぁぁぁ……」
氷室の姿が完全に見えなくなると、お光はその場にへたり込んだ。
朔夜は真っ先に駆け寄り、お光に声を掛ける。
「お光ちゃん、大丈夫?」
顔を上げたお光の顔は涙と鼻水で濡れていた。氷室に貰ったハンカチは、既に使い物にならないほどにぐっしょりと水分を含んでいる。
「さ、朔夜さん、どうしよ……さ、左之助さん、私のこと、覚えててくれて……わ、和菓子も、美味しいって……」
「うん、そうだね」
「ま、また、話そうって……わ、私、私……」
「うん。……よかったね、お光ちゃん」
「っ、はい……!」
緊張から解放されたことと氷室と話せた嬉しさから、お光は更に涙を滲ませている。
泣きじゃくっているお光の頬を自身のハンカチでそっと拭った朔夜は、落ち着かせるようにトントンと、その背を優しく撫でた。
茂みから出てきた他の三人は、二人の姿を黙って見つめているが、そのまなざしは一様に優しく、微笑ましげな色が滲んでいる。
「つーか、あの氷室って奴……完全に俺たちがいることに気づいてただろ」
真白は、氷室が去っていった方角を見つめながら、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
自分一人で隠れていたわけではなかったとはいえ、気配を消すことを得意としている真白としては、氷室に気配を察知されていたことが悔しいらしい。
「そうだね。……氷室さんって、何だか不思議な人だよね」
「さ、左之助ざまは、そ、その不思議さも魅力的な、素敵ながだです……!」
「うん、そうだね」
氷室の素敵さを力説するお光に、朔夜は同意するように笑いながら、また濡れ始めている頬をもう一度拭ってやった。
それから数分後。
思いきり泣いて漸く落ち着いたらしいお光は、このまま帰るようだ。
朔夜たちに向かって、長い黒髪が地面に付くほどに深々と頭を下げる。
「あの、改めて、この度は本当に、本当にありがとうございました……! この着物は後日お返しに行きますから、その時にまた、改めてお礼をさせてください」
「そんな、お礼だなんて……気にしなくていいよ」
「いえ、朔夜さんたちの御尽力がなければ、私は今も、左之助様のことを影から見つけているだけでしたから。あの和菓子も……一緒に作ろうと言われた時は驚きましたが、食べた左之助様、とても優しい顔で笑いかけてくださったんです」
お光は勿論、和菓子作りなどしたことはなかったが、朔夜が一つ一つの工程を丁寧に教えてくれたおかげで、少し歪ではあったが、一発で満足のいく練り切りを作ることができたのだ。
「朔夜さんが言っていた、“和菓子には食べた人を幸せにしてくれる力がある”って……心をまぁるく解してくれるという意味が、よく分かった気がします」
お光は、今まで朔夜たちが目にした中で一番綺麗に思える笑みを見せると、もう一度頭を下げて、闇夜の中にすっと消えていった。
***
お光と別れた朔夜たちは、半分に欠けた月と微かな星明かりが照らす夜道を、四人で並んで歩く。
梅雨時期ということもあって最近は雨模様の日が多かったのだが、今日は珍しく一日快晴だった。六月の夜の空気は、しっとりと涼しく感じる。
「……妖怪と人でも、恋したりするんだな」
シンと静まり返った夜道で、葵が誰に言うでもなくポツリと漏らした声は、この場にいる全員の耳に届いた。
「うん、そうだね。妖怪だからとか、人だからとか関係なく……誰かを愛おしく思える気持ちって、凄く素敵で、大切なことだと思うよ」
「……やっぱりお前って、変な奴だな」
「えっ、そうかな?」
妖怪と人との恋をすんなり肯定した上に、葵風に言うならば“こっぱずかしい台詞”をさらりと口にした朔夜に、葵は呆れ交じりの声で返した。
そして、右隣を歩くその横顔を、チラリと見つめてみる。
小さな光が瞬く濃藍の空を仰いでいる朔夜の横顔は、何だか嬉しそうだ。けれど、ほんの少しだけ――葵の目には、朔夜のその微笑みが、寂しそうにも見えた。
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