第五十一話 翌朝のこと



「はぁ……結局、皆して寝過ごしちゃったなんて……」

「あはは……残念だったね」


 蛍は重たい溜息を吐き出しながら、テントを片付けている。

 早朝に目覚めた蛍と瑞樹は、昨晩のことは何も覚えていないようだった。妖怪に連れ去られていたなどとは、夢にも思っていないだろう。


 妖怪に人質として捕らえられていた際、蛍の首元に付いてしまった刀傷については、昨日の散策で木の枝にでも引っ掛けたんじゃないかなと、普通ならば訝しんでしまいそうな言い訳を並べ立てて、何とか誤魔化すことができた。


 残念がっている蛍を慰めながら、朔夜もまた、昨晩の出来事すべてが、夢の中でのことのように思えてならなかった。


 しかし、人間の姿に戻った朔夜に、昨晩の記憶はしっかりと残っている。

 自分が妖怪へと変化したことも、刀を手にして闘ったことも、真白と血分けの儀をしたことも――全てを鮮明に思い出すことができる。


「……おい」


 朔夜がぼうっとしていれば、葵が声を潜めて話しかけてきた。


「東雲さん。どうかした?」

「……お前は昨日の夜、何ともなかったのかよ」

「え、僕?」

「何か……変なことがあったとか」

「……うん、何ともなかったよ。思ってたよりずっとテントの居心地が良くて、ぐっすり寝ちゃった! ……心配してくれてありがとう、東雲さん」

「べ、別に心配してたわけじゃねーけど……何もなかったなら、いい」


 葵は朔夜の返答に安堵した様子で、小さく息を吐いた。

 葵は、昨晩巻き込まれたのは蛍と瑞樹のみで、朔夜と真白はテントで寝ていたと思っている。葵たちを捜しにテントを抜け出し、山中を歩き回っていたことさえも知らないのだ。



「……おい、ちょっと顔貸せ。話がある」


 朔夜と葵の会話をこっそり聞いていた真白は、テントを片付けていた時雨を、人気のない所に連れ出した。



「何、真白くん。話したいことって」

「……」

「真白くんが恥ずかしがり屋だってことはとっくに知ってるけど、わざわざこんな所に連れ出さなくても…「お前、何で言わねーんだよ」


 わざと茶化すような言葉を口にしていた時雨だったが、真白の真剣みを帯びた声に、その口をそっと閉じた。


「……何のこと?」

「……アイツの正体、気づいてんだろ」


 真白は、半ば確信にも近い気持ちで、時雨に問いかける。


 昨晩の鬼の妖の正体が、朔夜であることに。朔夜が妖怪の血を引いていることに――この男はとっくに気づいているのだろう、と。


 しかし葵は、朔夜の正体にはまだ気づいていないようだった。つまり時雨は、自身の主にその事実を伝えていないということだ。


 真白は時雨の腹の内がさっぱり読めなかった。

 一体何を考えているのかと、訝しんでいるのだ。返答次第では――朔夜に危害を加えるつもりが少しでもあるならば、この場で始末することも厭わない、と。そう考えていた。


「……ボクの口からは、葵に伝えないよ」

「何でだよ」

「ボクは朔夜くんの親父さんに、ちょっとした借りがあるんだ。それに……」


 そこで言葉を切った時雨は、賑やかな声が聞こえる方角に目を遣って、柔く目を細める。


「朔夜くんなら、葵の心も……救ってくれる気がするから」

「……」


 時雨はいつだって、真白たちの前で読めない笑みを浮かべてばかりいる。

 だというのに、この男のこんなにも優しい表情を初めて目にしてしまった真白は――二の句を継げずに、その口を噤んでしまった。


 黙り込んでしまった真白を一瞥した時雨は、それ以上言葉を紡ぐことはなく、一足先に皆のもとへと戻っていった。



 ***


 朔夜は蛍たちに近くを散策してくると声を掛けて、昨晩、山神様に会った祠にきていた。


「おはようございます」


 手を合わせてから朝の挨拶をすれば、ぼんやりと山神様の姿が見えてくる。


「お前さんは、昨日の……酒呑童子の息子か」

「はい。昨晩はありがとうございました」

「なぁに、儂は何もしておらんよ」

「でも、友達を助ける力を与えてくれたのは、山神様ですよね?」

「否。あれは、お主の中で元々眠っていたモノだ。それが目覚めただけで、儂はきっかけを与えたに過ぎん」


 昨晩、朔夜が友を助けに向かった姿を、鏡を通してばっちり目にしていた山神様は、目を細めて笑う。目尻にくっきりと皺ができた。


「皆が無事で良かった。お前さんも、よく頑張ったな」

「……はい。ありがとうございます」


 山神様からの真っ直ぐな称賛の言葉に、朔夜は照れ臭そうに笑う。


「あの……これ、良かったら。食べてください」


 朔夜は、家から持ってきていた饅頭を差し出した。

 出来立てに比べればその味も多少は劣るだろうが、ふわふわの生地には、甘さ控えめのこし餡がたっぷり入っている。組の者にも人気の饅頭だ。


 昨晩のお礼を伝えてこれを渡すために、朔夜は祠を訪ねたのだ。


「これは、お主が作ったのか?」

「はい、そうです」


 祠の前に供えれば、饅頭はすぅっと空気に溶けるように消えて、祠の中にいる山神様の手元へと渡る。

 受け取った饅頭を一口頬張った山神様は、過去を偲ぶような顔つきで、目を細めた。


「……うむ。懐かしい味がするな」

「懐かしい味? もしかして……母にも会ったことがあるんですか?」

「否、母君ではない。儂が会ったのは……」


 山神様の脳裏に、一人の青年の顔が浮かび上がる。


「……否、何でもない。美味い菓子をありがとう、酒呑童子の息子よ」

「はい、また来ますね」


 山神様の濁したような返答に、朔夜は首を傾げながらも、追及することはせずに笑顔を返した。


 こうして、数多な想定外の展開には見舞われながらも――叢雲山での一泊二日のキャンプ旅行は、無事に幕を閉じたのだった。


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