第四十九話 妖狐の少女、再び



 鬼の妖――人間から完全に妖怪へと姿を変えた朔夜は、抱き上げた妖狐の少女――紗狐を連れて木の上を移動し、山奥の崖の前に降り立った。


 少女をそっと地面に下ろして、自身は近場にあった岩場に腰掛ける。


「……」

「……」


 互いにだんまりの沈黙が続く。それを破ったのは、朔夜だった。


「お前は、治癒が得意なのか?」

「……うん」

「……そうか。すげーな」


 紗狐は、恐る恐るといった様子で顔を上げる。罵られるか、詰問されるか……何かしらの厳しい言葉を掛けられることは、覚悟していたからだ。

 しかし見上げた先にあった顔は、紗狐が想像するよりずっと穏やかで、優しいものだった。


「ご、ごめんなさい」

「……何がだ?」


 気づけば紗狐は、ポロリと謝罪の言葉を口にしていた。

 穏やかで落ち着いた声音に促されて、紗狐は謝罪の訳を、この山にいた経緯を説明する。


「わ、私、何も知らなくて……兄様のところに帰る途中に、偶然、同じ組にいたあのひとたちに会って……同胞なら、力を貸せって……負傷者の治癒をしてほしいって頼まれて……っ、でも私、あんな斬り合いとか、人間を無理やり捕まえてるだなんて、そんなこと、知らなくて……」


 紗狐は掌を、ギュッと握り締める。

 何も分からぬまま、お前は援護と治癒にあたれと言われ、気付けば戦闘が始まっていたのだ。だけど、怖くて、結局は何も出来ずに茂みに隠れていただけだ。

 握り締めた掌に爪が食い込み、そこから血が滲む。紗狐の心の内を表しているように、ジクジクと痛み出した。


 けれどその手を、朔夜は包み込むようにそっと握る。


「止めろ、傷になっちまうだろ。……怖かったな」


 ポンポンと頭を撫でられた紗狐は、手の力を緩め、その目に涙を浮かべる。


「うん、怖かった。だから、あなたがきてくれて……安心したの」

「……そうか。なら良かったよ。……さっき同胞っつってたが、アイツらがどこの組のもんなのかは、言えるか?」

「……ごめんなさい。それは、言えない。でも私は、人間を傷つけたいだなんて思ってないの。さっきの妖たちは、多分、組を追い出された妖たちだと思う。家に帰ったら……さっきの妖たちのことも報告するし、組の人達にも、兄様にも、人間を無闇に傷つけないようにって、きちんと私から伝えるから……だから、信じてほしい」


 紗狐に懇願するような目で見上げられた朔夜は、数秒ほど逡巡した後、小さく頷いた。


「……分かった。お前の言葉を信じる」

「っ、……ありがとう」


 紗狐の目尻から、堪えきれなかった涙が一筋流れる。

 それを指でそっと拭いながら、朔夜は優しい微笑を返した。


「……それじゃあ私、今度こそ帰るね」

「一人で帰れるか?」

「……前にも言ったでしょ。私、これでも八十年近くは生きてるって」


 紗狐はほんの少しだけ頬を膨らませて、ムッとした声で言う。

 どうやら紗狐は、この鬼の妖が、以前助けてくれた朔夜であることに、とっくに気づいていたようだ。


「ふっ、そうだったな。もう寄り道すんじゃねーぞ」

「うん。……やっぱりあなたって、変なひとだけど……」


 紗狐はその言葉の続きを口にすることはなく、代わりにその口許に、柔らかな笑みを浮かべる。


「……ありがとう」


 少女らしい、幼さを感じる愛らしい笑顔だった。

 人型から四足歩行の子狐へと姿を変えた紗狐は、今度こそ朔夜に背を向け、兄が待っている家へと帰っていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る