第三十六話 祭りの後の林檎飴



 魁家が営む小料理屋、『なごみ処~椿~』からの帰り道。

 葵はずんずんと足早に夜道を進んでいた。


「(っ、クッソ……)」


 ――何だこれ。何かが腹の底から込み上げてくる感覚。怒りでもなければ、悲しいわけでもない。変にむず痒くて、じわじわと込み上げてくるこの感情に戸惑いを感じながらも、葵はこの感覚を、不快に感じているわけではなかった。むしろ……。


「葵、置いてかないでよ」


 時雨が追い付いてくる。


「……別にお前は、そのまま残ってれば良かっただろ」

「そうはいかないでしょ。一応葵の護衛も任されてるんだからさ」

「……」

「でも、これからは頼もしい仲間もできちゃったし、ボクも少しは気が楽になるかな?」

「っ、……うるせぇよ。死ね」

「だから、その言葉遣いは止めなってば」


 葵の照れ隠しにもちろん気づいている時雨は、仕方ないなぁといった風に笑っている。


 葵は、これまでまともに友人と呼べる存在がいなかった。それこそ、女として、本当の自分を偽って他人と関わってきた。

 だからこそ、自分の素性を知っても尚、朔夜が正面から友達だと言ってくれたことが――本当は、嬉しかったのだ。


 決まりの悪そうな顔でそっぽを向く葵は、それ以上言葉を返すことなく歩き続ける。


 時雨は、そんな葵の背をゆっくりと追いかけながら、その口許には穏やかな笑みを浮かべている。


「……よかったね、葵」


 時雨の声は小さくて、葵には届かなかっただろう。けれど時雨は、それで良いと思った。きっと葵は、そんな自分の感情を、まだ素直に認められないだろうから。


 ――これから少しずつでも、葵にとって、心を許せる存在が増えていけばいいな、と。


 夜空に輝く満月を見上げて、時雨はそんなことを思っていた。



 ***


 葵と時雨は、日付を超える前には帰ってしまった。


 葵は店を出る直前、朔夜の直球な言葉に照れながらも、“悪さをすることのないように”と、赤髪の妖怪へと睨みを利かせ、牽制を忘れることはなかった。


 妖怪だと気づいていながらその存在を見逃したのだから、葵からしてみたら、かなり譲歩した方なのだろう。


 当の赤髪の妖怪は、葵のまなざしにへらりとした笑みを返しながらも、深夜まで一定のペースで酒を飲み続けていた。足首に巻き付いていた呪符からも解放されて、いつも以上に酒が進んだのだろう。


 赤髪の妖怪は、この呪符が外れたら社を出ていくと言っていたが――結局は行く当てもないため、このまま暫くは、五月雨様の社で過ごすつもりらしい。


 「仕方ねぇから、もう暫く世話になってやるよ」との赤髪の妖怪の言葉に、五月雨様は「全く、仕方のない奴じゃのう」と呆れた溜め息を漏らしながらも、その顔には優しい微笑を湛えていた。


 そういえば名前を聞いていなかったと気づいた朔夜が尋ねれば、赤髪の妖怪は「オレの名は不知火しらぬい! オマエは呪符をとってくれたからなぁ、特別に、不知火様って呼ばせてやるよ!」と高らかに名乗り、「また飲みにきてやる」と、かなりの上から目線でモノを言っていた。


 朔夜は笑顔で頷き、「また社にも遊びに行くね」と約束をしてから、真白と共に店を後にし、長い石段の上にある家へと戻ったのだった。



 ***


 風呂に入り、朔夜と真白は縁側で肩を並べて座っていた。

 夜空を見上げれば、遥か頭上に、まんまるの月がぽっかりと浮かんでいる。今宵は満月だ。


「……あ、そうだ。真白、はいこれ」


 穏やかな沈黙が流れる中、朔夜が差し出したのは、林檎飴だった。鮮やかな赤い飴でコーティングされた林檎は、闇夜の中でも艶々と輝いて見える。


「……何だよ、これ」

「え? 何だよって……ほら、時雨くんと一緒に立ち止まってたでしょ? あれって林檎飴の屋台を見てたんじゃないのかなって思って、後で買っておいたんだよ」


 朔夜の言う通り、あの時真白が視線を向ける先にあったのは、林檎飴だった。だが真白は別に、林檎飴を食べたいから熱いまなざしを向けていたわけではなかった。


 ――真白は、まだ幼い頃の朔夜に手を引かれて、一緒に出店を見て回ったことを思い出していたのだ。


 あの頃の真白は、まだ朔夜に完全に心を許していたわけではなかった。

 けれど、屈託のない笑みを浮かべて手渡された林檎飴のことや、繋がった小さな掌の温かさを――何年もの月日が流れた今でも、真白は鮮明に思い出すことができる。


「……じゃあ、貰っとく。……ありがとな」

「うん、どういたしまして。……今日は楽しかったね、真白」

「……まぁまぁ」


 真白の愛想のない返答に、朔夜は優しく微笑んだ。

 静かに立ち上がると、「先に戻るね。おやすみ、真白」と、部屋に戻っていった。


 朔夜の背中を見送った真白は、右手に持った林檎飴を月の光にかざしてみた。まあるい金色に、真っ赤な林檎飴が重なる。


 真白は、そっと目を閉じた。

 瞼の裏には、あの日の優しい思い出が――あたたかな情景が、映し出されていた。


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