第三十二話 兎の番妖



「あはは……何か、取れちゃったみたい」


 朔夜はほろ苦い笑みを浮かべて、呪符を持ち上げながら言う。呪符の効力はすっかり消失していて、それは最早、ただの紙屑となっていた。


「……マジかよ。オマエ、どうやってこの呪いを解いたんだ?」


 驚愕した様子で呆けていた赤髪の妖怪は、面白そうに口角を持ち上げて、朔夜に尋ねる。


「どうやってって言われても……特に何も。取れそうだなって触れてみたら、スルスル解けちゃったから……」

「クッ……マジか。オマエ、人間のくせにやるな」


 赤髪の妖怪はクツクツと喉の奥で笑いながら、朔夜の背中をバシバシと叩く。

 その様を目にした真白は、妖怪を射殺さんばかりの目で見つめている。胸中で「(気安く触んじゃねーよ)」と、怒気を込めた声で呟きながら。


「なぁ、オマエも陰陽師の家系なのか?」

「ううん、僕は全然……普通の人間だよ。家で小料理屋をやってるくらいで」

「へぇ、小料理屋か。……うし、決めた。今夜はオマエん家に行って、快気祝いにたらふく飲ませてもらうぜ」

「……え? ウチにくるの?」

「あぁ、いいだろ?」

「まぁ、今日は君たちがきても問題ない日だし……うん、分かったよ。一応家に電話して、席が空いてるか聞いてみるね」

「……って、ちょっと待て‼ 何勝手に話を進めてんだよ……‼」


 とんとん拍子で進んでいく会話に口を挟んだのは、葵だ。

 声を荒げて、朔夜と赤髪の妖怪の間に身体を滑り込ませた。


「あぁ? 何だよ」

「何だよはこっちの台詞だ。……妖怪を滅するのが、オレの仕事だ。お前を此処からみすみす逃すわけにかいかねーな」

「はっ、なら今ここで、俺と勝負してみるか? 止めたきゃ止めてみろよ。呪縛から解放されたオレに、オマエごとき弱っちい人間が敵うと思ってんのか?」

「……いいぜ。やってやるよ」


 目をぎらつかせた二人は、今にも戦闘をおっぱじめそうな雰囲気だ。


「わー! 社で暴れちゃだめだよ東雲さん! 妖怪さんもちょっと待って……‼」


 一番近くにいる朔夜が止めに入るが、今の二人の目には、目前の敵しか見えていない。葵が式札を取り出したのと、赤髪の妖怪が手元から真っ赤な炎を燃え上がらせたのはほぼ同時のことだった。


 朔夜が巻き込まれかねないと思った真白がいち早く動いたが、その足を踏みだしきるよりも早く、五月雨様の大きな声が社一帯に響き渡った。

 真白はその足をピタリと止める。


「皆、一旦落ち着くのじゃ!」


 葵と赤髪の妖怪もまた、その動きを止めて五月雨様の方を見る。


「お主が此処で暴れれば、この社がどうなるのか、想像がつかんわけではあるまい。これまで面倒を見てやった恩を、仇で返す気か?」

「ぐっ……」


 五月雨様の言葉に、赤髪の妖怪は言葉を詰まらせている。此処で匿ってもらっていたことに対して、一応恩は感じているらしい。


「お前さんもじゃ。お家の責務を全うせんという心意気は素晴らしいと思うがのぅ……相手をしかと見極めてからでも、遅くはないと思うぞ。こやつは口も態度も悪いが、根はそこまで腐っていないからのぅ」

「っ、……そんなの関係ねぇよ。妖怪は、その存在自体が危ういんだ。妖怪だから、滅する。……それだけだ」


 葵もまた、五月雨様からの諭すような声を聞き、その言葉を詰まらせた。

 しかし直ぐに言葉を紡ぐ。自分自身にも言い聞かせるような力強い声で、自身の使命を、考えを、きっぱりと言いきった。


「ふむ、そうか」


 五月雨様は、それ以上何かを言及するつもりはないようだった。静かに頷くと、ぽけっと突っ立ったままの朔夜の方に顔を向ける。


「お前さんの店は、月詠町内にある、長い石段の下に構えとる店のことじゃろう?」

「……あ、はい。そうです」

「やはりそうか。風の噂で聞いとったんじゃ。お前さんの店は料理もさることながら、出される酒も上等なものばかりで、格別だとのぅ」

「おい、マジかよジイさん!」


 赤髪の妖怪は目を輝かせる。そこら中に散らばっている酒瓶のほとんどを空けたのもこの妖怪のようだし、かなりの酒好きなのだろう。


「はい、料理もお酒もウチの自慢です! よければ五月雨様もいらっしゃってください」

「ホッホッ、ワシもぜひ行きたいところなんじゃが……しかし、社を空けるわけにもいかんからのぅ」


 五月雨様は長い白髭を撫でながら、困り顔で言う。


「……はぁ。仕方ねぇな」


 口許を引き結んで黙っていた葵だったが、いかにも面倒くさそうにそう言うと、懐から一枚の式札を取り出した。人差し指と中指で挟んで眼前で構えると、文言を唱える。


「――我、主従の契りを結ぶ者なり。戒めを解き、玉兎ぎょくとの力を使ひて、我、点ず地を守護せよ」


 ふわりと、小さな風が吹き抜ける。そして、葵の足元には、小さな兎が三匹。


 ――ん? どうして此処に、兎が?


 朔夜は目を擦って、もう一度地面に視線を落とす。しかし何度見ても、そこにいるのは真っ白でふわふわの毛並みをした、小さな白兎だった。


「ほぅ。お主、式神の召喚もできるのか」

「あぁ。コイツらに攻撃力はほとんどないが、その分、守りの力に徹してる。コイツらに任せておけば……数時間くらい社を空けても問題はねーだろ」

「うむ、そうじゃな。通力の高いお前さんの式なら、安心して任せられそうじゃ」


 五月雨様は、兎の式の背をそっと撫でて笑った。


「ねぇ東雲さん、僕も撫でてもいいかな?」

「あ? ……あぁ、別にいいけど」


 了承をとった朔夜も屈みこんで、白兎の身体にそっと触れる。

 大人しく微動だにしなかった白兎だが、朔夜が優しく撫でれば、その耳をピクピクと揺らして、“もっともっと”というように、控えめに朔夜の手にすり寄った。


「か、可愛いっ……! ねぇ真白も見てよ!」

「はぁ? 俺は別に……」

「いいからいいから!」

「……ふふ、真白くんと白兎って、何だかお似合いだね」

「……あ? どういう意味だよ」

「え? 真白くんは可愛いって意味に決まってるでしょ?」

「……ぶっ殺す」


 白兎の愛らしさに、朔夜は薄っすらと顔を赤くして身悶えているし、真白と時雨はいつもの睨み合いを始めてしまった。赤髪の妖怪たちはまた飲み始めているし、葵は朔夜の能天気な面を見て呆れた溜息を漏らしている。


 つい先ほどまでの緊迫した空気も、気づけばすっかり霧散していた。それはこの白兎のおかげなのか、それとも……。


 五月雨様は一匹の白兎の背を撫で続けながら、朔夜の横顔を、柔らかなまなざしで見つめていた。


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