初出勤

「ゔっ」


 激しい頭痛と共に目が覚めた。

 ガラスから直に太陽の光が差し込んできてる。


 昨日はたしか石瀬と一緒に飲んで……だめだ。

 どんなことを喋ったのか、一切記憶がない。

 お酒が置いてあったテーブルはきれいになっている。

 代わりのように、その上には一枚の紙切れが置かれていた。

 

『もし何かあったときように連絡先を書いとくね。電話番号――――』


 電話、ラインと連絡先が書かれた紙切れ。

 

 俺は一体酔っている間にどんなことを言って、石瀬に連絡先を書いてもらうような仲になったんだ? 

 もちろん連絡先はいつか聞こうと思っていたが、ここまで距離感が縮まったのは酒を飲んでいたとき。


「はぁ〜」


 なにかやってしまったみたいだ。

 もう過ぎてしまったことは仕方ない。

 とりあえず連絡先を登録しておこう。


「へ?」


 スマホの現在時刻を見て心臓が跳ね上がった。

 月曜日、8時32分。

 辞職したときの俺ならなんとも思わないが、今日から出勤しなければならない。

 たしか、9時までに到着していないといけなかったような……。


 つまるところ、どうやら俺は出勤初日にしてクビがかかった遅刻の危機に陥ってるらしい。

 俺はそう他人事に思いながら、なにかの間違いだと頬をつねった。痛い。二度、三度とつねっても痛みを感じる。


「うん。やばいなこれ」



  ★★★★★



「うっひゃ〜! こんないい食堂が会社の下にあるなんて夢みたい!」


 正面に、子供のようなキラキラとした瞳の女性がいる。頼んでいるものが旗がついているお子様ランチであり、座高が椅子に合っていない。

 首からぶら下げているカードを確認しなければ、スーツを着た可愛らしい子供になってしまう女性は――笹屋静穂ささやしずほという名前。

 今日が初出勤の新社会人だ。

 

「楚山さんはちゃ〜んと先輩である私のことを敬うように」


 先輩後輩の序列がつけられているのは、出勤した時間が俺の方が遅かったからだ。

 勝手に後輩にされているが、二人とも遅刻ギリギリで飛び込みセーフしたので出勤時間は大して変わらない。

 

「はいはいわかったよ。笹屋ちゃん」


「ちゃん付けすな!」


「でも笹屋ちゃんって、ちゃん付けした方がさん付けより似合うと思うんだよね。なんというか……チンチクリンみたいで」


「私の名前バカにしませんでしたか!?」


 笹屋ちゃんは面白い子だ。

 噛めば噛むほど美味しくなるつまみのように、からかえばからかうほど味が増す。

 それに加えて、つい頭を撫でたくなるような小動物的な可愛さを持ち合わせているので、完璧と言ってもいい。


「可愛い名前だなって言う意味で言ったんだよ」


「あ、それならそうとちゃんと初めに言って貰わないと困っちゃうんだよねぇ〜。可愛いなら可愛いって、ね? これだから楚山さんはモテないんだよ」


 石瀬といい笹屋ちゃんといい、そんな俺はモテない男に見えるのだろうか。

 というか、笹屋ちゃんに上から目線に言われても、子供に言われているように感じて心に響かない。


「楚山さんってば、そんな私のこと見ても何も出てこないぞこのやろう!」 


 ペラペラと言葉が出てきて、話についていける気がしない。

 とりあえずお昼ごはんを食べよう。

 このまま笹屋ちゃんにかまっていたら、せっかくのお昼休憩が台無しになってしまう。


「無視、するつもりなんだね……。そうはさせるか! 高久保先輩。いっちょかましてやってください!」


「あのねぇ。ここは他の会社の人もいるんだから、もうちょっと静かにご飯食べられないかな?」


「あっひゃっごへんなひゃい! だからクビだけはしないでくだひゃい!」


「一回の失敗でなんてクビにしないよ。……二回目はどうなるのか保証しないけど」


 「ふふふ……」と、悪魔の笑いをこぼしている女性は――高久保紗也たかくぼさや

 3年先輩で、ちょうど俺と同い年だ。

 同い年だというのに、大人びている。

 そう思うのはおっとりとした落ち着いた空気感。そして、外見でパッと判断できる大人らしい体つきが理由だ。


 高久保さんは俺たち新入社員二人の教育係。

 すれ違う同じ会社の人から軽くお辞儀される程には、仕事ができる人らしい。

 俺もいつか歩いてるだけで尊敬の眼差しを向けられるような男になれるだろうか?


「さ、さすが高久保先輩……。かっちょいぃ〜!」


 うん。笹屋ちゃんよりは早く尊敬の眼差しを向けられるような人になれそうだ。


 今回転職したこの会社は、ザ・ホワイト。

 前の会社でおかしくなっていたが、ここには机の周りで寝ている人や、ソファで寝ている人がいない。なにより違うのは、みんな目が死んでいない。

 と言っても、仕事自体テレワークが基本なので会社に人がいない。

 リモート会議以外で、大切な会議や仕事上外に出ないといけないことがあれば出勤することになっているが、高久保さんによるもそんなこと殆どないらしい。

 なので一ヶ月の大半が家で過ごすことになり、引きこもりみたいになってしまうだとか。

 まあ、自由に会社に出社してもいいらしいので、自分の判断でということらしい。

 

 初見でザ・ホワイトというだけあって、黒っぽい色が一切ない。

 新社会人である笹屋ちゃんは、大当たりを引いた。

 ……とは言ったものの。


「ぐへぇ〜。づ、づがれだ!!」


 一日の仕事が終わった頃には、疲れ切った顔になっていた。

 まだ二徹したとき職場のトイレで見た自分の顔より色があるので、無理はしてなさそう。


「笹屋ちゃんは頑張り屋さんだな」


「そ、楚山さんはなんでそんな余裕ぶっこいてるの……」


「まあ、そこまで大変じゃなかったからな。このくらいの仕事量は余裕よ余裕」


「なんだって!? 楚山さんが仕事ができる男だったなんて誤算だ……。これから媚び売りまくったら、仕事肩代わりしてくれたりするかな」


「お〜い。ゲッスい計画丸聞こえだぞ」


「自分の仕事を他人に肩代わりさせるなんて、正当な理由がなければクビになっちゃうかもなぁ〜」


「ひっ!?」


 高久保さんのおっとりとした声を耳元で囁かれた笹屋ちゃんは、ビクッと陸に上がった魚のようにその場に体が跳ね上がった。


「ク、ク、ク、クビだけはどうか!! 私には不自由な親がいて、親のためにいろんなものを仕送りしないといけないんです……。ぐすっぐすっ。クビだけはご勘弁を」


「不自由な親なんていないよね。父親は笹屋財閥のトップで、君はその御息女でしょ?」


「うぐっ。バレてたなんて……!?」


 高久保さんが言うのなら間違いない。

 笹屋財閥なんて知らないが、このチンチクリンはただのチンチクリンではないらしい。


「楚山くん。一緒にゴマすらない? 早めに恩を売っておかないと、いざってときにクビチョンパされちゃうかもしれないよ?」


「そう……ですね。権力者にはゴマすりが基本ですから」


「やめろー! やめろー! ここに入社したのはそういうゴマすりが嫌になったからなの! ……もしゴマすりすりしたらお父さんに言いつけちゃうよ」


 少し前まで高久保さんのクビという言葉に恐れていたのに、逆に脅してくるなんて忙しない人だ。


「あ、あの……ようするに、仲良く一緒に仕事できたらなって思ってたりして……」


 脅してきた態度とは裏腹に、笹屋ちゃんはチラチラと恥ずかしそうに顔を伺ってきてきた。

 その変わりように、思わず高久保さんと目を合わせてしまった。

 財閥の御息女にも色々苦労ごとがあるということか。


「改めて笹屋ちゃん。よろしくね?」


 高久保さんは頭を優しくナデナデしながら話しかけた。

 母性あふれる顔に笹屋ちゃんが耐えられるはずもなく。

 

「笹屋ちゃんじゃなくて静穂ちゃんって呼んで。……楚山さん改、そーちゃんも静穂ちゃんって呼んでいいからね」


「ああ。うん」


 別に俺、そう呼びたいなんて言ってないんだけど。

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