S地区の伝統行事「ええ子、ええ子」

 そもそも「ええ子、ええ子」は、旧T村S地区で新年に開催される行事の名称だという。地区の小学校高学年の子供たちが、前年に赤子の産まれた家庭を訪問し、玄関先で祝い唄(おそらくそのように分類されるものだと思うが、定義が間違っていたら申し訳ない)を歌うそうだ。事前申込制となっており、訪問してほしい家は、前もって区長に寸志を渡し、当日の夜を待つ。子供たちは、昼過ぎに公民館に集められ、ストーブを囲み、蜜柑を食べながら段取りの説明を受ける。参加が初めての子供のために、祝い唄の確認も行う。なお、当日説明と引率を担当する壮年の男性が何者であったのか(区長本人なのか、行事の推進委員のようなものなのか)は妻にもわからないらしい。日が落ち、空が暗くなり始めると、出発の時間となる。懐中電灯を持った男の先導で、子供たちは緩い隊列をつくり、家々を巡る。概ね10人ほどの行軍になるという。予定された家全てを回り終えると、公民館に戻り、報酬を受け取って解散する。報酬は、ポチ袋に入った現金であり、依頼者の寸志の合計を子供たちの頭数で割った額だと考えられる(運営側による中抜きが何割行われているかは定かでない)が、大体2000円か3000円が相場であったという。

「そんなに貰えるの? 貰いすぎじゃない」

「そう。だから、子供たちにとってはかなり楽しみなイベントだった」

「なんかちょっと怖いな」

「全然怖くないよ。大人の付き添いもあるし、途中で謎の祠に立ち寄ったりもしないし」

「それもそうか」

「謎の祠の近くは通るけど」

 あるのかよ、謎の祠。

 妻の話によると、地区を巡るのに便利な海沿いの大きな通りから、内陸側に向けて一本だけ、誰も通らない細い路地が伸びており、そこを進むと突き当たりに小さな祠があるのだという。「一人ずつ、蝋燭の灯りだけをたよりに、この小さな鈴とお花を祠に供えて、あとは絶対に振り返らずに帰って来てね」みたいな儀式が執り行われたら、間違いなく途中で振り返った者が神隠しにあって戻って来ないものと推察されるが、「ええ子、ええ子」においてはさすがにそんな寄り道の機会はなかったらしい。


 気になって、簡単にインターネットで検索したところ、「ええ子、ええ子」と似たようなコンセプトの行事は比較的よく行われているようだ。正月14、15日に、子供たちや青年が家々を訪れ、木で作った棒で、前年にその地域に嫁いで来た新妻の尻を叩いて回る「嫁たたき」という風習が全国各地に残っているとのことである。これは、妊娠・豊産を祈念して行われているそうで、嫁の尻を叩くための棒は「はらめ棒」など、現代のコンプライアンス的に好ましくない俗称で呼ばわれているケースもある。「ええ子、ええ子」は、言ってしまえば「嫁たたき」の続編であり、妊娠・出産という一大イベントを乗り越えて誕生した、地域の次世代を担う貴重な存在である赤子の無病息災を祈るための風習であろうと理解された。

 ところが、「嫁たたき」やそれに類似する行事に関する記事はいくらでも見つかったが(一例を挙げれば、F県K市の「嫁ごの尻叩き」はコロナ禍を挟んで2022年に5年ぶりに開催され、地方新聞にも取り上げられた)、「ええ子、ええ子」に言及した記事はただの一つも見つからない。そもそも、本来的には口頭で「EEKOEEKO」という連続する6音でのみ伝えられている行事であり、文書上の正式な表記が定まっておらず、効果的な検索式がたてられない。本作品で採用した「ええ子、ええ子」は、唯一行き着いた国立国会図書館に所蔵中の資料内の記載方法を踏襲したものである。当該資料は、K博物館が1991年に編纂した『H・I(※作者註 T県内において旧T村を含む地方とその隣接する地方の名称が連続して表記されている)の風土と歴史』というタイトルの86ページからなる写真集であり、81枚目の写真として、1963年に当時のT村S地区において撮影された「ええ子、ええ子の夜」という作品が収載されているという。この情報化社会において、「ええ子、ええ子」という行事の実在を証明するものは、現時点でこの資料しか存在していない。

 その、謎に満ちた行事で歌われる祝い唄を妻に実際に歌ってもらった時、私は背筋に鳥肌が立つのを止められなかった。

 その祝い唄は、誰がどう聴いてもおどろおどろしく暗い雰囲気で、音楽理論に疎い私でも、短調であることが即座にわかった。さらに、歌詞もどことなく不気味であり、聴いている最中も、聴き終わってからも、胸のざわつきが止まらないのである。私には、村でその唄の歌詞になぞらえた猟奇的な連続殺人事件が起こり、無能な駐在が右往左往し、探偵役が走り回って活躍する様を、ありありと思い描くことができた。

 私は妻に、その唄の歌詞を文字情報として書きつけることが何らかの禁忌に触れることがないか、何度も何度も念入りに確認した上で、丁寧に書き起こしを行った。


 むこうのやまから あなほるなになに

 うさぎ たぬき しし ぎゃるぎゃるよ

 ○○やのこどもは ええこ ええこや

 おもやのこどもも ええこ ええこや

 みんな みんな ええこ ええこや


 

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