ええ子、ええ子の夜
今迫直弥
旧T村出身の妻
妻とは、東京の大学で出逢った。彼女の出身地がT県であるということは早い段階で聞いていたが、人口3000人ほどの村の出身であることを知ったのは、付き合い始めてだいぶ経ってからだったように思う。父が転勤族だったために引っ越しは多かったものの「市」でしか暮らしたことのない私は言わばシティボーイであり、「村」という共同体が21世紀にもまだ残っていたことに驚いたくらいだ。
残念なことに、妻の実家のあったT村は、2004年に近隣の2つの町と合併し、Y町と名前を変えたため、既に地図上からは消えてしまっている(以降、旧T村と表記する)。合併してもなお「市」にはなれず、「町」止まりである点に、田舎特有の闇を感じずにはいられないが、それはさておき、海と山に挟まれた、自然豊かな非常に良いところである。妻の通っていたT小学校は、木々の生い茂った山を大人の足で15分ほども登った先にあり、校庭は一面の天然芝に覆われている。過疎化の影響で一学年につき一クラスしかなく、全校生徒の数を合わせても200人に満たないのが常だという。ただ、妻の世代とその一学年下の世代は、二周遅れのベビーブームでもあったのか、50人に迫る生徒が在籍しており、奇跡的に二クラス必要となったことで、地域の住民の間で今でも語り草になっているそうだ。
また、驚くべきことに、旧T村内には中学校が存在せず、妻はのちに合併する隣のH町まで遠距離の通学を余儀なくされていた。妻の出身中学校の名前は、H町T村中学校組合立H中学校、と言い、「中学校組合」という謎の経営母体によって支えられていた(合併により2004年にY町立H中学校に改称された)が、人口減により近隣の中学校との統合が決まり、2019年3月をもってあえなく廃校となった。
地域に人が少ないことに由来するエピソードは枚挙に暇がなく、例えば妻は、幼少のみぎりより実家のある旧T村S地区で神童として知られ、東京の有名な大学に合格した際には、「○○屋(同一苗字が多いこともあって屋号で呼ばれる)の娘があの大学に合格したらしい」という情報が謎の伝達手段によって一瞬で地区内全土に拡散し、道ですれ違った知らない老人から「まさしくS地区の誉である」と褒め称えられたのを皮切りに、家には祝いの品代わりの農作物が数多く届けられたという。昭和に作られた白黒映画の話ではない。21世紀の現実の話である。
また、決して馬鹿にしているわけでないが、妻には超弩級の田舎でしかありえない思い出話も多い。小学生まで自宅のトイレが汲み取り式であり、トイレットペーパーでなく正方形の懐紙を使って尻を拭いていたことや、片方の便所スリッパを便器の中に落下させてしまった場合に、反対側のスリッパも即座に蹴落とし、買い置きしてあった予備のスリッパを並べて落下の事実そのものの隠蔽を図ったこと、さらには、弟が小さかった頃、便槽内への本人の落下を防ぐべく、大の方をする際に母親が胴体を後ろから支える役割を担っていたことなどを、「あるあるネタ」みたいなテンションで話してくる。「子供の頃、夜に一人でトイレに行くのが怖かった」という言葉の重さが一般人と段違いである。私が妻の実家を初めて訪れた時には、現代的なリフォームが施されており、件のトイレはバリアフリーも意識された最新式のシャワー付きの代物に代わっていた。ただ、庭には、地下に座敷牢でも設置されていそうな歴史ある大仰な蔵が聳え立っていたし、立派な二階建て日本家屋の母屋の間取りは8LDKにもなる。勿論、LDKのDは「土間」のDである。その家のあまりの居心地の良さに、他の動物たちも当然寄ってくる。ある冬のこと、帰省中の妻が自室のタンスにジャージを探しに行って悲鳴を上げた。桐のタンスは背後の壁側から穴を開けられており、中はネズミの家族の巣と化していた。妻がタンスを開けた時、高校時代のジャージに包まって親ネズミと子ネズミ2匹が昼寝をしていたという(悲鳴に驚いて奥の方に逃げて行ったとのこと)。話だけ聞くと可愛らしい映像が浮かんできそうになるが、田舎のネズミはデカい。誇張なしに、小さいウサギくらいある。タンスを開けてそんなものが3体も横たわっていたら、私なら心臓が止まっていたかもしれない。
さて、ことの発端は、そんな田舎出身の妻に、私が冗談めかして「地元にしか伝わっていない曰くありげな子守唄とか手毬唄はないのか」と尋ねたことであった。私も妻も、横溝正史の金田一耕助シリーズや三津田信三の刀城言耶シリーズのような、昭和時代の田舎の因習や儀式が主題となる、民俗学を下敷きにしたおどろおどろしい雰囲気のホラー・ミステリー作品が大好きであったので、それに関する話の流れで軽口を叩いただけのつもりであった。妻は、「そんなものないない」と笑いながら即答した後、真顔に戻って続けた。
「『ええ子、ええ子』っていう変な唄なら子供の頃によく歌ったけど」
私は、何かの聞き間違いかと思った。
……21世紀にもあるのかよ、地元に伝わる謎の唄。
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