紅唇の女

燈子

紅唇の女


赤いレンガづくりの町は、旅人を歓迎してくれているようであった。

僕は、住み込みで短期間働けるところを探して、路地の中の、ある喫茶店で雇ってもらうことになった。

温かい雰囲気の、三階建ての喫茶店で、主人はとても丁寧に仕事を教えてくれた。

業務は一般的な喫茶店と変わらず、すぐに覚えられそうだった。

「この町にはたまに狼が来る。前に店に来たが、大変な騒ぎだったのさ。」と主人は最後に言った。

「狼といったって、、、。そこまで騒ぎになるほどじゃないでしょう。」

主人はにやりとして言った。

「考えてもみろ。自分が日々暮らしている空間に狼が来るんだ。山で出会うのとでは訳が違う。」

僕はそれもそうかと思って、僕はメモ帳に、たまにくる狼に気を付けろと書いた。



僕が初めて接客をする、雪の降る日のことだった。

真っ赤な口紅が似合う女が一人、店に入ってきた。長い睫の、なかなかに美しい人だった。

「いらっしゃいませ、カウンター席へどうぞ」

僕は店のはしっこの一席を案内しようとすると、店の主人がやってきた。

「あのお客様は、二人連れだ」

「え?」

「二席空いているところにご案内しろ」

「了解です」

なるほど、待ち合わせかと僕は納得して、女を二席空いているところに案内した。

女は席につくと適当にコーヒーを頼んで、コートのポケットから文庫本を取り出し、静かに読み出した。くたびれた文庫本だった。おそらく何度も読み返しているのだろう。

人を待つときはこの本を読むと、自分のなかで定番でもあるのかもしれない。


「おい、お客様を見すぎだ。失礼でしょうが。」

先輩が僕の肩を軽くどついた。

「タイプなのか」

「違いますよ。ただ気になっただけで。」

先輩はにやにやして僕を見た。

「ここの常連さんだ。あの手のタイプはやっかいだぞ。」

「だから違いますって。」

先輩はハハハと笑った。

「まぁいい。二階の片付けにまわってくれ。」


三階建ての喫茶店の三階は従業員の部屋になっていた。喫茶店そのものは二階のつくりになっているのだ。

女は一階の階段の近くの席に座っていた。


片付けから戻ってくるとき、女を後ろから見る機会があった。

カウンターに立っているとわからなかったが、女が座っている席の横に、文庫本と同じくらいくたびれたものがおいてあった。

一体なんだと思って僕は目をこらした。


黒いくまのぬいぐるみ。

放心しきったように椅子に寝そべっていた。 ぬいぐるみの目はとても赤かった。その赤い目と一瞬目があったような気がした。


僕は少しぞっとして、すぐに横に目をそらした。

結局女は、店を出るまで一人だった。


翌日、また同じ時間帯に、同じ真っ赤なルージュの女が来店してきた。

なぜ一回目は気づかなかったのだろうか、右手にはくまのぬいぐるみを持っていた。

僕は前と同じ席に案内した。



女はコーヒーを頼み、前と同じようにコートからくたびれた文庫本を取り出し、静かに読み出した。


女が、寂しさをやわらげるためにぬいぐるみを持ち歩くなんてよくあることだ。

寂しいからぬいぐるみを持ち歩く。ぬいぐるみを持ち歩いているから寂しい思いをする。ぬいぐるみを持ち歩く大人の女に、大人の男は声をかけすらしないだろう。好奇と恐怖の混じった目で女を見るだろう。

美しいのにもったいない。余計なお世話とは自覚しながらも、僕は女に同情した。


店の主人が、女とぬいぐるみを二名の客として扱っていることをふまえると、女は一度ぬいぐるみをモノ扱いしたことに怒ったのかもしれない。ぬいぐるみに命が宿っていると考えることは特殊な思想ではない。僕の人生経験が浅いだけで、美しい女が日常的にぬいぐるみを抱えているのもよくあることなのだろう。

しばらく僕は、あの女のことを考えた。

あぁそうか、と僕は不意に納得した。ぬいぐるみを恋人に見立てて、いつ来るかもしれない人を店で待っているのだ。それはもう、この世におらず二度と会えない恋人かもしれない。あるいはこの世にいたとしても・・・。

とたんに僕は、女がとても健気に思えてきた。


雪はしんしんと降っていた。

女は黙々と本を読んでいた。

結局今日も、女は店を出るまで一人だった。


来る日も来る日も女は一人のままだった。

僕は段々女に惹かれていくのを自覚していた。派手な真っ赤な口紅に相反するくたびれた文庫本。なかなか訪れない恋人を待つ一途な心持ち。最初は気色の悪さを覚えたぬいぐるみでさえも、少女みたいでかわいらしいではないか。


恋人の顔を見てみたい。彼女はどのような瞳で恋人を見つめるのだろう。どのような言葉をかけるのだろう。遅かったわね、だろうか。お帰りなさい、だろうか。寂しかった、とぬいぐるみを投げつけて泣き出すかもしれない。笑顔で抱きつくのかもしれない。



そんなのどうでもいい。

本を読む以外の動作をする彼女を見てみたい。とびきりの笑顔を見てみたい。

会計のときに話しかけようとするのだけれど、彼女を前にすると鼓動が早くなって言葉がつっかえる。

自分の心臓が他人に見えない作りになってて良かった、と僕は思った。


「あのお客様、いつ待ち人に会えるのでしょうね。」と僕はある日主人に言った。

主人はにっこりと笑って言った。

「実は、もう会っているかもよ。」


気づけば雪はもう降らなくなっていた。町に優しい風がふき、喫茶店にも柔い光が降り注ぐようになった。春が来たのだ。


もうそろそろこの町を出ようか、と考えるようになった。季節の変わり目が、旅への合図である。

僕は住み込みで使わせて貰っている部屋の片付けをした。心残りといえば、やはり彼女のことだ。彼女は相変わらず黒の不気味なぬいぐるみを連れてやってきて、黙々とくたびれた本を読み、粛々と一人で帰っていく。コーヒーをください、という言葉しか彼女の口から聞いたことがない。

今日こそは、今日こそは、を繰り返して今日に至る。自分のへたれっぷりにうんざりする。しかししょうがない。もう町から出ると思えばなにも怖くない。今日は話しかけようと僕は意を決した。


夜になった。

女はいつも通りくたびれたぬいぐるみを持って店にやってきた。トレンチコートがよく似合っている。僕はいつもの席に案内した。

コーヒーを頼んで、女はコートから本を取り出した。女が読んでいる本はおそらく同じ本である。


この女は、冬から春に季節が変わっても、読んでいる本を変えなかった。同じ本を何度も何度も読み返しているのだ。僕にはない本の読み方だった。思い返せば僕は、本も、住処も、好きな人でさえも、ころころと変化させてきたのだ。同じところで違う季節を過ごすことはない。一度読んだ本は読み返さない。まして一途な愛など持ち合わせたことがない。

彼女を見ていると、僕の今までの生き方を否定されているように思えた。


今日の昼間に、主人から町を出るのを考え直して欲しいと言われた。

お前が抜けると寂しくなるな、不満がないなら残ってくれと言われたのだ。


悪くないかもな、と僕は思った。

僕は旅をしていく中で、何か変わったか。何か身につけられたのか。あるのは短期的な知識と金、長期に渡って形成された「自分は旅人である」というプライドだけである。僕は一皮剥けるような経験を何度したのだろう。いや、一度もなかった。

剥けるというよりもむしろ僕は目新しい経験ばかり着こんでしまって肥大化しているのである。そう思った途端、そんな自分が醜く思えた。

自分の中の変化に気づくより先に自分の周りの環境を変化させてた僕は、自分に向き合えてなかった。

僕は彼女の方を見て、心の中でありがとうと呟いた。


客が増えて、店は賑やかになった。

彼女は長い睫を伏せて、視線を本に落としたままであった。

僕は皿洗いをしながら、時折彼女をみていた。

その時だった。

パリンと窓ガラスが割れる音がした。ガシャンと食器が割れる音がした。ガルルと唸る声がした。狼が、店を襲った。

何ヵ月か前の主人の言葉がゆっくりと脳内で再生される。自分が日々暮らす空間が壊されていく恐怖。狼は規格外の大きさだった。小型車くらいで、今までの旅の中で見たどんな狼よりも大きかった。

店内はパニック。叫び声が響き渡った。身体はすくんで動けなかったが、頭はなぜか冷静だった。どうやったら勝てる?どうやったら客を守れる?

彼女の方をちらりとみると、彼女は泣きながら黒いぬいぐるみを抱き締めてガクガクと震えていた。

僕は不謹慎にも、彼女の始めてみる表情に胸が高鳴り、格好をつけたい気分になった。


狼が彼女に飛びつこうとした。彼女は叫んで顔を背けた。


その刹那、黒いくたびれたぬいぐるみがひとりでに動き、うーんと伸びをした。僕は驚いてそのぬいぐるみから目を離せなかった。ぬいぐるみは満を持してという感じで目一杯伸びをした。伸びをした分ぬいぐるみは大きくなった。ぬいぐるみのあの赤い目がぬるりと動き僕の方を見た。僕の方を見ながら力いっぱい伸びをした。そして彼女の方を見ながら最後の伸びをした。

伸びを繰り返したぬいぐるみはどんどん大きくなり、彼女の身長を越すまでになった。途端にぬいぐるみの真ん中がビリビリと破れ、白いTシャツにジーンズを着た男が姿を現したのだ。


男は彼女を左腕で抱きかかえつつ、向かってくる狼に蹴りを入れた。その一撃で狼は横に倒れた。気絶しているようだった。


「ありがとう」

彼女は、完全に受身の、自分より強いものしか受け入れないような目で男を見つめた。


僕は、圧倒的な敗北感で顔が熱くなった。彼女に恋をしていたこと。彼女に恋をした結果自分が否定されるような思いをしたこと。旅をやめようと思ったこと。彼女に感謝さえしていたこと。そんな彼女に男がいたこと。その全てが悔しかった。

いつもはふわふわしててくたびれているのに彼女の本当の窮地には姿を現す男。そんな男のすべてを理解して信じて常にそばに置いておく女。そんな二人がとても神聖な気さえして、彼女に恋をしていていたことすら、恥ずかしかった。


僕は二人から目を離せなかった。

男が僕に気づいてちらりとこっちを見た。


男は僕から目をそらし、彼女の方を見て言った。

「妬けるな、こいつ、相当君に惚れてるよ。」

女は初めて僕を認知したような冷たい目で僕をみて、何も言わずに男に抱きついた。二人はそのまま会計をすまし、店を出ていった。

気絶した狼は主人が銃で殺し、慣れた手付きで処分した。 店の従業員たちは何事もなかったかのように業務に戻った。他の客たちも何事もなかったかのように話し始めた。店内はいつもの夜のように賑わった。狼と不気味なぬいぐるみから出てきた男が話題にのぼることはとうとうなかった。


不気味なのはぬいぐるみだけだったか。考え出すと周りへの不信感が止まらなかった。決してそんなことはないのだろうけれども、考えるきっかけがあることは考える価値があるのである。


夜通し考えた結果、僕は明日の朝に町を出ることにした。

やはり季節の変わり目には、旅を始めるに限る。

繊細で傷つきやすい人間は、心がむき出しにならないように着込んで生きるのに限るのである。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紅唇の女 燈子 @chihiroxxx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ