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 俺は特に目立つ人間じゃ無い。友人が多いわけでも少ないわけでもない。多少自分でもつまらないと思う程度には真面目な方だとは思うが、後で後悔するのがわかっているから悪ふざけもしない。身体が大きく鍛えても居るから、それが不利になることもない。好奇の目にさらされることも、陰口をたたかれるほとんどない、そういう人間だと自分では思っている。

 だから、入学早々ちょっとした有名人になっていた虎鉄が居残りで日誌を書いていた俺の所にやってきた時には何の用だろうと首を傾げた。

 隣のクラスに女子よりかわいい男がいる、という話は入学早々話題になっていた。確かに少し薄めの色でふんわりとクセのついた髪も、挑発的な雰囲気のある大きな瞳も、白い肌も、少し微笑んでいるような口元も、女子よりも小さな身体も、少女漫画の中から出てきたようだった。しかしすぐに中身はごく普通の男子高校生だった、という話も伝わってきた。興味本位でちょっかいを出しに行った生徒達がそれなりに居たのだろう。そりゃそうだろう、としか思わなかった。

 産まれてくる見た目を選べる人間なんていない。

 義務教育を終えると、多少世界が広がるとは言っても、まだまだ学生の内は学校が世界のほとんどだ。学校なんて狭い世界だ。異質なものには関心が集まる。それでも、この学校には悪意がある人間が居なかったのも良かった。進学校なこともあり、騒ぎを起こせば自分の不利になることもみんな分かっている。集まってくる輩を虎鉄はうまくあしらって、きちんとクラスの中に居場所を確保していた。目立つのは容姿だけ。言動も成績も平均的で、唯一運動だけ頭一つ出ていたくらい。そういう風に見えた。

 見えていただけだった。彼は本当に異質の生き物だった。

 虎鉄は学校では常に演者だ。

 だから詳しく彼のことを知る前、合同授業になる体育では一緒に授業も受けている時、それほど俺の印象には残らなかった。バスケの試合では小柄な身体でちょこまかと動き回り、ポイントゲッターにはなれないものの、繋ぎ役としてはなかなか優秀で、コイツは敵として面倒だなというくらい。

 いくら見た目がかわいらしくても、隣のクラスの生徒だ。接点だって少ないし、興味を惹かれることはそれほどなかった。中身は普通の男子高生だと思っていたのだから。

 あの日、虎鉄が教室に入ってきたのは、日誌を仕上げてさっさと部活に行こうと一人だけ教室に残って日誌と向き合っている時だった。当たり障りのないことを書けばいい、とはわかっているがその当たり障りのないことと、というのはなかなか難しい。俺の入っている柔道部は、字面の硬派な印象のわりにそれほど厳しい部ではない。なんでも数年前に上下関係にこだわりすぎる先輩が思いきり体罰を行ったせいで怪我人を出してしまってPTAを巻き込む大問題になったのだそうだ。以来規律が緩くなって、見た目のわりに柔和な人間ばかりが揃うこととなった。今では大会で勝ちたいという野望はないが、身体を動かすのが好きな人間が揃う体育会系の部活で最も居心地の良い部になっているのではないかと思うほどだ。兄貴が所属していた部だから、という理由で選んだ部活だが大正解だった。

 高校生にもなると口に出すのは気恥ずかしい気もするが、俺は歳の離れた兄のことは頼りにしているし、尊敬もしている。兄が出た高校を目指し、同じ柔道部に入ったことを喜んで貰えたのも嬉しかった。兄はまだ柔道部が厳しかった時分に全国大会にも出た猛者ではあるが、部の先輩と同じかそれ以上に温和な人間だ。

「ねぇ、立花君」

 書き終えた日誌をぱたんと閉じると、軽い足音をたてて虎鉄がこちらに向かってきた。衣替えを終えたばかりの季節で、半袖から伸びる腕は青白いと言えるほどに白かったことを覚えている。

「長岡……だっけ?」

「うん」

 うっすら覚えていた虎鉄の名字を言うと、かわいらしい顔でにこりと笑う。

 初めてまじまじとその顔を見て、確かにアイドルみたいな造形をしているな、と思った。それもステージの上で派手にパフォーマンスをする男性アイドルではなく、お揃いの衣装を着てひらひらと舞う女性アイドルだ。

「単刀直入に言うね。付き合ってくれないかな?」

 小首を傾げて、虎鉄は、唐突にそんなことを言った。

「どこに?」

 それまでも体躯には恵まれているせいで、時折付き合って欲しいと言われることはあった。父も母も大柄だ。喧嘩なんてしたことは無いが、見てくれだけは立派だなので調停役のようなことを時折たのまれた。つい一月前に、バイト先でストーカーに付き纏われるようになった女生徒に頼られたばかりだ。一度迎えに行ってそのまま家に送り届けただけで、バイト中に声を掛けてこなくなったというのだから、相手の男も腰抜けだ。特に逆恨みされることもなかった。だから、こんな綺麗な顔をしているとそういう輩に眼をつけられるんだな、と思ったのだ。

「その返事、随分古典的冗談だね」

 古典的?

「そういうんじゃなくて、お付き合いしましょうってこと」

「は?」

「放課後の誰も居ない教室に狙って来て言うんだから、そのくらい察して欲しかったな」

 虎鉄の言う、【お付き合い】が何のことを言っているのかわからないわけじゃない。

 目の前にいる人物を上から下までざっと確認する。学校指定の白シャツに黒いスラックス。当たり前だが凹凸なんてほとんどない。顔は愛くるしいという部類だと思うし、彼より華奢な男子はそうは居ないが、男の身体だ。

 だいたい、先日水泳の授業が始まったばかりで、体育の授業は一緒に受けているから裸も見ている。

「何……?」

「一目惚れしたから」

 かわいい顔がくしゃりと歪む。浮かんだ笑みにはなぜか先ほどまで感じていた幼さはなく、妖艶に見えて背筋がぞくりとした。

 何を言っているのか、と言う言葉の前に、すっと虎鉄が近づいてくる。

 自分よりずっと小さな、細い身体。

 それなのに妙な圧力を感じた。

「プールで見て、いいなぁって思ったんだよ。ボディビルダーみたいにバッキバキのはあんまり好みじゃないんだけど、立花君のはちょうど良い。柔道部の中でも細身でしょ。ちゃんと綺麗な筋肉ついてるのに」

 口元は笑っているのに、虎鉄の目は笑っていなかった。

 自分の知っている人間じゃなかった。

「あと、ほら。好きになった理由っていえば……お兄さんって警察庁のキャリア組なんでしょ?」

 今までの人生の中で告白されたのはこれが初めてだが、この状況がおかしいのはわかる。虎鉄の目は獲物を狙う捕食者の目だ。家の近所の人なら、年の離れた兄が警察官の中でもごく一部しかいないキャリア組として警察庁に入庁したことは知っている。だが、クラスメイトにその話をしたことはない。兄の職業を聞かれたことはあるが、公務員としか口にしたことはない。

 だいたい、高校生が付き合いを始めるのに、兄の仕事の話を持ち出す必要などどこにあるのか。

「好みなんだよ。何もかも。融通の効かない真面目な性格も、見た目だけで威嚇できる立派な身体も、頼まれたら嫌とは言えない優しいところも」

 蛇に睨まれた蛙、という言葉を思い出した。

 同じ学年の、隣のクラスの男子生徒相手に逃げ出したいのに、怖くて逃げられない。身動きが取れない。

 また一歩、虎鉄が近づいてくる。

 ゆっくりと、勝ち誇った顔で。

 机に座ったまま立ち上がることができない俺の前にやってきて、ほんの少し身をかがめる。

 唇と唇が触れた。外国製の柔軟剤のような甘い香りがした。

 慣れた様子でキスをしてきた虎鉄の唇は、ちいさくてかわいい見た目通り柔らかい。どこからか、カシャリ、という電子のシャッター音が聞こえた。

「こういうのされても、おとなしいんだ?」

 くくっと喉の奥でからかうように笑って、唇をなめる。

「好きなんだろ? お兄さんのこと」

 こいつはどこまで俺のことを知っているのだ。兄の仕事のことは調べれば分かる。そんなに難しくは無い。

 だけど、そんなこと……。

「ニュースとかではLGBTがとか、平等がとか言われているけど、警察庁って頭固そうだから、これ、多少は保険になるかな」

 虎鉄の手の中にあるのは小さなリモコンだった。

 首を捻ると、少し離れた場所に、スマホが立っているのが見えた。スタンドか何かで支えているのだろう。

「ファーストキス、ごちそうさま」

 色の薄い、柔らかなくせ毛がふわふわと目の前で揺れた。虎鉄は笑っているようだ。ゆっくりとスマホを手にとって仕舞うと手を振って教室を出て行く。

 混乱で頭がぼんやりする。

 今のは、何か出来の悪い悪夢ではないだろうか。

 たった一人で教室のしん、と静かで今まで眠っていたのではないかという思いが湧いてくる。

 小さく首を振って、書きかけの日誌を手に取る。職員室にいる担任にこれを提出したら、部活に今日は休む旨を伝えにいこう。いくら強豪校ではないとはいえ、こんな調子で取り組めば怪我をする。気の良い柔道部の仲間達は、気もそぞろな様子を見たら逆に心配してくれるだろう。散らばっていきそうな理性を掻き集めてなんとか日誌を書き終えて、俺はすぐに家に帰った。

 その日、俺は入部して初めて部活を休んだ。


 その日の夜、自室で白昼夢でも見たのだろうと宿題をやっている時にスマホが鳴った。

 知らない番号からのショートメッセージだ。

 これからよろしく、と書かれている。

 教室での出来事は夢じゃ無かった。悪夢はここから始まった。

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