第26話 カーネーション



 五月の第二日曜日。

 「母の日」当日の、朝五時。

 桜庭家の家中の目覚まし時計が一斉に鳴り出すと同時、フライパンをお玉で叩く金属音がけたたましく響き渡る。


「さっさと起きな!! 支度するよ!!」


 朝っぱらからよく通る母さんの声。

 灰慈は寝ぼけ眼をこすりながらもぞもぞと布団から抜け出した。

 カーテンを開ければ外はまだ日が出始めたくらいの時間で薄暗い。


「もう朝か……」


 大あくび一つして、普段の〇・五倍速で私服に着替える。いつもならまだ眠っている時間なので頭は働いていない。

 バタンと隣の部屋の扉の音がした。炭蓮ももう起きたのだろう。

 年に一度のかきいれどき。この日は家族総出で店頭に立つ。

 遅れを取るまいと、灰慈も部屋を出て一階に降りる。

 リビングから香る出汁の匂い。食卓にはすでにずらりと朝食が並んでおり、ばあちゃんと炭蓮が先に食べ始めていた。母さんはもう食べ終えたのか、家と店とを繋ぐ裏口をせわしなく出入りしている。


「あ、お父さんからメッセージ来てる」


 炭蓮がおにぎりを頬張りながらスマホを見て言った。家族のグループチャットについ先ほど父さんがメッセージを投稿したようだ。

 「今日は手伝えなくて本当にゴメン! 頑張って!」とある。

 炭蓮が内容を読み上げると、母さんはフンと鼻を鳴らした。


「無視でいいよそんなの。それよりさっさと食べて手伝いな!」

「はーい」


 不憫な父さん。家族が起きる時間に合わせて出張先でも早起きしただろうに。

 だけど「手伝う」って言葉はマズい。ただでさえ母さん機嫌が悪いのに、当事者感の無い言葉は火に油だ。

 灰慈はそっとスマホの画面を閉じ、朝食をかきこむ。

 もうすぐ食べ終わるという頃、「おはようございます」という声が店の方から聞こえてきた。水川さんの声だ。こんなに早い時間からだったとは。

 灰慈は残りのおにぎりを詰め込み、店の裏口からひょこっと顔を出す。レジ裏の事務スペースで水川さんが荷物をロッカーに入れて、店のエプロンを身に付けているのが見えた。


「水川さん、おはよ」

「桜庭くん……寝癖やば」

「え、うそ、そんなに!?」


 そういえば朝起きて鏡を一度も見ていない。灰慈は慌てて手櫛で髪を整えた。

 対する水川さんの身支度は完璧だ。灰慈たち以上に朝早かっただろうが、少しも眠そうな様子はなく目はパッチリ、ヘアゴムをくわえながら仕事用にさらさらな髪を耳の後ろでまとめようとしている。

 ただ、灰慈は知っている。おとといの金曜、彼女はついに課題を出さなくなった。最近授業中の居眠りが目立つこともあって後から先生に呼び出されていたっけ。たぶん、バイトを詰め過ぎているからだ。その皺寄せが高校生活に出始めている。


「あの、水川さん」

「なに?」


 彼女はこちらを見ない。

 灰慈は先日彼女の母親に会ったことを言えずにいた。単純に話す機会がほとんどなかったのもあるし、彼女がそれを聞いてどういう顔をするか分からなかったからでもある。

 だが、このままでは水川さんは母親の想いとは違う方向へ突き進んでしまう気がする。

 やはり伝えた方がいいかもしれない、と意を決して口を開く。


「あのさ、実はこの前――」

「灰慈! 何ボーッと突っ立ってるんだい!」


 間が悪く、母さんに見つかってしまった。


「雪乃ちゃんの邪魔しない! さっさと身支度する! 返事は!?」

「はい……」


 「なんだったんだろう」ときょとんと首を傾げる水川さん。

 まあいい、今日は彼女も一日シフトに入っているはずだ。

 またの機会に話そうと決め、灰慈はその場を後にした。


 開店時間にはすでに店の前にずらっと行列ができていた。

 普段は閑古鳥が鳴いているくらいの老舗の花屋だが、この日ばかりはひっきりなしにお客さんがやってくる。そもそも母の日の需要が大きいのもあるが、去年くらいから実験的に行事の日限定のフラワーアレンジメントを売るようになった。売れっ子フラワーアーティストの父さんがデザインしたものだ。それがSNSとかで徐々に父さんのファンの間で広まっていて、中にはわざわざ県外から買いに来る人もいるらしい。


「ふふん。完璧……!」


 店じゅうに飾られた母の日らしい装飾を見ながら、炭蓮が得意げに呟く。

 店の仕事はだいたい得意分野で分担されていた。

 手先の器用な炭蓮が店内装飾やギフト包装。品出しや水揚げ用のバケツの入れ替えなどの力仕事は灰慈。そして接客・レジ打ちは水川さん。全般を見るのが母さん、といった具合だ。

 だが、忙しさのピークを極めるとその通りに行かないことはしばしばで……。


「灰慈! 小銭切れそうだからアライ洋裁さんとこに相談してきて!」

「了解!」

「雪乃ちゃん! 倉庫から在庫のカーネーションの品出しよろしく!」

「分かりました!」

「炭蓮! 臨時レジ出すわ! 対応お願い!」

「はーい」

「クララ! 泣いてるお子さんの相手してあげて!」

「わぉん!」

「おばあちゃん! 手が離せないから電話とって!」

「はいはい、分かったよ。もしもしー?」

「だからそれ受話器じゃなくてバナナ!」


 怒涛の勢いであっという間に午前中が終わり、十四時にはもう店内にカーネーションはほとんど残っていなかった。客足もいったん落ち着き、灰慈は遅めの昼休憩に入る。裏口からリビングに向かうと、先に休憩をとっていた水川さんがいた。


「お疲れ、水川さん」

「ん、お疲れさま。桜庭くんのお母さんのお弁当、すごく美味しかった」

「あ、そう? 母さんにも言ったげて。きっと喜ぶから」


 何気ない会話を交わし、灰慈も弁当を開ける。唐揚げの香ばしい匂いが一周回って消えかけていた空腹を呼び覚ます。

 ソファでは水川さんと同じタイミングで休憩に入った炭蓮が丸まって昼寝していた。心地良さそうな寝顔を見ているとこちらまで眠くなってきそうだ。

 水川さんが腕時計をちらりと見やる。灰慈が来たことでそろそろシフトに戻らなきゃと思ったのだろう。


「気にしなくていいよ。今はお客さん数人しかいないし、ゆっくり休んでてって母さん言ってた。むしろ休憩早上がりされるとロウキ法がなんとか」

「そう。じゃあ、お言葉に甘えようかな」


 朝早いこともあってさすがの水川さんも少し疲れたようだ。テーブルに突っ伏して、瞼を閉じる。ほとんど化粧をしていないはずなのに、長いまつ毛が三日月のようなカーブを描いていて綺麗だ。思わず見とれてしまう。


「……こんなにみんな、買っていくものなんだね」


 水川さんは瞼を閉じたまま、静かな声で言った。


「面接でも言ったけど、私お花って買ったことないんだ。贅沢なものっていうイメージがあったんだよね。生活にすぐ必要なわけでもない。なのに、高いお金出して買う割にはすぐ枯れちゃう。だから、こんなにたくさんの人がお花を買っていくこと……正直、少しびっくりした」


 灰慈はカーネーションを買って行った人たちの顔を思い浮かべる。

 毎年買ってくれる常連さん、じっくり選びながら二つ買っていく新婚さんらしき若い奥さん、恥ずかしそうにきょろきょろしながら小声で注文する男子学生、小さい子の付き添いでやってきたお父さん。

 色んな人がいるけれど、みんな考えていることはだいたい同じだ。

 お母さんに感謝を伝える。

 そのためにカーネーションの花に想いを託す。


「水川さんはさ、一番最近お母さんに『ありがとう』って言ったのっていつ?」

「え? それは……」


 彼女は顔を上げて困ったように眉を曲げる。

 思ったことをはっきり言える彼女でもなのだ。

 灰慈はふっと笑った。


「聞いといてなんだけど、実は僕も思い出せない。ご飯の支度とか、洗濯とか、家の掃除とか、いつの間にかやってもらって当たり前って感じてる自分がいてさ、なかなか素直に感謝を伝えられないんだよね。今さら面と向かって家族に『ありがとう』って言うの、恥ずかしくなっちゃってさ」

「まあ、それはちょっと分かるかも」

「世の中の人たちもきっとそういう人が多いんだよ。だから、言葉で言えない代わりに花で伝えるんじゃないかな」

「言葉の代わり……」


 水川さんは俯いて、もぞもぞとテーブルの下で指を組む。


「実は……お母さんが退院してから、まともに話せてないんだ」

「え、そうなの?」


 彼女はこくりと縦に頷く。


「その……あることでケンカっていうか、私が一方的に口をきこうとしていないだけなんだけど……」


 彼女は途方に暮れたように深い溜息を吐く。

 そういえば佳苗さんも学業を優先してほしいって話をするとケンカみたいになると言っていたっけ。それが原因だろうか。

 彼女の様子を見る感じ、きっと今の状態を続けたいわけじゃない。たった一人の大切な家族、本当は早く仲直りしたいのだ。だけどそのきっかけがなかなかないといったところだろうか。


「だったら水川さんも買ってみたらどうかな。カーネーション、今ならまだ残ってるし」


 社割も効くし、と後押しする。

 水川さんの中でもすでに答えは出ていたのだろう。彼女は素直に首肯して、「そうしてみようかな」と呟いた。




 その晩。

 一日の仕事を終え、宅配ピザによる打ち上げで盛り上がる桜庭家。

 肩の荷が降りたのか母さんはビールでべろんべろんに酔っ払い、さっきから強すぎる力で何度も灰慈の背中を叩いてくる。


「しっかし雪乃ちゃんは本当に良い子だこと! 今後については一度考えさせてって話だったけど、うちとしてはぜひとも続けてほしいわ! ねえ、灰慈!?」

「いてっ! 痛いってば母さん!」

「あんた学校でヘタ打つんじゃないよ! あの子に悪い印象与えたら続ける気無くなっちゃうからね!」

「ヘタ打つってなんだよ! そもそも僕が水川さんを紹介したんだから!」

「もういっそのことあの人と付き合っちゃえばー? 炭蓮、あの人がお義姉さんなら大歓迎なんだけど」

「付き合っ!? いやいやそういう関係じゃないから! クラスメート! ただのクラスメート!」

「ぷぷ、必死に否定してんの、逆に怪しー」

「だから違うってば!」

「咲恵、おしょうゆどこ行ったかの?」

「いやお母さん、今日ピザだから! ピザ!」

「膝ぁ〜? わしゃまだ歩けるがね! この前の町内会の遠足だってな、烙所山をうんぬんかんぬん……」


 うるさすぎて、何度もインターホンが鳴っていることにしばらく誰も気づかなかった。


「追加のピザかね。取ってくるわ」


 赤ら顔の母さんがふらふらと席を立つ。

 いや、追加注文なんてしてなかったような。

 心配になって後についていく灰慈。

 母さんが玄関を開けると、ぶわっと。

 色とりどりの花でかたどられた、傘並みの大きさの花束が現れた。


「宅配ですー。えーと、桜庭かおるさんからですね」


 父さんからだ。

 花束の中心には赤いカーネーションで「謝謝」の文字が作られていた。ありがとうと、父さんなりの「謝る」気持ちも添えたのだろう。母さんは花束を受け取ると、苦笑いしながら「許してやるかね」と呟いた。

 水川さんも今頃お母さんと仲直りできただろうか。

 灰慈はカーネーションを一輪買って帰っていった彼女の後ろ姿を思い出していた。




 ***




 丁寧にラッピングされた、一輪の真っ赤なカーネーション。

 水川雪乃はそれを両手で大事そうに持ちながら、すでに暗くなった帰り道を歩いていた。

 整った顔立ちにモデル体型の彼女が花を持つ姿はなかなか様になっていて、すれ違う人々から視線を浴びていたが、本人は全く気づいていない。彼女の頭の中は玄関扉を開けた時のシミュレーションでいっぱいになっていたからだ。

 母の日だね、いつもありがとう――なんてさりげなく言えたらいいが、いかんせんこの前の退院の日からまともに会話できていないので、やや唐突な感じがする。

 この前はちゃんと話を聞かなくてごめん――いや、謝りたいわけじゃない。の顔は二度と見ることはないと思っていたのだ。それなのに母が病室に招き入れていたという事実はまだ受け入れられていない。そこは、雪乃としては譲れない部分だった。

 これ、バイト先で余って――なんだか言い訳じみている。これじゃ余らなかったらプレゼントする気がなかったみたいだ。

 結局結論が出ないまま、母と二人暮らしのアパートの前に着いていた。

 玄関の前に立てば、カレーのような良い匂いがする。

 家事はしばらくしなくていいと言ったのに、目を離した隙にすぐ無茶をする。とことんお人好しで他人に甘えるのが苦手な人だと、呆れてため息が出る。

 だが、そんな母のことは尊敬しているし、大好きだ。


(うん、考えるのやめよう。桜庭くん言ってたよね。言葉の代わりに花を贈るんだって)


 そう思い直し、彼女は扉を開けた。


「ただいまー」


 靴を脱ごうとして、静止。

 ぱさり。

 大事に抱えていたカーネーションが玄関に落ちる。

 そこにあるのは、男物の革靴。


「雪乃か?」


 部屋の奥からあの男の声がする。

 頭が真っ白になった。

 ここに来るまでに何を考えていたかなんてすっかり消えてしまった。

 息の吸い方さえ忘れそうになった。


「雪乃ちゃん、帰ってきたの?」


 母のいつも通りの声。

 ああ、どうして「いつも通り」なの。

 腹の底から黒く濁った感情が湧き上がる。

 雪乃は逃げるようにして、玄関から飛び出した――……




 ***


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