最愛の人

阿下潮

第1話

 美優と僕の鼻先がかすかに触れる。昨日の夜のシャンプーの匂いが名残惜しげに漂ってきた。右腕に乗った控えめな重さと少しひんやりとした滑らかさが、美優という現実を声高に主張してくる。この先の僕の人生にどれだけのことが待っているかわからないけれど、間違いなく今が頂点だろう。

──ハルくんは贔屓目が激しすぎるんだよ。

 ふっくりとした頬をほの赤く染め照れる美優は、どうしようもなくかわいい。閉じた瞼に長いまつげの影が落ちて、気がつく前に手が伸びた。いっそ壊れてしまうほど強く美優を抱きしめる。

 こんな満ち足りた朝はここにしかない。美優とともに起きる朝が何よりかけがえのないものだと、僕は毎朝確認している。そんな二人の時間を打ち壊すように部屋のドアが破られた。

「おはよう、波留君。今日、大学って言ってなかった?」

「うるせぇババア! 勝手に入ってくんなって言ってんだろ」美優を布団に押し込み、闖入者を怒鳴りつける。僕と美優に与えられた時間を邪魔することは、たとえ母でも許せない。

「またそんなアニメの枕、寝やすいの? 大切にしてたら付喪神にでもなるんかね。そろそろご飯食べないと遅れるよ」

「早く出てけよ! 今日はリモートだから行かねえんだよ」

 こちらの怒りなどまるで感じていないように、はいはいと気のない返事をして母は出ていった。

──あんな言い方はないと思うな。たった一人の大切な家族でしょ? 

 それはそうだけど、僕にとっては美優が一番大切だから。愛しているよ、美優。

 どさくさの告白に、美優はいつもと変わらない完璧な笑顔で応えてくれた。


 桜宮美優(CV:猫屋敷せーら)。十七歳。『アイドルオリンポス』シリーズ、第二期メンバーの一人(祝福神:デメテル)。座右の銘は、残り物には福がある。好きな食べ物は二日目のカレー。歌とダンスは勉強中だが、演技力は第一期メンバーを含めても突き抜けて神がかっている。小中はバスケ部でキャプテン。高校入学を機に子どもの頃からの夢であるアイドルに挑戦することを決意し、オリンポスチャレンジに応募。数多のライバルたちと、時に競い、時に助けあいながらトップアイドルへの道を駆け上がり今に至る。強さと優しさとかわいさを兼ね備えた、僕の最愛の人。

 公式グッズも素晴らしいが、枕カバーは自作した。もちろんいやらしいことなどには絶対使わない。一緒に寝るだけだ。

 美優のことを考えているうちに講義が終わる。リモート講義は楽でいい。ほどよく腹も空いたので昼食にする。

 階下のダイニングには熱々のたぬきうどんが用意されていた。

「熱いうちにどうぞ」

 言われなくとも食べたい時に僕は食べる。七味をたっぷりとかけすすっていると、対面の母が口を開いた。

「波留君、折り入って相談なんだけど」

 これは母の口癖みたいなもので、たいていのことは折り入っての相談になる。適当に相槌を打ちながらうどんをすする。

──お母さんの話はちゃんと聞かないと。

 美優に注意されるものの、どうせ生命保険だとか年金の話だろう。いっそのこと今ここで逝ってくれたら美優と二人きりで過ごせるのに。そんなことを思いながら、汁まで全部飲みきって席を立つ。

 自室に戻るため階段を上ると後ろから母がついてくる。

「年金もらえるのだってもう少し先でしょう?」

「分かったからついてくんなって」

 何気なく振り払ったつもりの手が母の顔に当たる。バランスを崩した母は粘度の高い液体に沈んでいくように背中からゆっくりと落ちていく。

 なぜ一階に墜落するまでにこんな時間がかかる? スローで降下していく母をバックに、母と過ごしたこれまでの出来事がスライドショーのように展開する。

 汗をかきながら走ってくる保育園のお迎え。手作りの誕生日ケーキ。繋いだ手が痛かった父の葬式。誰もいなくなった部屋で抱きしめられた夜。お祭りで食べた焼きそば。並んで観客席から見た部活の引退試合。浪人時代、毎晩作ってくれた夜食。合格発表、何も言わず背中をたたいてくれたこと。成人式の夜、一緒に飲んだワイン。会場にいる誰よりも泣いていた卒業式。実は『アイドルオリンポス』を鑑賞していること。

 母はいつもそばで支えてくれた。それは疑いようもなく真実の愛で。分かっている。分かっていた。強さと優しさと慈愛を兼ね備えた、僕の最愛の人。

 想像以上に大きな音が母の後頭部で爆ぜた。くぐもった声が聞こえる。

──ハルくん、救急車!

「分かってる」慌ててスマホを手に取ったとき、母の言葉を思い出す。生命保険。……もしかして、僕のため?

「波留君、大丈夫だから」

──ダメ! ハルくん!

 電話アプリの上で指が動かない。

 振り返ると壁のタペストリーで美優が笑う。

 階段下からは母の消えそうな呼吸音が囁く。

 美優と寄り添い二人きりで過ごすこれから。

 母に包まれ二人きりで過ごしたこれまで。

 景色が歪んで溶けていく。僕は選ぶ。


「ありがとう、ハルくん。愛してる」

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