003
錬磨はおおきく振りかぶって投球モーションに入る。
めがける先はゴブリンの顔面。町内子ども会随一と謳われた空き缶ピッチャーの剛腕がうなりを上げてリリースポイントに到達する。
──完璧だ。
指のかかりも悪くない。何より重みがある。
「いっけぇえええええ!!」
叫びながら、錬磨もコーヒー缶の軌道を追いかけていく。
取り残されたウリエルは『この人は何をしているんでしょうか……』と引き気味だ。しかし、錬磨は相棒にドン引きされたくらいで尻込みする男ではない。
他方、突然コーヒー缶をぶん投げられたゴブリンは驚きに目を剥いた。
まさか自分の顔面がキャッチャーミットにされるなど露ほどにも思っていなかっただろう。咄嗟に腕をクロスガードして防ぐが、代わりに視界と勢いを失った。
目論見が成功し、錬磨は歯を剥いて獰猛に笑う。
「っしゃオラァ!」
錬磨の取り得る選択肢は二つあった。
一つは、ウリエルの指示どおり攻撃を避けてから反撃すること。言ってしまえば無難な選択であり、一番読まれやすい行動である。
錬磨が取った行動はもう一つの選択肢。
注意を他に反らしてその隙に先手を取りに行く。つまり、不意を衝くことだ。
「カチコミじゃあ!」
ゴブリンがガードを解く。しかし、視界を取り戻したときにはもう遅い。
すでに肉薄していた錬磨の渾身のヤクザキックが炸裂した。パキャッと軽快な音がして、靴底に木を踏み折ったような感触が伝わる。
あまり愉快とは言えないが、これしきで躊躇するわけにはいかない。
「ギギャアッ」
ゴブリンのくぐもった悲鳴が響く。
顔面に蹴りを食らった矮躯が勢いに負けてひっくり返った。その胸の中央には赤い丸石がはめ込まれている。このコアユニットの破壊が勝利の条件だ。
ここで畳みかけなければならない。
『両腕を足で抑えてください。ゴブリンは混乱のさなかですから、楽に抑えられるはずです。しかし、最後まで気を緩めないように』
指示に従い、錬磨は馬乗りになってゴブリンを抑えつける。
腕を振り上げ、コアユニットに全力の拳をたたき込む。パキンッと赤い丸石はガラス玉のごとく砕け、砕片が血飛沫のように飛び散った。
これでミッションコンプリートだ。安堵した錬磨の下で、ゴブリンが蠢いた。
『レンマ! まだ終わっていません!』
反応が遅れる。呼吸の間断を衝かれた錬磨は、下からの突き上げに成すすべがなく、拘束を解かされてしまった。
世界の上下が反転する。
視界いっぱいにゴブリンの鬼面が映った。憎悪を叫ぶ殺意の塊が牙を剥き、すぐそこにまで迫っている。双眸に宿るのは煮えたぎる黒い執念だ。
「───っ」
静かな殺意を向けられて、ようやく錬磨は覚醒した。
「ふざけんなっ、チクショウ!」
首に伸びた手を払い、ゴブリンの大口に左拳を差し込む。
牙が皮膚を貫く。万力に挟まれるかのような鈍い圧迫感と、肉を裂かれる鋭い痛みが錬磨の脳を否応なしに刺激する。
必死にボディブローをたたき込むが、むしろゴブリンの咬筋が力を増すばかりだ。
それならば、と錬磨は覚悟を決め、
「せっかくだ。もっと食わせてやるよ!」
ゴブリンの喉奥へと左拳を突っ込ませた。皮膚がズタズタになるのも厭わず、さらに拳を開き、掴むようにして喉に指先をひっかける。
さしものゴブリンもこれには効いたらしい。
「そうだよなあ、疑似生命体だもんなあ! 喉を突かれりゃ吐きたくなるよなあ!?」
ゴブリンが嗚咽し、その隙を衝いて錬磨は体勢を逆転させる。
喉を抑えつけたまま、右拳でゴブリンの胸部を連打する。すると、コアユニットの残骸が完全に割れ砕け、今度こそゴブリンから力がなくなった。
「サンキュー、ウリエル! お前の情報のおかげだ!」
『この状況でお礼を言われましても……レンマのほうがモンスターに見えてきました』
「ひどい言われようだ──ってなんかゴブリンが消えていくけど!?」
『コアユニットを砕かれたモンスターはエーテルに還るんです。このとき、エーテルの一部は倒した者に吸収されるんですよ』
ウリエルの言葉どおり、ゴブリンの体は端々から黒煙と化していく。
もうもうと立ち込める煙に包まれて、気分は玉手箱を開けた浦島太郎だ。その場を離れたくなるが、まだゴブリンの頭部が残っているため離れられない。
「これ、害ないよね!?」
『エーテルは生物を次の位階に導くファクターです。有害物質などではありませんから安心してください』
「心情的には怪しいクスリの説明聞くのと変わんねえけど!」
恐ろしさから錬磨が悲鳴を上げる。
怪しくないというやつが一番怪しいのだ。自分が怪しまれることを分かっているから弁明の言葉を並び立てるのである。
『本当に大丈夫ですよ。主が創り出したものですから、安心安全です』
わめく錬磨をウリエルが宥めすかす。
しばししてゴブリンの姿が完全に消え去ると、代わりに青い石ころと緑色の液体が入った小瓶がどこからともなく現れた。
「なんだこりゃ?」
『魔石とポーションですね。魔石はエーテルを内包した石で、これからの世界において主要なエネルギーになります。ポーションについてはご存知かもしれません』
「ケガを治す薬ってとこか」
『そのとおりです』
錬磨は小瓶をつまみ上げ、自分の左拳に視線を移す。
久しぶりに見たそれは、皮膚がズタズタになっている上に血がとめどなく出ていて、あまりにショッキングな光景だった。
視認した瞬間、血の気が引くとともに痛みが増す。
「ちくしょう……アドレナリンの偉大さをこんな形で知るとは……!」
アドレナリンは、もっともよく知られている脳内物質だろう。興奮や恐慌といった状態で分泌されるアドレナリンは、集中力を上げるとともに痛覚を和らげる効果がある。よく言われる試合中にケガが痛まないのはアドレナリンの効果だ。
『レンマ。少しの間、目を閉じていてください』
突然だったが、錬磨は自然と指示に従っていた。
すると、柔らかな陽光に似た温かさが周囲に満ちた。視界は閉じられていても、そこに誰かがいることだけはわかった。
「私がいいと言うまでは、目を開けてはダメです」
最初にも感じた、風鈴のように澄んだ声音が耳朶を打つ。
錬磨の持っていた小瓶がそっと奪われる。きゅるきゅると蓋を開ける音がして、今度は左拳が温かな手に包まれた。そして、重ねられた手のひらの上からポーションが掛けられていくのがわかる。
優しいほのかな温かさが、左手から全身に広がっていく。
「はい、目を開けていいですよ」
ウリエルがそうつぶやくと、あたりに満ちていた陽気が失われていく。しかし、錬磨がまぶたを上げたとき、たおやかに揺れる金糸の髪がわずかに映った。
錬磨は無意識に手を伸ばし、自分の左手が完治していることに気がつく。
『今回だけですからね』
その声は、どこか弾んでいるように思えた。
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