第6節(1/2)

「神は去った、富守。もう戻って来ることはない」

 政綱は淡々と伝えた。

 富守は、村境に小さな火を焚いて待っていた。一緒にいるのは、雲景と〈望月の君〉、月毛馬の柳丸だけだった。

 持ち帰った置文を〈望月〉に手渡すと、彼女も政綱と同じように大意を取り、それを声に出して言ってみせた。

「――神は、あなたたちの裏切りにお腹立ちだったようね。だから見捨てた。至極当然の報いだわ」

 突き放すように言うのは、彼女にもそれなりの過去があるからだ。政綱を虜にしてやまない鮮やかな青い瞳は、神への畏れを弁えた――それだけに迷信深い――里の人々には手に余るものだった。とりわけ彼女の両親にとっては。

 だから彼女は海に捨てられた。小さな舟にひとりきりで乗せられ、〝海神わだつみのもとへ返す〟という神聖なる言い訳とともに。

 政綱は〈望月〉の横顔を見守っていた。〈望月〉は、厳しい口調のまま質した。

「あなたたちが、そこまでしてこの土地にしがみつく理由は何? どうして身を隠す必要があるの?」

 富守は、手に持っていた小枝を火に投げ込んだ。ぱちっと弾けて火の粉が舞うと、小さく咳払いして答えた。

「我らは、元は武士だった。家伝の文書と系図を守り、先祖が開発した本領とご恩の地を持ち伝え、武芸に関する先例を家説として伝えて生きていた。それが我らの、あるべき姿だ」

 痩せて草臥れた富守の述懐を聞いても、政綱は驚かなかった。

 富守は、自嘲のつもりか、先祖の追憶のためにか、寂しい微笑みを浮かべた。

「――どこにでもいる武士であり、この西洲に居住する御家人だった。少し事情があるとすれば、それは我々の父祖が、将軍家の小侍こさむらい番帳に名を連ねていたことだ」

 〈望月〉は言った。

「小侍というと、将軍に近侍する御家人が詰めている?」

「そうだ。その中で番帳に名の載った士は、数名ずつ、輪番でお側に伺候するのが役目。我らの父祖は、その小侍番衆だった」

「それがどうしてこんな暮らしを?」

「思うにそれは――」

 言ったのは雲景だった。王朝物語よりも軍記を好むこの元官人は、ここぞとばかりにひけらかした。

「いまの将軍府ではなく、先代の将軍府に仕えていたからだろう。先代の頃の将軍は摂関家の庶流だった。最初の征東将軍府を解体した朝廷が、一挙に東を手中に収めようとして送り込んだんだ。東洲の御家人たちは平伏して従う素振りをみせたが、あに図らんや、彼らは公家と渡り合えるほどに図太く、したたかだった」

 富守は、うなずいて言った。

「いかにも、その通り。あの頃、将軍の権力を支えていたのは、言うまでもなく都の関白殿下だった。殿下こそが、まことの将軍であるとまで言われていたそうだ。東洲御家人たちは時節を待った。そして、ようやく関白の驕慢が露わになったのを見計らい、帝の御所に向けて頻々ひんぴんと使いを――将軍の叛意を密告する使いを送ったのだ」

 富守が言葉を切り、火の中に細い薪を放り込んだ。それから、「都のことは、官人殿のほうが詳しかろう」と言って軽く笑った。

 雲景は、わずかに顔を強張らせた。富守の笑いに、棘があるのを感じたからだろう。いまの雲景は官人ではない。朝廷に対しては、いくらか底意の籠った目を向けているくらいだ。

 だが勿論、富守は雲景が没落官人であることなど知らない。知っていたとしても、富守は本心を隠せなかったに違いない。だからこそ、こんな暮らしをしているのだから。

 雲景は、事実を淡々と語った。

「帝は素早かった。その頃は治天下の上皇がましまさず、帝のご親政が布かれていた。関白とは、そのご叡慮を掣肘せいちゅうするものだ。それどころか、将軍府を背景にして僭上せんじょうの振る舞いも重なってきた。間の悪いことに、海の向こうでしゅうの皇帝が北方に興起したえんに敗れ、南に逃げたと伝わったのもその頃だ。易姓革命を意識した者は多かっただろう。〝政変が起こる下地は整った〟――当時、都にいたわたしの祖父は、日記にそんなことを記しているよ」

 富守は次の薪を手にとり、その先端で灰を掻き回しながら言った。

「御家人たちは一斉に蜂起した。将軍と近臣たち――我が父祖たち――が岩動いするぎから追放され、都でもほぼ同時に関白が幽閉された。連座して多くの者が囚われ、所領の帰属を巡って大小の合戦が起こり、様々に思惑が交錯した。帝は御家人たちと折り合いをつけるため、ひとりの宮を将軍として下向させた。……その子孫がいまや、東の王として見事に君臨している。朝廷では、ほぞを噛んだお方も多かろうよ」

 風が木々を揺らした。舞い上がった火の粉が、灰になって辺りに漂った。富守は、袖にかかった灰を払いもせずに言った。

「父祖は運良く虎口を脱し、山野に身を隠した。お仕えした将軍が解官げかんされ、ただ人として遠流となり、ともにあった傍輩ほうばいたちが討ち取られてゆく。それを山の中から見ているしかなかった」

 腕組みして聴いていた政綱は、揺らめく炎を見て言った。

「それが、この山に隠れて暮らす理由か」

「六十年も昔のことを、我がことのように忘れずにいる。愚かだと思うだろう、人狗殿」

「忘れられないのは、ただそのことだけではなかろう。子孫に家を伝えた先祖のことも、おまえたちは忘れたくない。それが、おまえたちの拠って立つ唯一のものだからだ。おまえの言う通り、愚かだ。まったく愚かな意地だ」

 富守は低く笑った。虫の声に紛れるほど低く。

「意地ずくで生きてきた……。意地のために生き、死ぬ。ここはそういう場所だ」

「おれの山の天狗たちにも、そういう気分がある。彼らはかつて、天津神々と人に敗れたが、山だけは守り抜いた。だから、おれにはおまえの言うことがわかる。愚かだが、自分が納得しているのならそれでもいい。おれもそう思って生きてきた」

 富守は政綱に顔を向け、人狗の茶色い目玉をまじまじと見た。

「富守、振り返るものが多いおまえたちがこのまま滅びるというのであれば、おれは止めない。だが、子はどうだ? ――考えてみてくれ。彼らはおまえたちと違い、振り返るべきものもなく、拠るべき何かは将来に求めるしかない。そんな子らは、一体なんのために死ねばいい?」

 政綱は、飽くまでも問いかけるように、穏やかな声音で言った。意図したものではなく、何故かそうなっていた。

「おまえたちの意地の結晶――生きた証は子どもたちだ。その子らは、生きた証を残せないままこれから滅びようとしている。己の一生を、納得はおろか、理解すらできないまま死ぬ。おまえはそれでいいのか?」

「……どうせよと言うのだ」

 政綱は首を横に振った。

「自分で決めるしかない。どんな選択肢があろうと、人に選べるのは己を満足させられるものだけだ。選択にどんな理由をまとわせようと、突き詰めてしまえば結局はそれでしか人は動かない――おれはそう思う」

 富守から応えはなかった。

 政綱は、〈望月の君〉と雲景に目配せし、愛馬のくつわをとった。鼻を鳴らした柳丸の顔を撫で、政綱はこう伝えた。

「詫び証文のことを思い出してみるといい。先人が何故あんな物を偽作したのか、改めて考えてみるんだ。そうすれば、おまえを満足させる答えが見つかるかもしれん」

 政綱は馬を曳いて歩き出し、すぐに足を止めた。村に戻ってからずっと、灯りの届かない闇の中から、こちらに向けられた視線を感じていた。

「どうか達者で」

 闇に向けて小さな声で呟き、再び歩を進める政綱に、雲景が訊いた。

「いま何か言わなかったか?」

「気にするな。ただの挨拶だ。さぁ、行こうか」

 誰が強い眼差しで見ていたのか、政綱にはそれも見当がついていた。だが口にはしなかった。

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