第5節
木陰に覆われた川岸は、とうに暗くなっていた。東の空は、雲を透かしてほんのりと赤い。気がつく頃には夜が訪れているだろう。
政綱の鋭い聴力は、滝の音を聞きつけていた。もうそれほど遠くないはずだ。
枯れた葦の間に潜んだ政綱は、焦れながらも身動きひとつせず、茶色い目玉だけを光らせていた。少し進んでは止まり、また少し進む。カワコマを退治した場所から三町(約330m)も遡ると、さしもの政綱ですらまともに歩けなかった。
最初に見たのは、鼻先から尾の先まで六尺(約180㎝)はかたい二頭のホウドラだった。人喰いカワウソは、銀斑を散りばめた黒い毛皮から水を振るい落し、藪の奥へと消えた。
中腰になって進む政綱は、次に、獲物を丸呑みにしたまま呆けている毒蛇――
ほっとした政綱がほんの小さな物音を立てて進むうち、泥から岩をほじくり出したような穴を発見した。穴底には少し水が溜まっている。その穴から、小さな足跡がびっしりと並び、藪のほうへと続いていた。ここで身を休めていたのは、大蟹のヤネマタギだろう。それほど大きくはない。まだ若い個体のようだ。
他にも、姿は見えないが気配だけは色々と感じ取れた。音や臭いだけではない。木の根元に散らばった獣の臓物は、テナガエビをうんと凶悪にしたような妖――アミキリの食べこぼし。高い木の梢についた細かい爪痕は、おそらく雷獣が爪を研いだもの。闇の中ではちらほらと、本来は異界に咲く銀花が揺れているのも見える。
ここはもう、人の踏み込んでいい土地ではないな――そう思った政綱は、先行きに不安を遥かに超えたものを想定し、心の中で舌打ちした。
結局、先行していた野分丸に追いついたのは、すっかり陽が暮れてからだった。星の隠れた曇り空の夜だ。まともな人間であれば足の竦むような闇だが、天狗と同じ目を持つ政綱にとって、暗さはむしろ親しい友のようなものだ。
岩を伝う細い滝のそばで、尖った岩にとまって野分丸が待っていた。鳶はため息混じりに言った。
「〈隠れ蓑〉を着ておくべきだったな、政綱。あれを使えば楽ができたのに」
「ああ、後悔しているよ」
政綱が肩をすくめると、野分丸は笑った。
「ふたりで来て正解だった。柳丸はともかく、雲景と〈望月〉が一緒では、ひと合戦する羽目に陥っていただろう」
「終わったようなもの言いだな、野分。まだこれからだ」
「おれにはもう先が見えたよ。たぶん――きっと、おまえにもな」
結果に関する政綱の予想をぴたりと言い当てた野分丸は、先端の黒い嘴を滝に向けてつけ加えた。
「入口は、それほど巧妙に隠されてはいないようだ。見わけられるか?」
滝を眺めた政綱は、その右脇の空間が揺らいでいるのがわかった。野分丸にうなずき返し、真っ直ぐその異界の入口へと向かった。
ただの人間が――例えば雲景が――見ても、苔の生えた岩壁だとしか思えないそれに、野分丸は躊躇なく飛び込んで行った。
政綱はその後から続き、揺れる盥の中の水に似た入口に足を踏み入れた。
一瞬、音も色もにおいも、まとった衣の感触すら全て失って透明になる。初めて異界渡りの供をした時の雲景は、不思議な体験をそのように表現した。政綱も野分丸も、それには大いに同感だった。
じんわりと自分の体温を感じ、透明だった視界がさっと色づいた。政綱は空を見上げた。外とは違い、この異界――神の〈庭〉は空が薄っすら青く見えるほどの星空だった。
「行こうか」
目の前の腰を曲げたクロマツにとまっていた野分丸に呼びかけ、彼が腕にとまるのを待ち、政綱は湿っぽい土の上を歩き始めた。そこだけ葦や蒲が茂っていないのを見ると、道として造られていたのがわかる。
吹く風は冷たい。少し離れた竹藪から、林立した竹同士が擦れる金属的な音が聞こえた。
「見ろ、政綱」
右腕に乗った野分丸は、翼で遠く左手のほうを指した。
「来る途中、ヤネマタギの穴を見ただろう。あいつはその親かもしれんな」
淡い星明りに青く縁取られた楕円形の丘が、長い脚を動かして遠ざかって行くのが見えた。ゆったり歩くそれは、家の屋根を股越してしまいそうなほど大きい。
鳶は囁くように静かに言った。
「立派なヤネマタギじゃないか。ここは豊かな水界なんだろう。……惜しいことだと思わんか、政綱。あの村の連中は、いっそのこと神に仕え、全てを委ねるべきだった。小さな神国を創るべきだった。あたら里の生き方に固執したせいで、取り返しのつかぬ誤りを犯してしまったのだよ」
「それが人だ。だからこそ、この世界で勝てた――神の育てた国土を、奪い取ることもできた」
「ほう……。褒めているのか? それとも皮肉か?」
「半々さ。おれだって昔は人の子だった」
ぽつぽつと話しながら歩くと、葦の向こうに星を映した湖が現れた。道の果て、湖岸には鳥居が建っている。鳥居の先は、幅広の頑丈そうな桟橋が水上に伸び、その更に向こうに、黒い瓦屋根の寝殿が建っている。
鳥居の脇にも向こうにも、侵入者を咎める者はいない。政綱が桟橋に乗ると、陰に隠れて眠っていた魚たちが、鰭で水を打って逃げ出した。大きな魚影は鯉だろうか。
軋む桟橋を歩き、寝殿の正面まで歩いて足を止めた。政綱は、辺りを見渡してから呼ばわった。
「御免」
しばらく待った。風が湖面に起こした波が打ち寄せ、桟橋の下でちゃぷんと音を立てた。
「誰かいないか?」
声をかけて待ったが、やはり返事はなかった。
政綱は階を上がり、入口の妻戸についた
屋内に調度は残っておらず、黴と埃の混ざり合った甘ったるい臭いが充満している。鼻がむずむずした。
野分丸が言った。
「思った通りだ。ここにもう神はいない」
背後の戸から風が吹き込み、紙のめくれる微かな音がした。政綱はきょろきょろと見まわし、柱の一本に打ちつけられた紙を見つけた。
柱に近寄り、打たれた釘から紙を破り取ると、それを持って戸口に引き返した。書かれているのはまたもや神代文字だ。外に出て、静かにくしゃみをひとつした政綱は、階に腰をかけた。
右腕からおりた野分丸が、隣に立ってからかい気味に言った。
「読んでやろうか?」
政綱は鼻を鳴らした。
「誤りさえなければ、おれでも充分に読める。……ふむ。大意を掴めばこんな風だ。〝いつか訪れるであろう神と人のあわいに立つ者のために、こうして記し置く。村の者たちに伝えよ。我はかつて文を遣わし、約を違えぬよう親しく伝えた。度重なる違背にも目を瞑り、捨てられた子らを、あるいは眷属として迎え、あるいは救い損ねて死なせてきた。救った子らも、世を儚み、ひとり残らず死に絶えた。最早、かような苦しみを見るに堪えぬ。我は永くここを去り、二度と戻ることはないであろう。情けなしと責むるなかれ。これは、そなたらが約束を違えた報いである〟」
政綱は、置文を野分丸に見せながら、来た道をぼうっと眺めた。聳える山の稜線を、群れ集まった星々の明かりが、くっきりと浮かび上がらせている。
様々な思いが去来した。親子の愛情。生への渇望。親の苦悩と、子の希望。つり合いのとれぬ思い。そこからの救済。救済の方法は、子の純真さにつけ込んだ卑怯で残酷なものだ。
政綱は、子らへの仕打ちを怒り、憎んだ。当然の反応だ。しかしその憤怒は水面に浮かんだ油と同じで、表層を――分厚くではあるが――覆っているだけだった。底には何か、もっと違う思いがある。それはおそらく、生ある限り、刈り取ってはいけない思いだ。
ただ、それだけに政綱の顔は曇った。ふとした瞬間に、この思いは政綱を責め苛む。今度もそうなるはずだと、人狗には誰よりもよくわかっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます