第53話 救い

「お父さん……」

 恭一は呟いていた。


 目の前に父親が立っていた。

 気がつくと周りは雪の積もったあのベンチだった。横には幼い冬次が眠っている。


 吹き荒れていた雪嵐は嘘のように止み、大きな雪の粒が、はら、はらと夜空から舞い降りてきた。


 寒さと空腹で疲れ果て、今にも眠ってしまいそうだったのが一気に目が覚める。

 涙で霞む目をこすり、もう一度父親を見た。


「何で、あの日、帰ってきてくれなかったの?」

 恭一は訊いた。


「こんな思いをさせてすまなかった。お父さん、お前たちを育てるお金を何とかしようと思って、あの日あるところに行ったんだ」

 父親が訥々とつとつと話し始めた。


「お父さん、馬鹿だからさ。お母さんには逃げられて、ヤクザに借金がたくさんあったんだ。博打ですっちまった金だから、自業自得なんだ。だけど、お前たちを育てるためにはその金を何とかきれいに消す必要があってさ」


「じゃあ、ヤクザの事務所に?」

「ああ」

 父親は頷いた。


 なんてことだ。

 恭一は衝撃を受けていた。あの日、あの晩――。恭一たちをこれからも育てるために、父親はヤクザの事務所に行ったのだった。


「借金を無くす代わりに、タコ部屋っていうのか、強制労働みたいなところに入れられることになって、お前たちがいたからいったん帰らせてくれって言ったんだが、聞いてもらえなくてさ……」

 父親の顔が、一層悲しみの表情になった。


「お父さん、暴れたんだ。絶対帰るって……。そしたら袋だたきにあってな。ヤクザもきっと殺す気はなかったんだろうけど、打ち所が悪かったみたいで死んじゃったんだ」


「そうだったんだ。僕たち、捨てられたわけじゃなかったんだ」

 眉をしかめ、涙を堪えているかのようなその顔に、鼻の奥がつんとした。父は本当に自分たちのことを考えていたのだ。だから、恐ろしいヤクザに逆らってまで帰ろうとしてくれたのだ……。


「ああ、本当にすまなかった。あの日、あの晩、這ってでも公園に帰ろうとしたんだ。お父さんがこんなだらしないばかりに、お前たちにはつらい思いばかりさせてしまった。ごめんな」

 父の目からは涙が溢れていた。


「ううん。僕こそ、お父さんのことを信じてあげられなくて、ごめん」

 涙が止めどなく溢れ、流れた。


「お父さんの本当の気持ちが分かっただけで嬉しいよ」

 恭一は心の底からそう言った。


 父親が近づいてきて、恭一と冬次を抱いた。その体は震えていた。

 帰りたかった。お前たちに会いたかった……。


 父親は口には出さなかったが、想いが伝わってきた。

 恭一は泣いた。


「馬鹿だな。父さん。お金なんかいらないんだよ。お父さんがいれば僕、それでよかったんだ」


「すまない。本当にすまなかった」

 恭一は、心にあった呪いとも言うべき想いが消え去り、愛で満たされていくのを感じていた。


 ずっと聞こえていたあの日の風の音はなくなり、心に開いていた暗黒の穴はすっかり閉じていた。


      *


 俺の目の前で、悪魔と恭一は二人に別れていた。

 周りには、粉々になった透明な鎖の欠片が大量に散らばり、二枚に破れた羊皮紙が青い炎に包まれて燃えていた。


「なぜだ? なぜ、契約が解けた?」

 悪魔は床に手をつき、喘ぎながら呟いていた。


 恭一の側には父親の霊が立っていた。

 父親も恭一も、笑顔で涙を流している――


 ルイが恭一の父親の霊を降ろし、虎徹が恭一の心の奥底に眠る父親への愛を引き出したのだ。


 恭一と父親の間に何があったのか、そしてここで何が起こったのか、俺と虎徹は瞬時に悟っていた。


 恭一は、父親への深い愛と裏切られたという悲しみから闇に落ちていた。そして、力への妄執が悪魔と恭一を結びつけていたのだ。


二人が涙を流し、話をしているのを見て少し胸がチクリとする。自分も父親とは幼くして生き別れている。父親と再会できた恭一のことが少しうらやましかった。


「ギるるるッ……グおおおおッ!!」

 悪魔の口から叫び声が上がった。


 途端に、地獄の穴から真っ黒な腕が幾つも伸び、悪魔に巻き付いた。そして、倒したはずの黒田が変化した蜘蛛の化け物も悪魔に同化した。

 急速に萎み始めていた悪魔の体が、一転して大きく膨らむ。このフロアに散らばっている魔力を自分に集中しているのに違いなかった。


「使い魔ども生け贄だッ!! あいつを我に捧げよッ!!」

 悪魔が指し示した方向に目を移す。すると、そこには蝙蝠の化け物に囲まれた由里子がいた。


「行けッ!」

 悪魔が叫んだ途端、蝙蝠の化け物が一斉に由里子に向かった。


「待てっ!!」

 俺は慌てて由里子の方へ駆け寄ろうとした。


 その時――

「いえぃっ!」

 辺り一帯を切り裂くような気合いが轟いたかと思うと、由里子が回し蹴りを放った。

 群がろうとしていた蝙蝠たちが弾き飛ばされ、散り散りに消えていく。


「何と……」

 そうか。襲われた化け物を倒したって言っていたのはこういうことだったのか。こんな才能がお前にあったなんてな――俺はその光景に唖然としたが、同時に感動も覚えていた。


 すると、

「おのれ……その力、絶対に我が物にしてやる」

 悪魔が呻くように言うと同時に、背後から四本の触手が伸びた。そして、四方から由里子に巻き付こうとした。

 

「くそっ!」

 俺は叫んだ。いくらなんでもあれは無理だ!!


 ギギンッ!!

 硬い物同士がぶつかり合う音が響いた。


 いつの間にかやって来た浩二が、由里子の前でバタフライ・ナイフを構え、触手を払い落としていた。


「竜一くん! こっちは任せてくれっ!」

 浩二が触手の前に立ちはだかって叫んだ。ナイフを構えたまま、触手に塩を浴びせかける。

 すぐに一哉も駆けつけ、一緒に触手を迎え撃った。


「浩二。やるじゃないか」

 俺は安堵の息を吐くと、悪魔を睨みつけた。

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