第30話 運命

 悪魔は目の前にいる男を、涎をたらさんばかりの表情で見つめた。

 建物の壁に背を預け、痛めつけられる中年の男を見ている鋭い目をした男。

 その男こそが、強い渇望と欲望の匂いを発する源であった。


 ――おう。これは凄い。

 悪魔は狂喜した。


 まるで周りの空間が歪むほどの渇望と欲望。これこそが、自分の求めていたものだった。


 路地にある小さな街灯の上にとまると、強烈な力を放つ男に見とれる。

 すると、不思議なことに気がついた。


 その男には本来、地獄に由来するはずの瘴気が纏わり付いているのだ。

 これはどういうことだ? 悪魔は首をかしげた。


 よほど深い絶望にまみれたのか。それとも、元々才能があったのか。その両方なのか。悪魔の知識でも、地獄の力と自力で通じた人間は、数えるほどしかいなかったはずだった。


「どうやらお前は、自力で地獄の力と通じたらしいな?」

 悪魔は唐突に、男に話しかけた。


 その男――恭一は、悪魔の話しかけてくる声に気づき、微かに冷気の漂ってくる街灯を見上げた。


「お前は何だ?」

「我は悪魔だ」


「何? 俺の知る悪魔とは違うようだ……」

 恭一が首を傾げる。


「お前の知る悪魔? それは何だ……?」

「暗い穴の奥から俺に助言をくれるんだ」


「なるほど……」

 悪魔は恭一の目を覗き込んだ。恭一の記憶を瞬時で読み取る。

「教えてやろう……それは地獄の力そのもの。地獄の大いなる意志だ」


「大いなる意思?」

「ああ。お前は深い絶望を経験したのではないか? 恐らく、その絶望は誰もが経験する類いのものではない。だから繋がることができたのだろうな。だが、繋がったのは一時的なものだっただろう?」


「確かに、今はずっと話せていないな」

「それほどに奇跡的なことだったのだよ。だが、今でもその力の一部はお前にあるようだ……」


「ふうん。お前は何だ? 本当に悪魔なのか?」

「ああ。そうだ。我は悪魔――悪魔ビゼムだ」

 悪魔は名乗った。


 周りは、いつの間にか漆黒の闇へと変化していた。

 これは運命だ。この男が欲しい。


 本物の悪魔を目の前にして、全く恐れを抱く様子のない恭一を見て悪魔はそう思った。


「自力で地獄の大いなる意思と通じるほどのお主と……悪魔である我が出会ったのは運命だ。我はこの世を地獄に作り替えたい。我と一緒になってくれないか」

 悪魔は一気に伝えたいことを言った。


 魔力が枯渇し、今にも消え入りそうな状態の悪魔にとって闇の力に溢れる恭一は魅力的だった。回りくどい言い方をしている余裕はなかったのだ。


「お前と一緒になって、俺に何かいいことがあるのか? 俺のメリットは何だ?」

「お前に力を与える……」


「力? 俺には既にあるぜ。ブラック・マンバという力と、この阿佐田という男が産む麻薬による金だ。メリットがないのなら、この話はなしだ」


「待て。我が与えようとする力はそんなものではない。お前がそれを手に入れれば、暗黒の王になれる」

「暗黒の王?」


「ああ。好きに生きたいんだろう? この世を弱肉強食の本当の姿へと変え、そしてそこで頂点に立ちたいのではないのか?」


「ああ。まあ、それはそうだな」

 恭一は眉根に皺を寄せ、悪魔を見上げた。


 悪魔の姿だけが、暗闇の中にうっすらと浮かび上がっていた。みすぼらしい小さな蝙蝠こうもりとも蜥蜴とかげとも言えないような見た目のもの。こいつに本当にそんな力があるのか? 恭一が訝しんでいると、


「今、お主の為したいことを成し遂げさせる。何か、その男から聞き出したいのではないか?」

 悪魔はそう言って、恭一の目を覗き込んだ。


「本当か? お前にそんな力があるのか?」

「ある」

 悪魔は断言した。今、この男を逃がすわけにはいかない。あいつらに復讐するために、そして、当初の目的を達成するためにもこの男の力が必要だった。


「ふうん……」

 恭一はしばらく考えて、口を開いた。

「お前が本当に悪魔なら、俺がその男から何を訊き出したいのかも分かるだろう。俺はそれが何かは言わん。俺の訊きたいことが何なのかを当て、聞き出して見せろ。それくらいできないと、お前の言うことは信じられん。何より、今のお前はちっぽけ過ぎて、悪魔かどうかも怪しいぜ」


「わ、分かった……ちょっと待ってろ」

 悪魔はそう言うと、街灯の上から地面に腰を落としている阿佐田を見つめた。


「そ、その男。名前は阿佐田、とか言う男の、持つ何か……聞き出したいだけじゃないのか。そ、そうだ、麻薬の関係を全て乗っ取りたいんじゃないのか……」


「なぜ、分かる?」

 恭一は目を見開いた。


「こ、この場の、か、過去の出来事を視たのだ」

「過去を視る?」


「ああ。我の魔力だ。ここでお前がその阿佐田という男に言っている内容を視た」

「へえ。じゃあ、実際に阿佐田の持つ麻薬のルートを乗っ取ることができるか?」


 恭一が笑いながら言った。もし、本当にできるのならこいつのことを信じてもいいかもしれない。ただし、利用するのは俺だ。


「我の力、信じさせてやろう」

 悪魔はそう言うと、小さな羽を羽ばたかせ、恭一の周りをぐるりと回った。


 暗闇の中で、恭一の足下だけが明るくなり、跪いている阿佐田が浮かび上がった。

 悪魔は阿佐田の周りを飛び、耳から頭の中へ入り込んだ。


「ひゃあ。な、何だこれ?」

 阿佐田が叫び、耳を何度もはたいた。プールで耳に入った水を出すときのように、悪魔が入っていった方の耳を下にして追い出そうとする。


 ――と、阿佐田の動きが止まった。二つの瞳がばらばらに動き、そして恭一を見た。


 みるみるうちに、阿佐田の顔がしわしわになって頭髪が白くなっていく。

「こ、これから……」


 阿佐田がよだれを垂らし、恭一に向かって口を開いた。

 恭一は黙って様子を見守った。


「これから、何でも、恭一さんの言うとおりにします……麻薬の取引の関係ですね……まずは……」

 阿佐田は、麻薬を売り買いする先の連絡先を話し始めた。


「へえ」

 恭一は感心した顔で頷いた。


「こいつの生体エネルギーも、ついでにいただいた。とりあえず、先ほど話した内容以外で知りたいことは何だ?」

 阿佐田の口を使って悪魔がしゃべった。


 恭一の耳に再び、あの冬の日の雪混じりの強風の音が聞こえてきた。

「もう、お前が体から出ても、阿佐田は何でも言うことを聞く状態なのか?」


「大丈夫だ……」

 冷たい、錆びたような声音で悪魔を頷いた。


「よし。とりあえず、お前はそいつから出ろ。あと、死なない程度にその生体エネルギーとやらを戻しておけ。こいつにはまだしばらく働いてもらわないといけない。さすがにお前が取引先と交渉したりはできないだろう?」

 恭一は笑った。


「我と一緒になるか?」

「ああ。とりあえずはな。だが、気に入らなければすぐに追い出すぜ」


 恭一は大きく口を開け、歯をむき出して頷いた。その表情は、他の人間から見たら、悪魔そのものの表情だったに違いない。


 悪魔ビゼムは歓喜の表情を浮かべ、恭一の中に入った。

 恭一の背が反り返り、目が真っ赤に光る。


 ――こうして、運命の大きな歯車は動き始めたのだった。

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