第24話 悪魔(1)

 目の前では、女の子が倒れ、太った男が包丁を握っていた。

 いつの間にか、死神の造った亜空間からアパートの一室に戻ってきていたのだった。


「ぐうおおおおッ!」

 男が吠えた。


 ミシ、ミシ、ミシッ……

 生木なまきを裂くような音が響き、額から血を流して二本の角が伸びていく。音は、角が男の額の骨を断ち割る音だったのだ。


 男の顔には、無数の黒い点が生じていた。それらは、瞬く間に太い毛に成長し、顔全体を覆っていった。


「ぐるるるああッ!!」

 男は獣のように頭を振った。よだれをまき散らし、もだえるように吠える。


 同時に、周囲の温度が一気に下がった。それは背中がゾクゾクするというような生やさしいものでは無い。冷凍庫の中に入ったかのような冷たさだった。


 アパートの部屋の景色がドロドロに溶け、床が沼地のようになった。底から原色の泡が浮き出てきて、表面で弾ける。

 沼のような床からは、無数の白い手が伸び、ユラユラと揺れた。


「なんで……私を捨てたの?」

「し、死にたくない……」

「か、金が……欲しい」

「お願い、待って……」


 床からは無数の怨嗟の声が湧き上がり、漂ってきた。おそらく、あの無数の手の持ち主たちの無念の声だ。邪霊の犠牲者たちに違いなかった。


 男の周りのものが、青や黒、黄、赤の原色が幾重にも混じり合った空間となり、ねじ曲がっていった。


 床の表面では無数の原色の泡が弾け、ユラユラと揺れる白い手の間から小さな邪霊が無数に生まれ出でてくるのが見えた。


「うぁぁぁぁっ……」

 生まれ出でた邪霊どもは、うめき声を上げながら少しずつ大きくなっていく。


 部屋中に、何かが腐ったかのような異臭が充満していた。


 いるだけで、こめかみの血管がどくどくと脈打ち、吐き気がしてくる。

「おい。死神! ここはどこだ? もうあのアパートの部屋でさえないぞ」


「悪魔が魔力で地獄と繋いだのだ。ここは、もはや地獄の一部と言っても過言ではない……」


 死神がそう言った途端、男に重なるように、黒く透き通った化け物の姿が重なった。それは、蟷螂かまきりと恐竜、そして蝙蝠こうもりを足して割ったような、この世の生物のことわりを無視した姿だった。


「あいつは、どうなっちまったんだ?」

「さっき言った通りだ。彼は悪魔に体を乗っ取られている。それもかなり上級の奴だ」

 死神は男を睨んで言った。


「おい! そんな奴にいつまでも乗っ取られてんじゃない! オレが手伝う。そいつを追い出すんだ!」

 オレは叫んだ。


 すると、

「ゲ、ははははははッ!!」

 男が冷たく凶悪な声で笑った。


「何を言ってる? こいつにそんな言葉が届くわけがないだろう……?」

 オレを睨みつける男の瞳が真っ赤に染まっていた。男の中の悪魔が言っているに違いなかった。


「できるか、どうか、やってみないと分かんないだろう!?」

 オレは怒りでおかしくなりそうになりながら鳴いた。


「にぃやあああおおおう!!」

 ――お前は凄い。こんな悪魔に狙われて最後の最後まで戦った。


オレは自分の鳴き声が、男の周りを浮遊するように囲み、男の中へ溶け込んでいくのを見た。


 ――自分を蔑むな。敗北感から立ち上がれ。

 オレは戦った男の心を称えるように鳴いた。


 死神が傍らに来て、オレの背中に手を当てた。


 ――悪魔はお前の罪の意識を利用している! お前が悪いんじゃ無い。悪いのは悪魔なんだ!

 オレの心の中で、竜一も叫んだ。


 ――目を覚ませ! 負けるな!

 鳴き声に、死神と竜一の力が一緒に乗る。


 そして、銀杏の枝で編んだ首輪に付けられた石がキンッと音を立て、金色に光った。同時に左の瞳が青色の、右の瞳が緑色の光を放つ。


 男の目が見開かれ、白目にある細かな血管が切れた。目から幾筋もの血が流れる。そして、その目に一瞬、理性の光が点った。


「声が少し届いてる。鳴き続けろ!!」

 死神が叫んだ。

 オレはさらに心を込めて鳴いた。


 すると、男が頭を何度も振った。呻き声を上げ、オレに向かって手を向ける。まっすぐ伸ばされた人差し指がオレに向いていた。


 血走った目でオレたちを睨みつけ、

「ギるギるギるギるるる……ッ!!」と、咆哮を上げた。


 同時にオレに向けた右手の人差し指が上に跳ね上がった。


 ダンッ!!

 何かを撃ち出すような音とともに、空気中の細かい埃が巻き上がり、大きなリング上の波紋ができた。


 一瞬遅れて、真っ黒な気の塊が飛び出す。

 予想もしないその攻撃に、オレと死神は反応することができず、まともに喰らってしまっていた。


 グワン、グワンと音を立て、頭が揺れた。目の前の原色の風景が混じり合い、極彩色になった。


 ここに来る前に食った寿司を吐き出しながら、オレは四肢を踏ん張り、悪魔を見上げた。

 傍らには死神が俯せに倒れている。


 男が右手を上げ、空を掴むかのように握った。途端に、オレの首に激しく圧力がかかった。目に見えない太い指の形が、首に浮き出る。


 これも、悪魔の力なのか。オレは口から血を吐きながら、男……いや、悪魔を睨みつけた。


「ふはははは。よくぞ、我を相手にここまで戦った……だが、これでしまいだ。地獄に連れて行って細かく切り刻み、地獄の虫どもに喰らわせてやるとしよう。お前は切り刻まれる痛みと、虫どもに喰われる痛みを同時に味わう。それも永遠にな!」


 悪魔が、地獄の底から響くような声で笑いながら言った。

 男の姿は蟷螂かまきりと恐竜、そして蝙蝠こうもりが融合した悪魔の姿へ完全に変わっていた。


 吐き気を催すような瘴気が吹き付ける中、オレは歯を食いしばって悪魔を見上げた。

 その時だ――


 死神がギリギリと歯を食いしばって、うつ伏せから四つん這いの状態になった。

「オン、アリ、オリ、ウム……、オン、アリ、ウム……頼む。これが最後の手段だ……」

 死神が呪文を唱え、最後に呻くように言った。


 オレの首輪の石が激しく明滅した。

 その途端、オレは背後に誰かが立つ気配を感じた。

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