第23話 生け贄(2)

 ある日の夜――


 布団に入ったぼくの耳に、

「我慢するな……」というささやき声が聞こえてきた。


 最初は気のせいかと思った。

 だが、「あの女の子のことが好きなんだろう?」という声がはっきりと聞こえ、それが気のせいじゃないことに気づいた。


 辺りを振り返り、壁に耳をつけたが、隣から聞こえてきた声なんかじゃなかった。

 しばらくは部屋の隅々を探ってみたり、窓を開けたりもしたが、どこからその声がするのかは分からなかった。

 その日は、結局それ以上にはその声は聞こえず、ぼくはいつの間にか眠りについていた。


 次の日の夜――

「なぜ、正直にならない?」という声が、また聞こえてきた。


「誰だお前?」

「私はお前だ」


「ふざけたことを言うな!!」

 一喝すると、またその声は聞こえなくなった。その日は中々寝つけず、一睡もすることができないまま夜が明けた。


 そして、また夜が来た。

「あの幼い女の子が好きなのだろう? 行動に移せ……」

「馬鹿な。ふざけたことを言うな!!」


 声はまた聞こえてきた。否定してもその声は止まなかった。


「手伝ってやるぞ。欲望を解放しろ」

「うるさい。消えろ! 俺はそんなことはしたくない!」

 ガンッと音を立て、床を殴る。


「嘘をつけ。お前の本心は違うだろ?」

 だが、その声はぼくの様子に構わず、心の奥深くをえぐるように響いてきた。脳髄の奥にまで届くような声は、ぼくの心をかき乱した。


「……消えろ。俺から出て行け……」

 この日は、一晩中、このやりとりを繰り返した。やはり一睡もすることができず、ぼくはこの日、仕事を休んだ。


 職場にやっと電話をかけ、ぼくは布団の中で丸まっていた。

 ウトウトとしていると、淫夢を見た。ぼくが女の子に吐き気を催すような行為をしている夢だった。


 ぼくはぜいぜいと息を荒げ、汗をびっしょりかいて布団をはぐり、はね起きた。

「おい。ちょっと聞け……」


 また、幻聴が聞こえてきた。

「ついに夢にまで見たじゃ無いか?」

「うるさい……お前には関係ない」


「そうだな。お前の言うことももっともだ。一方的すぎたよ……」

 幻聴は優しく穏やかに語りかけてくる。

「だが、お前は好きな女の子を犯す夢を見た。そのことは確かだよな」


「それは、そうだ……」

 俺は頭を振って頷いた。自分のことながら、吐きそうだった。

「頼む、もう消えてくれ……」

 俺は頭を掻きむしって呻いた。


「まあ、そう言うな……」

「お前は何なんだ? ぼくはやっぱりおかしくなったのか?」

 ぼくは目に涙を溜めて言った。


「そうではない。我は言わば神だ。人の欲望を満たす存在、それが我だ。お前と我が出会ったのは言わば、運命なのだ」


「何を馬鹿なことを……」

「馬鹿なことでは無い。これは幻覚でも無い。現実なのだよ。お前があの女の子のことを好きだという気持ちが我を呼び寄せたのだ」


 ぼくは、ぼく以外にいない部屋の中をキョロキョロと見回した。神? いや、何か超常の存在なのか?


「ふふふ……今まで色々とお前には言ったが、あの女の子のことは好きだっていうのは本当なんだろう?」

「ああ、それは、そうだ……」

 ぼくは呆然と頷いた。 


「そうでなくては、我を呼び寄せることはできないからな。どこが好きなのだ?」

「昔から好きだったアニメのヒロインにそっくりなんだ」


「やはり、そうじゃないか。要は大切にしているんだな? 彼女を」

「そうだ。傷つけるなんてとんでもない」


「そうか。じゃあ付き合えるように我が手伝ってやるよ……」

 声は優しかった。


 ぼくは一瞬、言葉に詰まった。

「ほら。どうだ? 傷つけなければいいのだろう? 大切にすればいいじゃないか?」


 声は益々優しく囁き、ぼくの心を激しくかき乱した。

 背中に何かが貼り付いた。


 途端に、頭に性的な衝動が募る。同時に、下半身が自分のもので無いかのように猛った。


 窓ガラスに真っ黒な影が映っている。それは背中に貼り付き、ぼくの内なる衝動を煽っているかのようだった。


「う……、う、あああああ……」

 ぼくは涎をこぼし、涙を流した。


 激しく頭を振り、そして……!!

「何を言ってるんだ!? ぼくみたいなおじさんがあんな小さな女の子と付き合うわけないじゃないかっ!!」

 爆破する嫌悪感。それが叫び声となって弾けた。


 窓ガラスに映っていた黒い影がいつの間にか無くなっている。

「ぼくは付き合おうなんて思っていない。ただ、見ていたいだけなんだ! いい加減にしてくれ! もう、放っておいてくれ!」


 声の返事が無い。

 どこかに行ったのか?


 大きく息を吐いたぼくの耳に、

「邪霊まで吹き飛ばしたかっ!? このしつこいロリコン変態野郎がっ! どんなに綺麗事で取り繕おうが、それがお前の正体なんだっ!! 否定できるかっ!?」

 あの声が、がなり立てた。


 窓ガラスにうつる影は爬虫類のような邪悪なシルエットに代わっていた。その影が自分の耳元に口を寄せている。


「ひいいっ!!」

 大慌てで耳元を手のひらで払いのけていると、いつの間にかその影は消えていた。

 ぼくは目と耳を押さえ、布団に潜り込んでいた。



 それから毎晩、ぼくは幻聴と戦った。目の下には大きな隈ができ、太っていた体は少しずつ痩せていった。


 夜に眠ることができないため昼に眠る。そのため、仕事に行くこともできなくなっていた。


 ――その日もそんな日だった。

 昼から眠りこけ、ふと目が覚めると、散らかりまくった自分の部屋にあの女の子がいた。


 ぼくは状況が分からず、何度も目をこすった。


「おじさん。お母さんは? お母さんが病気で倒れてて、おじさんの家にいるっていうから、ここに来たのよ」


「え!?」

 首をかしげて訊ねる女の子に、ぼくは訊き返した。


「それ、おじさんが言ったのかい?」

「うん」


 ぼくは目の前が真っ暗になった。二重人格なのか? 自分でも気づかないうちに、こんなことをしてしまうなんて――


「俺はお前だ……」

 再びあの声が囁いた。


 思わず辺りを見回す。すると、ガラスに映った自分の背後に真っ黒な影が映っていた。その影には、恐竜のような牙とコウモリのような羽が生えていた。


 邪悪な意思が、ぼくの心を無理矢理に塗りつぶしていく。


「やっ、や、めろ………」

「いや、やめない。お前と契約するのは諦めたよ。だがな、ここまで、我をコケにしたんだ。お前にはむくいを受けさせる。その女の子にもな。いいか? お前が我を拒否したからこうなるんだ。これから起こることはお前の罪そものなのだ……」


 その化け物はそう言うと、「ひゃあっはっはっはっ」と下卑げびた笑い声を上げた。


「お前を無理矢理に乗っ取り、お前が好きなあの子をめちゃくちゃにしてやろう。せいぜい楽しめ、いや、苦しむのか……。ひゃあっはっはっはっ……」


 ぼくの意志とは無関係に邪悪なエネルギーが全身を満たしていく。そして、体中が性器になったかのような感覚に陥った。


 ぼくは抵抗した。

「逃げろ……」

 女の子に向かって、やっとのことで声を絞り出す。


「ここにお母さんはいない。早く逃げるんだ……」

 抵抗するぼくをあざ笑うかのように、化け物がぼくの心を侵食していく。脳が破壊衝動と性衝動で一杯になり、目の前が真っ赤になった。


「逃げろ、早く逃げてくれ……」

「ここまで、抵抗するとは大したものだ。だが、もう終わりだ!」

 化け物がそう言った途端、心が真っ赤に塗りつぶされた。


 目から血の涙が流れた。

「ぐうおおおお!!」

 口から漏れ出た叫び声は自分のものではなかった。


 ぼくが、その日最後に見たのは、玄関に向かって逃げる彼女の背中とそれを捕まえようとする自分の腕だった。左手にはいつの間にか包丁を握っていた。


      *


「にゃあああっ!」

 ――おい、待てっ!


 オレは鳴かずにはいられなかった。

 男が一瞬こちらを見た。


 だが、男はオレの鳴き声を無視するかのようにニヤリと笑い、女の子に向かっていった。


 包丁の突き刺さる湿った音が何度も響く。

 そこからは、見たくもない凄惨な光景が繰り返された。


 オレの必死な鳴き声は届かなかった。

 男は一度も正気を取り戻すことはなかった。


 オレは無力感にさいなまされ、涙をこぼした。

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