第12話 思い出

 由里子は後悔していた。浩二の変な態度に我慢できなくて思わず出てきてしまったことを――


 もっと一緒にいたかったのに。

 子どもみたいに我慢ができなかった自分に腹が立ち、病院を振り返る。

 眉毛の所でそろえた前髪を手でぐしゃぐしゃっとして目に滲んだ涙を拭いた。


 ――どうした由里子。何かあったのか?

 今にもそう言って、竜一が現れそうな気がする。一度考え始めると、その思いは止まらなくなった。竜一の笑顔が、声が、抱きしめてくれる手の感触が蘇る。


 竜くん。早く元気になって、目を覚まして。

 由里子は病院に向かって心の中で呟いた。

 脳裏に、竜一と出会ったときの思い出が溢れ出た。


 ――そう、それは高校二年生の春だった。



 竜一と始めて出会ったのは、通学路である河川敷の堤防の道。いつものように、その道を自転車で帰っていたときのことだった。


 その日は、うららかな春という言葉がぴったりの天気で、由里子もどこかしらうきうきとした気持ちで自転車を漕いでいた。


 途中で由里子は、それまで見たことのないリーゼントの髪型の男とすれ違った。

 男はスケッチブックを持って絵を描いていた。学生服を着ているから高校生なのだろう。その目は一生懸命で、集中して絵を描いているようだったが、そこまで上手くはなかったかもしれない。


 自転車ですれ違っただけだから、一瞬の印象だったが、不思議に心に残った。

 何となく気になって男の方を振り返るように見ていると、突然現れた二人乗りの原付バイクがすれ違いざまに、前かごに入れていたスポーツバッグをひったくった。


「きゃあっ!!」

 思わず叫び声を上げた。


「ぎゃははは……」

 スカジャンを着て半キャップのヘルメットを被ったチンピラ風の男たちは笑いながら過ぎ去っていった。


 ブベベベェッ!!

 穴の開いたマフラーから下品な排気音を垂れ流しながら、バイクに乗った二人組の背中が遠ざかる。


 泣きそうになって呆然と過ぎ去っていく男たちを見ていると、突然バイクがウイリーし、そのまま後ろに倒れた。

 ちょうど、リーゼントの男のところにさしかかったところだった。


 男がスポーツバッグを力任せに引っ張り、それがブレーキになってバイクが倒れたように見えた。


 急いで男に近づいていくと、原付のバイクの男たちは慌てて逃げ出していくところだった。

 由里子が男のところに着いたときには、原付バイクは既に遠くへ逃げていた。


「あ、ありがとうございます」

 由里子が礼を言うと、

「いや、なに」

 と、男は言ってスポーツバッグを返してくれた。


 男の服装は学ランだったが、ズボンが少しだぼっとしていて、普通の形とは少し違うように思えた。力ずくで原付バイクからスポーツバッグを取り返した割に、細身に見えたが背は高かった。百八十センチはありそうだ。


「喧嘩になるかと思って心配しました」

「ああ。俺の顔を見たら逃げ出しちまったよ。はははは」

 男は気が抜けたような返事をして笑った。


 その優しくて温かな笑顔に一撃で心を射貫かれた。

 由里子は必死になって言葉を繋ぎ、お礼を言った。そして、自分から男の人にアプローチをしたことなんか一回も無かったのに、名前と連絡先を訊ねていた。こんなことは初めてだった。




 それが竜一との初めての出会いだった。

 竜一は県立の工業高校の三年生で一つ年上だった。それから、何度も自分から連絡を取っては会った。


 最初の頃は、私も恥ずかしかったし、竜一も恥ずかしかったのだろう。会っても、そんなに話は弾まなかったけど、無理して話さなくてもよくて、黙っていても落ち着く感じがするのがよかった。しっくりくるというのが、一番近い感じかもしれない。


 もっと距離を縮めたくなって、竜一が好きなバイクのことをネットで検索したりして話したりもしたけど、「馬鹿、無理しなくていいんだよ」と竜一は笑って言った。


 お互いに少しずつ慣れてくると、学校での出来事や友だちの話、趣味の話といった話題も増えていった。夕方に会って、話をしていると、いつの間にか時間が経っていて、家に帰るときは寂しくして仕方がないというのがいつものパターンだった。


「まだ、帰りたくない」

「お父さんやお母さんが心配するぞ」

 いつも、ぐずっては、竜一にたしなめられた。


 しばらくして、竜一が街の不良たちに恐れられる存在だと知った。竜一が自分から教えてくれたのだった。


 何なら、もう会わないようにしようか――と、眉間に皺を寄せて言う竜一に、すごく怒ったのを覚えている。


 思い出してみると、だからあのとき、原付バイクの男たちは慌てて逃げ出したのだ。由里子の中に竜一のことを怖いと思う気持ちは少しもなく、自分の直感を信じた。


 ずっと後で、分かったのだが、あの時描いていた絵は、妹の宿題の手伝いだったのだそうだ。何でも美術の宿題が終わっていない妹を見るに見かねて描いていたのに、余計なお世話だと言われ、受け取ってもらえなかったのだと、笑って言う竜一がかわいかった。


 そんな竜一のことを怖いなんて思うはずがない。

 周りの友だちは、竜一が由里子を強引に口説いたと思い込んでいる者も多かったが、それは大きな間違いだった。ある友だちからは別れた方がいいとはっきり言われたこともあって、大げんかをしたこともある。


 由里子にしてみれば、惚れているのは自分なのだ。愛おしくて、かわいくて、頼りがいのある男――それが由里子にとっての竜一だった。


 ふと顔を上げると、目の前の電線に三羽の雀がとまって、仲良くさえずっていた。

 由里子はふと竜一の家族のことを思い出した。


 こうなってしまって、お母さんも妹も、元気がなくなっていることは知っていた。元々仲のいい家族なのだ。

 ――竜くんが戻るまで、私が二人を元気づけよう。


 そう思うと、心が明るくなった。竜一が倒れてからずっとふさいでいたから、こんな気持ちになること自体久しぶりだった。


 特に、理由はないが、近いうちに竜一が目を覚ますような、そんな気がした。その考えは、予感と言えるほど確かなものではなかったが、由里子に勇気を与えた。

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