第10話 見舞い
猫の足でも二十分とかからないところに、大学附属病院はあった。街の中心から東の方角にある病院で五階建てのコンクリートのビルだった。
ここに、俺の体があるのか――
正面からその厳めしい灰色の建物を見上げる。そこまで大きな建物ではないはずだが、猫の目で見ると思っていた以上に大きく感じた。
入り口の自動ドアを睨み、どう入ろうか考えていると、患者らしき人が駐車場からやって来るのが見えた。
このタイミングを逃がす手はない。俺はその人のすぐ後ろにぴったりとつくと、入るのに合わせ、自動ドアが開いたタイミングで素早く駆け込んだ。
入ってすぐのロビーでは、椅子に座っている患者がほとんどで、あとは看護師が数人歩いているだけだ。
薬品や消毒薬、ほかの人間の臭いに混じって、微かに由里子の臭いが漂っている。死神が言っていたとおり、由里子は病院に見舞いに来ているのだ。俺は微かに残る由里子の匂いを頼りに、病院の中を移動した。
歩くたびに、足の裏に床の冷たい感触を感じた。人間に見つかって騒ぎになるといけないので、足音を立てないように隠れながら進んだ。
病院だからか、所々に生気の無い幽霊が立っていたが、無視して人陰に隠れながら歩く。
由里子の匂いはエレベーターの方へと続いていた。だが、猫の体ではエレベーターは使えない。それに、どこで降りたかも分からない。
俺は階段の方へと回った。手間だったが、一階ずつ匂いを調べるしかないと考えたのだ。そして、ついに、四階で由里子の匂いを見つけた。そのまま匂いをたどっていくと、424号室に着いた。
ここか――
俺は自分の体が入院しているであろう部屋を見つめていたが、すぐに思い直して階段の影に隠れた。
しばらくすると、タイミングよく看護師が出てきた。出てきたのに合わせて、ドアの動きに合わせて部屋に入る。
部屋の中に由里子はいなかった。
俺は素早くベッドの上に飛び乗った。
自分の体が力なく横たわっていた。いつもはリーゼントにきめている前髪が下ろされ、額に真っ白な包帯が巻かれている。青のストライブのパジャマを着て、手首にはビニールバッグから伸びたチューブがつながれていた。
くそ。俺は思わず、自分の体に額を押しつけた。当然のように、何も起こらない。ひょっとしたら、という淡い期待は無残にも砕け、俺は呆然と自分の体を見つめた。
やはり、元の体に戻るには死神に頼るしかないのか――
目を瞑った青白い自分の顔を見つめていると、廊下を歩く足音を感じ、再びベッドの下へと隠れた。
入ってきたのは、花瓶を抱えた由里子だった。
枕元に花瓶を置いた由里子をベッドの下から見上げた。
「竜くん……目を覚ましてよ。みんな会いたいって、話をしたいって言ってるよ。私も早く竜くんの声を聞きたいよ」
由里子はそう言って、寝ている俺の顔を撫でた。
この状態になって、これほどに元に戻りたいと思ったことはなかった。早く、虎徹を起こして、死神の提案について話をしなくてはいけない。
そう考えていると、
ガチャリ、
と音を立て、ドアが開いた。
入ってきたのは、スカル・バンディットのメンバーの一人である
浩二。
俺は思わず、声を上げそうになり、慌てて口を閉じた。
浩二は一個下の学年だが、信頼できる仲間の一人だ。
お見舞いに来てくれたのか――。俺はベッドの下から浩二の顔を見上げた。
「由里子さん……。大丈夫ですか?」
浩二が心配そうに訊ねた。
「ええ、大丈夫よ。浩二くん、お見舞いに来てくれたの?」
「はい」
浩二は頷くと、由里子の目を見つめた。
「やっぱり竜一くん、全然目は覚めないんでしょ? 先生は何か言ってましたか?」
「ううん。まだ、何もめどは立ってないって」
「そうすか」
浩二が残念そうな顔をする。
「そう言えば、リンゴ買ってきたんすよ」
浩二はそう言うと、おもむろにバタフライナイフをポケットから出した。紙袋から取り出したリンゴをむき始める。
「どうすか?」
そう言って、素手で手渡されたリンゴを由里子が困ったような顔で見つめ、
「ありがと。私はいいわ」
そう言って、浩二にさし返した。
その振る舞いに違和感を覚えた俺は、浩二を注意深く見つめた。その時、体勢を変えた背中が見えた。それを見て俺は跳び上がりそうになった。背中に邪霊が貼り付いていたのだ。
また、お前らか!?
俺は今にも邪霊に跳びかかりそうになるのを一旦我慢した。さすがに今出て行くと見つかってしまう。
邪霊は今まで見たやつとは少し違って真っ黒というよりは灰色に近かったが、伝わってくる凶悪な雰囲気は共通していた。
浩二は苦笑いしてナイフを音を立ててしまうと、リンゴを一気に食べた。
静かな病室に、シャリ、シャリというリンゴを咀嚼する音が響く。
「浩二くん、チームのことは大丈夫? 今、竜くんがいないんだから、変な喧嘩とか買っちゃだめよ」
「大丈夫です。竜一くんに恥をかかせるようなことにはならないようにしますんで」
リンゴの果汁のついた指を舐めながら、浩二が言った。
「そう、それなら、いいんだけど……」
「それより、竜一くん、こんなになっちゃって、寂しくないですか?」
由里子の肩に浩二が手を回そうとするのを見て、オレの背中の全ての毛は逆立った。
由里子は肩をすくめるようにして、その手をかわした。
「だめよ。今のは冗談よね?」
由里子が
いつもは穏やかで優しいその瞳に、強い意志がみなぎっていた。
俺は踏み出しそうになる足を、必死で押しとどめ、ほっとしていた。邪霊が浩二に悪影響をもたらしているのだろう。俺は邪霊を睨みつけた。
「浩二くん。竜くんがこんな風になって心細いのはみんな一緒よ。だから、今は力を合わせなきゃね。いい?」
由里子がにこっと笑う。
浩二の表情が見えないが、浩二は由里子の言葉に頷いているように見える。
「用事があるから私はこれで帰るけど、お見舞いが終わったら看護師さんに一声かけてから帰ってね……」
しばらくすると、由里子は小走りに部屋から出て行った。
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