第1話 虎徹(1)
関東のとある地方都市、
その都市の飲み屋街には、街の皆が大切にしている大きな銀杏があった。ちょうど街の中心にある小さな緑地帯いっぱいに生えた銀杏は、どれくらい昔からあるのか分からないくらいに大きく、威厳のようなものさえ感じさせる。
そして、その根元には忘れ去られたかのように、苔むした小さな石の祠がひっそりと置かれていた。実はオレ、
その日は朝から一日雨だった。
銀杏の枝葉をすり抜けた雨粒が、祠の屋根をリズミカルに打つ。
オレはその音に身を任せながら、惰眠を貪って過ごしていたが、腹が減ったのに我慢ならなくて体を起こした。このまま寝てても腹は膨れやしないから、食い物を調達する必要があった。
「みゃあうう」
あくびをすると、体を震わせ外に出た。
街の灯りが薄く滲んだ雨雲に向かって、もう一度鳴き声を上げる。そして、雨に打たれながら歩き出した。
人混みに入る前に、スーツを着た大人の女性がオレの姿に気づき、「あれ?」という顔をする。
野良猫なんか、気にしなくていいのに、希にこういう猫のことを気にする人間がいる。おそらく、オレの見た目、特に目の周りが気になったのだろう。
オレは全身真っ黒のいわゆる黒猫という奴なのだが、普通と違うところがある。それは目だった。オレの右目は青色で、左目は緑色。そして青色の方の目を貫くように、一筋の白い
女性はしゃがんでオレを手招いた。だが、オレはその女性の横を華麗にすり抜けると、歩き続きた。
外では多くの人々が傘をさして歩いていた。それぞれが思い思いに歩いているようで、まるで川の小魚の群れのように大きな流れを作っている。
日はすっかり落ち、降り注ぐ雨に自動車のライトが反射していた。
しばらく人混みを縫って歩くと、小さな交差点にたどり着いた。
オレは交差点の先に注意を向けた。この先に餌場にしているゴミ捨て場があるのだ。
交差点を過ぎたところにはトラックが停まっている。運転手も乗っておらず、エンジンもかかっていない。
オレはそのトラックの方向を見ながら慎重に交差点に足を踏み出した。
――と、
キキイッ!! キキュウッッ!!
けたたましい急ブレーキ音とタイヤのスリップ音が背後から響いた。
振り返ると、刺すようなライトの光が目に飛び込み反射的に跳び上がった。
交差点の近くにある脇道から、排気音を轟かせた大型のバイクが飛び出してきたのだ。
バイクを運転していた男の額と頭がぶつかる。
バイクを運転していた男が、「あっ!」と叫び、オレは頭に強烈な衝撃を受けた。
ガッ、ギャガーーッ!!
耳障りな音を立て、バイクと男は横倒しにアスファルトを滑っていく。
オレは同時に空中へと大きく跳ね飛ばされた。
たぶん、死んだな。
目の前が暗くなっていく中、そう思った。
――どれくらい時間が経ったのか。ゆっくりと目を開く。
夜の街灯の灯りが、ぼんやりと目に入った。
「にいいい……」
よろめきながら、濡れたアスファルトの上に立ち上がる。
体をぶるぶるっと震わせ、まとわりついていた雨水を飛ばすと、頭がはっきりしてきた。
バイクにぶつかって……そうだ。あの男はどうなったんだ?
気がつくと、目の前には、赤いライトを回す救急車が停まっていた。何人もの人間が慌ただしく動き、誰かを積み込んでいる。
その様子を見ていると、
(何だ、こりゃ!?)頭の中で、誰かが喚いた。
「何だ!? お前は?」
オレは訊ねた。
(どうなってるんだ? これは猫の体?)
前足が勝手に上がった。マジマジと前足を見つめていることに気づいて、はっとする。
「おい! 勝手にオレの体を動かすな!」
(うるさい! そんなのは俺の勝手だ!)
突如、体が何度も跳びはねる。爪を立てて電信柱を駆け上り、続けて救急車に向かって跳んだ。救急車の中に入る寸前、後ろのドアは閉められ、大きなガラスに頭をぶつける。
「おい! 本当に止めろ!! お前は何者だ?」
(俺は
「オレは
(俺はなんで、猫の体の中になんか入ってしまったんだ?)
「お前、覚えてないのか?」
(まさか。あのぶつかった時……)
「どうも、そうみたいだな」
(は!? そんなことがあるかっ!?)
「知るか。とにかくオレの体を勝手に動かすな!」
信じられないといった様子の竜一にオレは叫んだ。端から見れば、一匹で勝手に鳴き続けている変な猫に見えるだろう。
(く、くそ……)
「どうした?」
(な、何だか、目の前が暗い、んだ……気が遠く、な……る……)
突然竜一の声が切れ切れになる。
「おい、ちょっと待て!」
(く、くそ……俺、は、今日……大事な、用が……)
竜一が焦ったように頭の中で呟く。
だが、その声は、段々か細くなっていき――突然、ぶつっと途絶えた。
それまで、オレの中にいたはずの竜一の人格はいなくなっていた。気配と言えばいいのか、そういったものを全く感じなくなっていた。
マジかよ。くそっ!
オレはため息をついた。
「みゃああっ《おい。竜一っ》!」 と、大きな声で呼びかけるが、返事は無い。
鳴き声に気づいた救急隊員がこっちを見ていることに気づいて、オレはその場から急いで離れた。
走っていると、急に腹がぐうっと鳴った。
そうか……飯を食いに来たんだったな。
元々の目的を思い出し、空を見上げる。
いつの間にか雨は上がっていた。
オレは雨に濡れた冷たいアスファルトの上を、水しぶきを上げながら駆け抜けた。
これが、オレと竜一の運命的な出会いの
この時のオレは、この後とんでもない事件に巻き込まれて行くことになるとは、これっぽっちも想像していなかった。
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