春と本屋とセレンディピティ

 本屋にはセレンディピティが待っている!


 これは疑う余地のないことだ。何故って、通販サイトが発達したこの現代社会、いまだに本屋が根強い人気を誇っているなんて合理的に考えると信じられないことじゃないか。何故今もなお本屋が人気なのか、それはやはりそこにしかない魅力があるからだろう。例えば、本屋には本棚には店主のおすすめが並んでいる。この世界にある膨大な数の本の中から店主が選りすぐりの本たちを仕入れ、本棚に並べているのだ。そんなこだわりが詰まった本棚では一期一会と言っても大袈裟ではないほどの出会いも待っている。やはり、本屋にはセレンディピティが待っている。これは疑う余地のないことなんだ。



 本の街なんて呼ばれているこの街を、そんなことを考えながらぶらぶらとしていた昼下がり。気が付くと最近開店した良い店だと仲間内で噂になっていた本屋の中に私は居た。外観も内装も最近開店したとは思えないくらいにレトロな雰囲気が漂っている。入口付近の一角にはカフェスペースがあり、香ばしいような芳醇な果実のような、珈琲の良い香りが店内にいる私の鼻をかすめた。


 本棚に並ぶ本たちの背表紙を眺めていると、この本屋の店主は自分であるかのように感じた。どの本も私好みのものであったからだ。上機嫌でいくつかの本を手に取ると、これはすぐにでも読んでやりたいと感じた本が何冊もあり、それらは私の左手に積まれた。思いがけないセレンディピティに思わず財布の紐が緩んだ。



 昔ながらの喫茶店に置いてあるような、真赤なベロア生地の椅子に腰掛け、珈琲を一口飲んだ。買ったばかり本のページをパラパラと捲った時、ふと学生時代の記憶が脳裏をよぎった。



    〇



「ねえ、赤と青、どっちがいい?」


 ある日の放課後。満開の桜の樹の花々が散り始めている様子をぼんやりと眺めていた時、彼女は私にそう話しかけた。


「え? えっと……じゃあ赤で」


「よし! ちょっと待っててね~」


 そう言いながら彼女は机の横にぶら下がっていた紺色の鞄を漁り始めた。


 あまりの急展開に頭が追いついてなかった。彼女と私は親しい仲ではない。それどころか、席が隣になった際に軽く挨拶を交わしただけで、これがほとんど初めての会話なのである。


「はい、お待たせ。赤はこれ。どうぞ」


 そう言いながら彼女は私に一冊の本を渡してきた。その本には、近所の駅ビルに入ってる書店のブックカバーが巻かれていた。クラフト紙に赤色の文字やロゴが印刷されたものだ。


「ええと、これは……」


 私が言葉に詰まっていると、彼女は微笑んだ。


「これはね、私のオススメの本! 来週までに読んで感想教えてね! それじゃあッ」


 彼女はそう言い残し、教室から出ていった。




 そんなやりとりから始まった私と彼女の関係は、どのようなものだったか。まず、金曜日の放課後に彼女は二択で選ばせた本を渡した、私はその本を週末の間に読み、月曜日の放課後に感想を言い、本を返す。そんな関係だった。


 では、それ以外で彼女と親しくしていたのか。答えはNOだ。本のやり取り以外で彼女から私に話しかけてくることはなかったし、勉強や友人関係、部活動で忙しそうにしていた。実際忙しかった。かくいう私もそうだった。ただし、私には友人関係はなかったが……。


 そんなこんなで毎週続いていた私と彼女とのやり取りだったが、特に印象に残っていたことは、一番初めに渡された本の感想を言った時に見せた表情と、窓の外の桜の樹が赤色に染まっていた頃に、ボソッと言った「私の夢は作家か書店の店主なんだよね」という言葉だった。


 学年が変わり、あの日のように桜の花が散り始めた頃、彼女は転校してしまった。どうやら親の転勤に付いて行くために遠い場所へ引っ越すらしい。しかし、行き先を知っていた者はあの教室の中で彼女一人だけだった。この学校の中でも彼女一人だけだった。



    〇



 学生時代の想い出に現を抜かしていたせいで、目の前に置いてあった珈琲は冷めてしまっていた。残りを飲み干し、先ほど買った本たちと共に椅子から立ち上がった。


 ああ、本屋にはセレンディピティが待っている!

 やはりこれは疑う余地のないことだ。私は再びこの本屋を訪れるだろう。

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