第九話 日々 3
真司の講義が終わり、有紀は一人異対2課の部屋に戻ってくる。一緒にいた真司の方は先ほど講義をした三階で用事があるからと途中で別れたのだった。
部屋にいるのは、出た時と変わらず監督官の二人と魔法少女の三人。早音が三夏の机まで出向き大型の本のようなものを片手に言い合いをしている。
「何だよ、三夏でも分かんねーのか。お前頭いいんじゃねえの」
「別にそういう訳じゃ……勝手に早音がそう思ってるだけでしょ」
「どうすんだよ、提出期限明日だぜ」
早音が困った顔をしながら辺りを見回す。
有紀はそれを横目に、自席に着いた。PCモニターの電源をつけて、先ほどの真司の講義をワードにメモしようと作業に入った。
「サツ
「うーん……私も文系出身だからちょっとこれは……。古文とかならそこそこ得意なんだけど」
今度は沙月に助けを求める早音。しかし沙月も助けにはなれないようである。
有紀の方はワードファイルを開き、記憶が残っているうちに真司の講義のメモを開始した。警視庁の組織、各部署の役割、その他諸々。
「おい、エリート」
キーボードを叩く有紀は、メモに集中していたため背後からしたその声に気づかない。
「なあ、エリートってば」
ようやくその声が自らに向けてのものではないかと気づき、有紀が後ろを向く。
そこには、先ほどから色々な人間に『助け』を求めている早音がいた。
「えっと、それって俺のこと?」
「そうだよ。アンタ以外いねーだろ」
少々苛立たしげに、早音が言う。
彼女の手には一冊の本。そこには「高校物理・基礎」の文字があった。一般的な高校で使用されているテキストの類だ。
「それで、何か用……かな」
「ここの問題が分かんねーんだ。三夏もサツ姉も分かんないらしいし」
彼女はテキストを開いて、件の問題が書かれているページを開いた。
内容は加速度に関する問題のようだ。ある速度で原点を通過した物体が途中速度を変え、点Aで折り返して原点を通過したので、点AのX座標を求めよ、とある。どうやら高校一年生向けの物理の問題だった。
「オッサンが言ってた。アンタ、東院大学出てんだろ? 私もよく知らないけど、東院って日本で一番頭いいらしいじゃん。だからこれ、教えてくれよ」
それを聞いて、有紀は蓮二の方を見た。彼は両手を顔の前で拝むように合わせて『すまん』と口だけ動かして言う。
どうせ真司あたりが課内の人間に、有紀が来る前から彼について色々と話してしまっているのだろう。有紀はため息をついた。
「で、何で俺の事をエリートって呼ぶんだ?」
「そりゃあ、いい大学行っていい役所に勤めてるんだろ。だからエリート。別に呼び方なんて私の勝手だろ。で、教えてくれんのかよ」
まるでガラの悪い高校の不良のような聞き方だなと有紀は思うが、敢えて口には出さなかった。
呆れた顔をしつつ、有紀は右手を早音の方へと差し出す。
「分かったから。じゃあもう一回問題を見せてくれ」
「……で、ここで出た数字の二つを引いたら、ほら。答えが出ただろ」
有紀はテキストに計算式を書きながら、難なく件の問題を解いていく。
その様子を横で見ていた早音は、目の前で繰り広げられる解説に圧倒されていた。
「すげえ……アタシでも分かる……」
「これは基礎だから、多分次のページあたりでこの式を応用する問題が出るはず。でも同じようにやれば、多分解けるぞ」
「エリート、アンタ本当すげぇよ! これから物理は怖くねぇ!」
体のいい教師役を見つけた歓喜からか、早音が声を上げる。
それを見て、沙月はPCの画面から視線を早音に向けて彼女を諫めた。
「こら、早音ちゃん。自分の宿題なんでしょ。人に頼りすぎないで、ちゃんと自分で解かなきゃ」
「サツ姉は細かいなぁ。いーじゃん、結果的に分かったんだから」
「まったくもう……にしても、那矢さんは流石ですね。大学の専攻は理系だったんですか?」
尊敬の眼差しで、沙月が有紀の方を見た。
「いや、法学部だったんでバリバリ文系ですよ。ただ、受験では物理も使ったんで高一の問題くらいなら何とか」
「そっか、東院大って国立ですもんね。やっぱ東院生ってすごいなあ」
その褒め文句を聞くのは久しぶりだなと、有紀は思う。
法務省では、職員の出身大で最も多いのが東院大だった。故に東院出身だからといって羨ましがられるようなことはない。こういう反応をされるのは、大学時代にバイト先で大学名を聞かれた時以来であった。
「あっ、あのっ! 私も、いいでしょうか……」
その時、有紀の向かいの席から声がした。
声の主は沙月の前の席、有紀から見て左斜め前に座る文乃だった。
「あの、えっと……私も明後日までの数学の宿題で分かんないところがあって……出来たら教えて欲しいなって」
言いながら、文乃が机の横に置いたバッグからテキストを取り出した。そちらには『中学二年・数学』と書かれている。
どうやら、有紀はここではすっかり塾講師扱いらしい。
「いいよ、持ってきて。どの問題?」
こうなっては仕方ない、と有紀も諦めて文乃にて問題を見せるよう促す。
「で、これで答えが出ると」
文乃が持ってきたテキストの確率の問題も特に問題なく有紀は解説し終えた。
解説を受けている途中、終始頷きながら聞いていた文乃が顔を上げる。
「すごい……那矢さんの説明、本当に分かりやすいです! ありがとうございます!」
「いいよこれくらい。別に大した事じゃないし」
文乃が深々と感謝の意を込めて頭を下げるのを見て、有紀が言った。
中学二年の数学を解くなんて久々だ。塾講師などのバイトは経験していなかったので、中学生の頃以来かもしれない。
そんな事を思いつつ、有紀はそこであることに気づく。
「中二の数学って事は……文乃は三夏とか早音よりも年下?」
「そうなんです。早音ちゃんと三夏ちゃんは16歳だけど、私は14歳で……だから、二人の方が私よりお姉ちゃんなんです」
そう答える文乃を見ながら、有紀は文乃の方が他の二人より余程しっかりしてるのではないかと感じた。口調も丁寧で、コミュニケーションも問題なく取れる。これは沙月も監督官としてやりやすいだろう。
「それにしても、君ら魔法少女も普通に学校に行ってるんだな。知らなかった」
有紀は持っていたテキストを文乃に返しながら言う。だが、文乃の方は彼の言葉に対して困ったような表情をした。彼女の視線は、そのまま早音の方に向けられる。
「ちげーよエリート。これは全部、警視庁の中でやってる授業だ」
視線を受けた早音の方が仕方ないというように肩をすくめて答える。
「えっ、警視庁の中で授業?」
「アタシらみてーのが普通の学校なんか行けるわけないじゃん。
「じゃあ、ここの警察官から授業を受けて、宿題も出ると」
「そういう事。ちなみにアタシと三夏は一時間後に数学の授業。アタシらは同い年だから、一緒に受けてる。な、三夏」
早音が三夏の方に声をかける。
三夏といえば、それに対してただ頷くだけで早音の方を向くこともなくキーボードを叩いていた。
「それだけか……なぁ、三夏もエリートに何か分かんないとこ教えてもらえよ。今がチャンスだぜ」
一旦、三夏のキーボードを叩く手が止まった。そしてようやくその顔を早音の方へと向ける。
「いい。私は自分のは自分で終わらせたから」
それだけ言って、彼女は再び視線をPC画面へと戻す。
ここで何か教えて欲しいと三夏が言ってくれればコミュニケーションの糸口になったのに、と思う有紀であったが、彼女がそんなタイプではないのも分かっていた。
三夏は明らかに、自分のことは自分で完結させるタイプだ。恐らく自分で分からないものはそれ以上何もしようとしないだろう。
「残念だったな、エリート。三夏の方は用はないってさ」
早音は自分の問題が解決したことで、満足そうに自席へと戻っていく。文乃も再度有紀に頭を下げてから、自席へ戻っていった。
異対2課の部屋に授業後別れた真司が戻ってきたのは、早音と三夏が数学の授業を受けるために部屋を出てしばらくしてからだった。
彼は有紀の席の方へと歩いてくると、彼の机の上に定期券サイズの黒い何かを置いた。
「これは……何です?」
「お土産だよ。というのは冗談で、総務部からもらってきた。まだ那矢くんに渡してなかったから」
黒い定期券のようなそれを有紀は手に取る。折り畳み式で、開くと中には有紀の正面からの写真と『警部補 那矢 有紀』の文字が書かれていた。
「それが那矢くん用の警察手帳。階級は一応、警察庁入庁の新人と同じ警部補ってことで。今後はそれを常に持ち歩いてね」
そういえばと、有紀は昨日臨場から帰った後で真司に連れられて目的も分からないまま写真を撮られた事を思い出した。あの写真は、どうやらこのためだったらしい。
「ありがとうございます。持つようにします」
「よろしく、那矢警部補」
茶化したように言って、真司は自席へと向かっていく。
改めてこういったものを受け取ると、本当に警察の一員になったんだなという実感が有紀の中に湧いた。
だが、この手帳があるからといって自分が強くなるわけでも三夏が言う事を聞くようになるわけでもない。この先警察の一員としてやっていけるか、異対2課の人間としてやっていけるかどうかは自分次第なのだ。
気合を入れ直し、有紀は改めてPCの画面へと向き合う。そこに映し出されていたのは、魔法少女・津々木三夏の基本情報。昨日沙月から受け取ったものを有紀は見ていた。
三夏は同じ人間として見るなと言うが、今日見たように年相応に物理や数学で悩んでいる姿を見るとそれは難しくなる。驚異的な力を持つ者たちなのだろうが、その姿はどう見ても普通の少女たちだ。
「どうしたもんかな……」
三夏の基本情報に関する文字列を流し見しつつ、有紀はひとりごちる。
自分は、三夏を、魔法少女たちをどう扱うのが正しいのだろうか。
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