第七話 日々

 目が覚めると、そこはいつもと変わらない自分の家であった。

 有紀は眼をこすりつつベッドから起き上がる。カーテンを開けると、眩しい朝日が部屋の中を明るく照らした。なんということはない、ワンルームのアパートの一室である。中野区の一角にあるそのアパートは築年数も最寄り駅へのアクセスもそこそこであり、有紀の通っていた大学が位置する本郷まで30分以内で向かえるという利便性から、彼が大学時代から住んでいる場所であった。

 各種身支度を整えつつ、有紀は食パンをトースターに入れる。焼き上がるまでの数分、他の準備をしているとチン、という音が焼き上がりを告げた。

 トーストになった食パンにバターを塗ったものをかじりつつ、有紀はスマホで英国放送協会、BBCの英文ニュースをざっと流し見した。世界で起きる事象がいつ自分の仕事に影響するか分からない官僚の世界で生きるための習慣として、有紀は毎朝朝食片手に読むことにしていた。

 今日も世界は事件や話題に事欠かない。

 曰く、「タジキスタン北部で爆破テロ。15人死亡」

 曰く、「二日後のスペインの解散総選挙、左派政党が有利か」

 曰く、「キューバの大規模デモ、衰えを見せず」

 曰く、「インドの魔法少女増加、近隣諸国が警戒感強める」

 最後のニュースに有紀の目が止まる。それは、インド陸軍の対異常存在コトナリ特殊部隊に新たな魔法少女が加わったことで、パキスタンなど周辺国がインドによる魔法少女の軍事利用を警戒しているという記事であった。

「魔法少女の軍事利用……」

 有紀は昨日、三夏の視界越しに見た光景を思い出す。圧倒的な力で異形の怪物を屠る少女。

 確かにあの力を持つ人間が隣国で一人でも増えたら、それを驚異に感じるのは当然の話だ。魔法少女の軍事利用は国際条約で禁止されていたはずだが、昨今の国際ニュースはそれが完全には守られていないことを時々報じている。

 と、そこで時間が押していることに気づき有紀は準備の手を早めた。


 有紀が警視庁本庁舎に登庁し、4階へとエレベーターで上がる。

 異対2課のオフィスのドア前でカードリーダーにIDカードをかざすと、静かにドアが開いた。

 既にオフィスには複数人が出勤しているのが見て取れた。沙月と蓮二、それに魔法少女の三人組が既に自席に座っている。まだ登庁していないのは真司と歩人だ。

「おはようございます」

「おはようございます、那矢さん。昨日ちゃんと帰れました?」

 有紀が挨拶すると、隣席の沙月が笑って聞いた。

 昨日の歓迎会は二次会も含めて夜の11時頃まで続き、蓮二と真司はさらに飲みに行ったようだが有紀、沙月そして歩人はそのまま帰路に着いたのだった。

「ええ。そんなに飲んでいないので。逆に、小岳さんは大丈夫でした? だいぶ飲まれてたみたいですけど」

「私、アルコールだけは強いんですよ。家系……なのかな多分。おかげで組対そたいにいた頃も随分助かりました」

「すごいですね。自分、そんなに強い方じゃないんで羨ましいな」

 有紀は自席に座り、PCの電源を起動させる。

 正面の座席を見ると昨日と同じように、三夏がPCと向かい合っていた。彼女がキーボードを叩く音が聞こえる。

 有紀は彼女と昨日の臨場以来一言も話していなかった。

 三夏の方も有紀が登庁したことには気づいているだろうが、彼女の方からは一言も挨拶してくるような様子はなかった。

「三夏、おはよう」

 とりあえず、有紀の方から三夏に声をかける。

 キーボードを叩く音が止まり、三夏が顔を上げて無表情で彼の方を見た。

「おはようございます、那矢監督官」

「昨日はお疲れ様。もしかして今、昨日の報告書を書いてるのか?」

 昨日の歓迎会中に、真司が『臨場した時には臨場後に監督官・魔法少女ともに報告書を記載することになっている』という話をしていたことを有紀は思い出して言った。

「はい。臥永課長が可能な限り翌日までの報告書提出を求めるので」

 それだけ言って、彼女はもう一度PCに向き合う。相変わらず、人を寄せ付けないような雰囲気を醸し出している。

 これが三夏の通常運転なのだろうと、二日目にして有紀もさして気にせずにPCの画面に視線を戻した。三夏が今日中の報告書記載を求められているということは、彼にもそれが求められているということだ。

 しかし今、有紀は報告書のフォーマットも持っていない状態だ。誰かから貰おうかと沙月の方を向く。

「皆、おはようー」

 その時、2課の部屋に真司が入ってきた。

 ネクタイもせずYシャツの胸元のボタンを開けた状態で、猫背の真司は真っ直ぐに課長席へと向かっていく。本当にこの人は警察官、しかも国家総合職試験を通過した警察庁採用の警察幹部キャリアなのだろうかと有紀は疑問に思わずにいられない。

「あれ、今日牧坂くんいないんだっけ」

 真司が空席になっている蓮二の隣の席を見て、特定の誰に聞くわけでもなく言う。

 そこは歩人の席だが、確かにまだ彼の姿は見えない。

「死んでんじゃねーの、あのメガネ。オッサン、家に確認しに行ってみろよ」

 そう言葉を発したのは、蓮二の正面の席に座っている魔法少女、早音だった。口の悪さが特徴的な彼女は机に大きめの本のようなものを広げ、何か書き込んでいる。

「歩人なら今日は公調こうちょうに戻ってるみたいですよ。何か研修があるみたいで」

 蓮二は早音の言葉を無視して、真司の疑問に答える。

「コーチョーって何だよ、オッサン」

公安調査庁こうあんちょうさちょうの略だよ。お前ら魔法少女も奴らの監視対象になってるからな。気を付けとけよ」

 監督官である蓮二は早音の口の悪さを全くと言っていいほど気にしていない様子だ。確かに蓮二の口調も少々荒っぽいところがあり、そう考えると二人は似た者同士なのかもしれない。

 その会話を聞いて、慌てた様子を見せたのは沙月の向かいに座る魔法少女の文乃だ。

「えっ、監視って……私たちの普段の様子とかって、その人たちに見られちゃってるんですか!?」

「うっわ。ストーカーじゃん。警視庁うちのもそうだけど、やっぱ公安って名前のつく奴らはキモい陰キャばっかだな」

 文乃の心配をよそに、早音の方は言いたい放題である。

 そんな二人の会話にも、三夏は全く反応を示さない。ただ一目散にキーボードを叩き続ける。

 まだ二日目ということもあったが、有紀にはこの魔法少女三人の関係性がまだ分からなかった。恐らくだが、早音と文乃はそれなりに仲が良いのだろう。問題は三夏だ。彼女は他の二人のどちらとも特に仲が良いようには見えない。

「そ、そういえば三夏ちゃんも前に一緒にコンビニに行った時、誰かついてきてるような気がするって言ってたよね!? もしかしてそれも……」

 唐突に、文乃が慌てた様子で三夏に話を振った。だが三夏の方は特にPC画面から目を離そうとはしない。先ほどまでと同じように報告を書く手を止めなかった。

数秒してエンターキーを叩くと、三夏は文乃の方を見る。

「私たちみたいなのは監視されてるのが当たり前。色んな組織が私たちの行動一つ一つを見てるよ。文乃は気にしすぎ。何かされるわけじゃないんだから」

それだけ言って、再び彼女はPC画面に目を向けた。

「三夏は嫌じゃねーのかよ、キモい奴らに見られてんの」

「別に。生物としては私たちの方が上なんだから。象がアリに見られていても何も感じないのと一緒」

「お前、相変わらずだな……色々と」

早音が呆れたような、達観したような声で言った。

一応三夏にも会話に参加する気はあるんだなと有紀はそれを見ていて理解する。ただ、他の二人に比べると「冷めている」ような感じがあった。


「すいません、臥永課長。昨日の報告書を書くので、報告書のフォーマットを頂きたいのですが」

有紀は真司が着席してしばらく経ってから、彼の座席へ向かった。

真司の方はそれを聞いて、ああ、と思い出したように顔を上げる。

「昨日の臨場に関してはまだ那矢くんが書かなくてもいいよ。私に着いてきてもらったという感じだしね。肩肘張らなくて大丈夫」

「そう……ですか。ではお言葉に甘えて」

「とはいえ、折角法務省からわざわざ来てもらった那矢くんに暇してもらうのも何だかなあとは思ってんだよね。どうしようか」

顎を右手でさすりながら、真司がさして悩んでいなさそうな顔で有紀を見る。

三夏のこともそうだが有紀にとってこの真司という男の方がさらに掴みどころがなかった。今まで大学を出て法務省に一年勤める中で色々な『官僚たち』を見てきたが真司はそのどれとも異なる。かと言って、警察官に見えるわけでもない。

だからこそ、この男との会話には有紀も一語一語警戒しながら進める。

「特に何もなければ、自分の方で何か他の方のお手伝いを行いますが」

「うーん。そうだねえ、手伝うことよりも……そうだ」

そこで、真司が何か思いついたような表情を浮かべた。

「時間もあるし、軽く授業をしよう。ちょっとついて来て」

そう言うと真司は机の引き出しから一つのUSBを取り出し、自席を立ち上がって2課の部屋のドアへと向かっていった。



























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