第一話 辞令
最悪。
今の気分を表すと、その一言に尽きる。
地下鉄桜田門駅の地上へ伸びる階段を一段ずつ上がる青年、
季節は春。地上に出るとこの季節特有の気持ちいい風が吹いている。
だがそれは彼の気分を全く和らげるものではなかった。
ちょうど桜田門駅の出口を出て桜田門通りを挟んで向かいにある建物が見えることも、彼が気分を落とす原因である。
赤い煉瓦造りの古いが荘厳な建造物、法務省本庁舎。
この国の司法制度に関する事項を司る霞ヶ関を代表する中央省庁の一つだ。
「絶対、戻ってやるからな…」
赤煉瓦の建物を見ながら、誰に言うわけでもなく有紀は呟く。そして、法務省とはちょうど反対に位置する有紀の後ろの建物を見た。
法務省が制度を司る機関なら、こちらは司法の執行を司る機関。
警視庁本部庁舎が彼の目の前にあった。
ここが、今日から有紀の勤務先なのである。それこそがまさに有紀の気分が「最悪」な理由であった。
時は戻って一ヶ月ほど前。
青年、那矢有紀は法務省の司法法制部に勤務していた。
有紀は一年前に法務省に入省。日本の最高学府である東院大学の法学部を卒業し、国家公務員総合職試験を順位一桁で合格した所謂「秀才」であった。
法務省は人気省庁であるため総合職試験の上位合格者が他省庁に比べて多いのは事実だが、一桁は珍しい。同期入省組からも、有紀は一目置かれていた。
そんな彼が、その日上司である所属課所の課長から
「ちょっと時間、いいかな」
と呼ばれたのが午前10時頃。そのまま課長室に行き、勧められるまま有紀は椅子に座った。
「すいません、お話というのは……」
「ああいや、そう硬くならないで。別に叱ろうってわけじゃないから」
しかしながら、課長に突然呼ばれるというのは緊張するなという方が無理な話である。
有紀は何か、最近の業務で自分に落ち度がなかったか考える。
「話なんだけどね、実は那矢くんに来月から隣の警察庁に行ってもらいたいということなんだけど……」
聞いた瞬間に、有紀の中でまるで時間が止まったような感覚がした。
警察庁。行ってもらいたい。その言葉だけが有紀の脳を駆け巡る。
「あの、それはどういう」
「上の方と警察庁との人材交流で今年は誰を出すかって話になって。うちが警察庁と人を出向させあっているのは知っているだろ」
「ええ、一応知ってますけど……」
「それで今年は那矢くんを出したらどうかって話になったんだよ。警察庁の担当法令の知識をつけるためには、やはり向こうの現場で仕事するのが一番いいだろうし」
省庁間の人材交流という名の出向は霞ヶ関の省庁勤務ではよくある話だ。互いの省庁が何をやっているか知ることを目的に、毎年多くの官僚たちが自分が入った省庁とは別のところで勤務することになる。
ただ、有紀のような入省二年目でいきなり出向とは、まず聞かない話である。
「それはその、自分は何か業務で不行き届きな面があったでしょうか……」
何とか有紀は言葉を紡ごうとする。
それを聞くと、上司である課長は驚いたように首を振った。
「いやいや、那矢くんの業務に対する姿勢は全く問題ないよ。むしろ君の能力を買っているが故にこの話が出たと思ってもらいたい」
「そう、ですか……」
かと言って、有紀には受け入れがたい話ではあった。
しかしこういう話が上司からされる時、それはもう決定事項なのだ。今有紀が抗弁したところで、この話が無しになるとは思えない。
むしろここで抗弁し続ける方が後々の悪印象になる可能性が高い。
「まあ、今後を考えたら警察庁の人間とパイプを持っておくことは悪いことではないよ。経験だと思って、行ってくれるかな」
もはや、有紀にできることは何もない。
こうして彼の警察庁への出向は決まったのである。
有紀が今前にしているのが、警視庁本部庁舎。
上から見ると人差し指だけを上げた手のように見える形が特徴的だ。その人差し指の真ん中にあたる部分からは空に向かって巨大なアンテナが伸びている。
警察庁出向になった有紀が警視庁の前にいるのは、彼の現在の扱いが『法務省から警察庁に出向し、更に警視庁に出向』となっているためだった。
警察庁は自身の捜査権を持たない。警察庁は各都道府県警察に対し捜査等の方針を決める立場にあるのみであり、実際に行動することはないのだ。『実地で学ぶ』という観点から、今回有紀は最終的に現場である警視庁への出向となっている。
有紀は歩みを進めて、警視庁の敷地へと入って行った。それを見た正面玄関に詰める警備の警官がゆっくりと有紀の方へとやって来る。
「法務省から出向のものです。これを」
すかさず有紀は事前に受領していたIDを提示した。警官は見るなり軽く頭を下げる。
そのまま警視庁本部庁舎内へ。
多くのスーツ姿の男女が忙しなさそうに移動していた。何人かは警察の特徴的な青い制服を着ている。周囲を見渡す有紀の姿は明らかに浮いているが、そのことを誰も気にも留めない。
有紀は改めて渡されていた自身のIDを見返す。そこに記載された文字は
『警視庁特別職員 警備部異常存在対策2課』
エレベーター前までやってきた有紀は、案内図を確認する。
IDに書かれてものと同じ部署名を探すと3階フロアに同じ名前のものを見つけた。
上昇、のボタンを軽く押して有紀はエレベーターの到着を待つ。
「皆忙しそうだな……」
法務省とは全く雰囲気が異なる。それもそのはず、警視庁は官公庁ではなく首都警察の本部なのだ。勤務しているのも官僚ではなく警察官である。
有紀のいた法務省とは違う空気が流れているのは、当然のことだった。
エレベーターが到着。後ろに待っていた警察官達と共に乗り込み、有紀は3のボタンを押す。2階は誰にも押されなかったため、そのまま3階へとたどり着いた。
降りたところで、今度は3階のフロアマップを見つけた有紀は目的地を探す。
数々の部課所の名前がマップ内に点在している中から、目的の課所名を探すが中々見つからない。
おかしい。何度も見直しているが目的の課所名が全く見つからないのだ。1階のエレベーター前の案内には確かに3階と書いてあったはず。
有紀は困惑しながらも、必死にその課所名を探した。
「あれ、もしかして君……那矢くん?」
声をかけられたのは、まさにそんな時。
有紀が振り返るとそこには一人の男が立っていた。スーツ姿の、メガネをかけたやや猫背の男性だ。両手はズボンのポケットに入れており、先ほど1階で見た警察官たちとは少し雰囲気が異なる感じだ。
「あ、はい。那矢ですけど……」
有紀は少し警戒しながら答える。
それを聞くと、男は表情を崩した。
「やっぱり! 良かった良かった。フロアマップでうちの課の場所、探してたでしょ」
「そうです。ただ見つからなくて……うちの課?」
男の発したその言葉に、有紀は反応する。すると、男はスッと右手を差し出してきた。
「警備部異常存在対策2課、通称
男が口にしたのは、有紀が探していた課所名であり今日から有紀が働くことになる場所の名前だった。課長と名乗ったということは、この目の前の男が今後有紀の上司となる人物ということだろう。
有紀は自身も手を差し出して握手する。
「始めまして。今日付で法務省より出向になりました那矢です。よろしくお願いします」
「いやー、まさかと思ったけど偶然にも会えて良かった。そこのフロアマップに異対2課の名前ないでしょ」
「ええ、見つけられなくて……」
「昨年引っ越しがあってね。うちの課、異対2課は3階から4階に移動になったんだよ。でも1階のフロアマップがまだ変更されてなくて。申し訳ない」
通りで有紀が目を皿にして探しても見つからない訳だ。恐らく庁内の人間にとっては引っ越ししたことは周知の事実なので、1階のフロアマップの変更が間に合っていないのだろう。
「異対2課はこっちだ。行こう」
そう言って、上司であるこの男、真司は有紀に自分についてくるよう促す。
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