拾弐話「ナミダ」
朝目が覚めてゆっくりと起き上がる。
ゆっくりとした動きは癖の様なものでここ一年くらいは歩く速度もゆっくりになっている気がした。
毎朝の日課のように井戸水で顔を洗う。
そしてパッと天を見上げて今日の天気はどんなだろうと考える。
今日は異様なくらい暗い、どんよりとした曇り空だった。
朝から空は街の端、団子屋からすると反対側方面に来ていた。
先日から頼まれていた服屋の荷解きを手伝う為だ。
西洋の服を取り入れるなどでとにかく物量が多いという。
その理由もあって今日は空は一人ではなく白と一緒に来ていた。
「……思ってたより多いね。」
仕入れた服の量に白は面倒臭そうに腰に手を当てる。
反対に空は間隔を空けずに作業に取り掛かった。
「さっさとやろう。経験上最初に戸惑うと終わる時間が一時間変わる。」
毎日のように色んな人の手伝いをしている空にとっては慣れた光景なのだろう。
白も時折こうして手伝ってはいるがまだ慣れない。
白はブンブンと首を横に振って作業に入る。
作業しながら二人は仲睦まじく楽しげな会話をしていた。
「そういえば聞いた?佐一郎さんとこ子供産まれるんだって。」
「へー。五人目?賑やかだね。」
「あとあれ知ってる?最近また侍が動いてるんだって。」
「あの野盗達か。まぁなんかしてきたらどうにかするよ。」
「へへっ流石じゃん。」
「ああ。そういえば道代さんの甘味処で西洋菓子あるらしいな。昨日から。」
「え?ホント?今度行かなきゃ。」
二人はまるで恋人のように。まるで兄妹のように笑い合った。
碧に抱いた想いとはまた違った感情を白に抱き、白もまた空に特別な想いを持っていた。
だがしかし言葉にしたい訳では無い。
そもそも空はこの感情の名前を知らない。
この五年間、白から色々な感情を教わったがそれでもまだ体感していないものは教わっていない。
白も素直に教え難い感情であり、そもそも空本人もこの感情について気づくのはもう少し先の話だ。
ただ一つだけ。空がこのあと知る感情がある。
それは負の感情の一つ。【怒り】である。
客足が落ち着き雪は一息ついた。
中々混み合ったが白も空も今日は外出している為少し大変だった。
「ふぅ……。」
大きく息を吐いて雪はゆっくりと腰を下ろす。
ここ最近、二人は特に仲が良い様に感じる。
別にただ仲が良いというのはそれだけで良い事だ。
しかし年頃の娘を持つ母親としては二人は
それに二人が普通に生活しているのにそれを周りがアレコレ言って邪魔してしまうのも本意ではない。
いずれはもう少し成長した娘と
「オラァ!」
突然怒号の様な声と騒音で雪は勢い良く立ち上がる。
「へへへ。よー……団子屋。」
ニタニタと嗤う野盗の集団が森からゾロゾロと現れた。
雪は力強く睨む。
「これはどうも……今更刀なんか持ち出して何をしているのかしら?もう時代は変わったのよ?」
雪の言葉に野盗の頭らしき男がピクリと反応した。
「………終わってねぇと……あの方が言うんでなぁ……。」
「え?」
野盗は不気味に嗤った。
「きゃあああああ!」
鳴り響く悲鳴に空と白は反射的に振り向いた。
「え?なに?」
じっと目を凝らすと街の反対側で何処かから火が上がっている様に見えた。
「火事か?けど何かおかしい…。」
何か嫌な雰囲気を感じる。
この感覚はいわゆる【虫の知らせ】というものだった。
空は荷物をそのままに走り出す。
白も後を追うように走り出した。
街の反対側まで来ると轟々と音を立てて甘味処が燃えていた。
見たところ中には人はいなかったらしく店の前で店主の道代が頭を抱えて地に伏している。
「ぎゃはははは!」
腹の立つ嗤い声が街に響く。
「俺達侍はまだ終わってねぇ!今日ここより侍は……武士は復活を果たす!かの西郷隆盛の意志を継ぐのだぁ!」
何処か狂信的な風の野盗の男達がブンブンと刀を振り回していた。
空はすぐさま一番手前の男の腕を掴み倒れる勢いを利用して顎を蹴り飛ばした。
しかし直ぐに臨戦態勢を取る空とは裏腹に白は野盗の
こういう時、人は嫌な事ばかりを想像してしまう。
「なんで……そっちから降りてくるの…。」
野盗達は街の山側。即ち
そしてその視線の先でも当然火が上がっている。
「うそ……お母さん!」
白は一人団子屋へ走り出した。
「白!」
空は三人目に蹴りを入れたところで白の姿を追う。
二人は現実へと走り出した。
「お母さん!」
最早形など保たなくなった団子屋は轟々と音を立てて燃え盛る。
その店先に雪は倒れていた。
「お母さん!お母さん!」
白がポロポロと涙を流して雪を呼ぶ。
雪はふと瞳を開けた。
「は……く…?」
「お母さん!良かった!」
目を覚ました雪に白は少し安堵したが空の表情から不安は消えてなかった。
少し安堵してはいたが白も心の奥の不安は拭えていない。
雪を抱えている白には直接わかるのだ。
抱えている自分の手が雪の血で濡れていると。
振り絞る様な声で雪は白を見る。
「ごめんね……お父さんと……わた…したちの……お店……守れ……無かった…。」
白の目からはポロポロと涙が落ちていく。
雪はそれでも続ける。
「お父さんの……【夢】……だった…のに…。」
白はブンブンと首を横に振った。
「お父さんだって……店よりお母さんの方を心配するよ…!」
雪の夫。白の父親。名は
男ながら幼い頃より甘味が好きで周りからは「男のくせに。」「男なのに。」と罵られるも物ともしない強い心を持っていた。
そんな何者にも屈しない強い心に惹かれて雪と雲介は結ばれた。
そして二人は様々な罵倒を言われながら時間をかけて耐え忍んだ。
そして白が産まれた年、念願の団子屋を街の外れに建てた。
最初こそは「男の建てた甘味処」という印象で苦汁を舐めたが二人は我慢強く意志を貫いた。
そして時間はかかったが二人の団子屋は街の外からも客が来るほどの評判になった。
しかし努力と成果が時に本人を蝕んでしまう事がある。
白が二歳の誕生日を迎えた年、雲介は流行り病でこの世を去った。
雲介のいない店は閉じてしまおうかと考えた事もあった。
だがこの店には雲介の【夢】が詰まっており、雪にとっても【夢】の結晶だった。
雪は一人で店を続ける事を選んだ。
そして大きくなった白も【夢】を手伝うと言った。
二人はまた【夢】の為に前を向いたのだ。
空気を読まない火は轟々と音を立てる。
最早店の木材は火の威力を加速させる炭と化していた。
「雲介さん……謝りたいけど……貴方なら……「気にした方が負けだ。」って……笑うわね……。」
雪は振り絞る力で空と白を見た。
「空……この前話した事……覚えてる…?」
空はしゃがみ込み雪と目を合わせる。
「【何で人は生まれるのか】って話か?」
雪は頷く。
「あれね……ちょっとだけ分かったかも…。」
雪は優しく
「多分ね……人は……自分の人生を……走り抜く為に生まれてくるんだと……思うわ。」
「走り抜く為……。」
雪は弱々しく続ける。
「精一杯走って…生きて…ああ私頑張ったな…って思った時……分かるの……私は何の為に生まれたのか……。」
雪は優しく笑って白を見た。
「私は…白…貴女と出逢う為に……愛する為に生まれてきたんだって……。」
「お母さん……!」
もう首を動かす事すら難しい程に弱っていても雪は笑う。
「人間て…不器用ね。最後まで走らないと……立ち止まって周りを見渡す事も知らないなんてね……。」
雪はまた
「けど……もう少しゆっくり走ってみるのも……良いかもね……長い人生……色んな景色を目に焼きつけなさい…。」
精一杯の力で雪は白の涙を拭う。
「白……貴女に出逢えて……貴女を愛せて……私は本当に幸せでした。」
雪は最後の力を振り絞ってニッコリと笑った。
そしてただそこに横たわる人形のように、雪は動かなくなった。
「お母さん……?嫌!嫌だよ!お母さん!」
白は必死で雪を揺らす。
だが雪は応えない。
「いや………いやぁあ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!」
絶望を体現したような。悲痛そのもののような声が山へこだまする。
しかし同じようにこだまする火の音に飲まれるように一人の女性はその一生を終えた。
分かってしまった。
見た瞬間雪はもう助からないと。
染み付いているのだ。人を斬った経験が。人を殺した感触が。
あれだけ血を流したら助からないと。
理解をしてしまった自分が恨めしかった。
まだ自分は変われていないのかと。
だが考えてしまう。
この刀を抜いてしまおうかと。
もう随分使っていないが覚えている。
覚えてしまっている。
身体が人の斬り方を忘れてくれないのだ。
この感情は知っている。
碧を斬った時に感じたモノと似ている。
白に教わったことがある。
ああそうか。これがーー……。
「【怒り】か。」
空のいた場所には固く結ばれた筈の縄が一つ。
錆びついた刀が空気に触れる音が一つ。空を切った。
鬼が出た。と誰かが言った。
人間を絶命させられる箇所を熟知し、迷う事なく斬り裂ける。
あれを人と言ってはいけない。
あれが人であってはいけない。
その日。一つの街で鬼が出た。
血飛沫を上げて。涙を流して。
【怒り】と【悲しみ】は同時に存在できる感情なのだ。
だから人は叫ぶ。
「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!」
こんな事、【夢】であればいいのにと。
あれから数日が経った。
だが街には団子の甘い香りはもう漂わない。
もう一つ変わった事もある。
あどけない声で笑う二人の街の顔がいなくなってしまった事だ。
母を埋葬した後、誰にも何も言わずに旅の支度をした。
母のいない街にも漂わない団子の甘い香りにも未練が無かったからだろうか。
街を出る時、空は一言だけ言ったという。
「【夢】を追ってみようと思うんだ。ゆっくりと。そうすれば俺も、雪みたいに精一杯走りきれるかなと思って。」
彼はそれだけ言って街を出た。
その横には白もいた。
彼女は何も言わなかったが彼女が街を出ることも誰も何も言わなかった。
何せ今彼女の家族はもう一人しかいないのだ。
空と白。二人は決して振り返ることなく歩いていった。
その背中に街の人はただ願う。
「二人に幸あれ。」と。
ふと見上げてみた空は使い古されたキャンパスのような……白い空だった。
章末
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