陸話「空の色」

 次の日も空はいつもの場所に向かった。

しかし一日待ってもそこには人一人来なかった。

次の日もその次の日も空はいつもの場所に座る。

しかし誰も来ない。

どれだけ待っても碧は来なかった。

それでも空は待った。

だが碧はどれだけ待っても来ることはない。

青治郎がそれを許さないからだ。

 本来、青治郎は非常に人間の出来た男だ。

親がどんな人間であってもその子供とは真摯に向き合う。

何より自分の娘である碧の意志には尊重するタイプだ。

だが相手が十三の息子となると話が違った。

青治郎と十三は幼馴染だった。


 幼い頃から剣の道を高め合い共に勉学に励んだ。

だが二人には決定的に違う部分があった。

それは未来への考え方だ。

青治郎は幕末の終わりを危惧し、新しい武力ではない社会に目を向けた。

だが十三は侍の時代は終わらないと言い武力社会を望んだ。

そして十三は町を飛び出して戦に参加した。

帰ってきた時には歩くのもままならない程の大怪我をしていて、結局右足に後遺症が残ってしまった。

その時の口論は今も二人は忘れていない。

 「だから言った筈だ!これからの時代武力では何も得られん!」

 「黙れ!戦無くして侍の価値は無い!人を斬り斬られてこそ侍は生きる価値を持つのだ!」

 「そう言って帰ってきたお前はまともに歩くのすら困難になった!一体何を得たというのだ!」

 「黙れ!」

 「十三……戦を求め血に狂うお前では何も成す事など出来ん…!」

 「ぬかせ!俺は成すぞ!大きな事を!例え右足をまともに使えんでも!舐めるな青治郎!」

 くだらない喧嘩だった。

しかしそれでも十三は引けなくなってしまったのだ。

だがそんな二人にはもう一人幼馴染がいた。

「私が十三を見ておくから。」

彼女の名前はソラ。後の十三の妻であり、空の母親だ。

十三は青治郎と口を利かなくなったがそれでもギリギリで人の道を外れる事は無かった。

天が十三を留めていたからだ。

そんな二人にも幸せな事が訪れた。

天が妊娠したのだ。

天の説得もあり十三は子供が産まれた後なら青治郎ともう一度話してみると約束した。

全てがゆっくりと良い方向へ向かっていた。

だがそう上手く行かない事の方が多いものだ。

そして十三と天の人生も上手くは行かなかった。

明治元年。後の空が産まれる日。

天は死んだ。

刀を帯刀した酔っ払いに斬り殺されたのだ。

十三はすぐに斬りかかったが殺しきれなかった。

足が悪い事と天の影響でもう随分と刀を握っていなかったからだ。

子供には傷一つついていなかった所は母の力と言えるかも知れない。

そして夕刻、天を斬った男は町奉行の青治郎の手で斬られた。

その犯人は青治郎の道場の門下生だったからだ。

この時の十三の心境は当然穏やかではない。

十三にしかその心内は分からないが、一つ分かるのはもう十三を止めるは無くなってしまったという事だ。

十三は全てに絶望し怒った。

仇を殺しきれなかった自分の弱さにも、天を殺した親友の門下生にも、そしてその始末をつけたのが話さなくなった親友だという事実にも。

そしてその日、産まれたばかりの息子、空に刀が手渡された。

精一杯の【憎しみ】を握って。


 その日も空は十三に指示されるがままに外へ出た。

外へ出る時一匹の黒猫が横切り、夜なのに烏が鳴いていた。

しかしこの【不吉の予兆】を空は知らない。

教わっていればもしかしたらこの後起こる事も起きずに済んだかも知れない。


 「ぐわぁ!」

闇夜に紛れる空は類稀な速さで次々と人を斬っていく。

この日は雲が多く月も出ておらず自分も相手も誰だか分からない。

しかし空にとってはこの室内の自分以外は斬るべき相手だ。

空は一切迷わず斬っていく。

「ぐあ!」

男を斬った。背が高くガタイがいい。

「きゃあ!」

女を斬った。そこそこ年齢がいってるだろう。

「ぐがあ!」

太った男を斬った。斬り応えが違う。

「いや!」

女を斬った。多分子供だ。

「ぐっ!」

「うわ!」

斬って斬って斬り続けた。

斬り続けて行き着く先。

空は一番奥の部屋に辿り着いた。

「何者だ!」

空は答えない。答えるなと教わったから。

 幼く軽い体は跳躍し壁を蹴って反対側の壁際に四つん這いで降り立つ。

低い態勢で回転するように足首を斬りつけた。

斬った勢いを殺さずに回転したまま横に飛びまた壁を蹴って反対側に飛んだ。

そしてその着地の勢いを使って空は男を袈裟斬りで斬りつけた。

その時、一部の雲が晴れて部屋が照らされた。

斬り終えた後に。

「き……みは…!」

月明かりに照らされた男は空も顔の知る男だった。

「碧の……ととさま?」

血を流し倒れ込んだ男の名は青治郎。

この町で一番大きな屋敷に住むこの町の町奉行。

倒れた青治郎を見て空の記憶が少し前を思い出す。

「さっき……子供の……女を……。」

頭はまだ答えを出したがならかったが身体は直ぐに足を動かした。

息を切らして空は襖を開ける。

瞬間、また雲が晴れた。

まるで待っていたかのようなタイミングで月明かりが部屋を明るく照らした。

「……え?」

視界が揺れる。

脳が理解を拒否した。

だが健康なその目が事実を肯定してしまう。

「あ……あお…い…?」

一太刀。その一太刀が分岐点だった。

ここが分岐点だと分かれば誰も苦労しないのに。

しかしそうはいかない。分からないから人は【後悔】するのだ。

 見知った少女は地に伏して倒れていた。

少女の名は碧。空に【名前】を与え【言葉】を教えた。

青治郎の実の娘であり空の初めての【友達】。

その生涯は短くも唯一の・・・【友達】の手によって、今宵終わりを迎えた。

 「あ…………あ゛あ゛あ゛………あ゛あ゛あ゛!」

雲の晴れた月夜に声が突き抜ける。

「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!」

空は初めて【叫んだ】。

自らへの【怒り】を込めて。

「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!」

空は初めて【泣いた】。

失ったモノの大きさとその偉大さに。

初めての【悲しみ】を持って。

「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!」

空の声はそれでも月夜の【空】へと飲まれていった。


 ゆっくりと扉が開く。

この家の扉を開けるものなど一人しかいない。

十三は背を向けたまましたり顔で口を開く。

「やったか……!ははは…後悔しても遅いんだよ……青治郎!」

乾いた声で十三は嗤う。

だがその背中を見る空は笑わない。

「………なんで殺した。」

空は初めて十三に物を聞いた。

しかしそれが初めてだと知らぬように十三は答える。

「奴が俺を馬鹿にしたからだ。奴は侍を、武士を侮ったから死んだのだ。」

目前で屈むように座るその背中は空にとっては真っ黒な獣に見えた。

「なんで碧まで殺した。」

空の問いに十三はあっけらかんと答える。

「あおい……?ああ…青治郎の娘か。お前はあいつをよく知ってるのか。まぁ蛙の子は蛙。斬られて然るべきだ。」

空の目は淀んでいた。

だがそれ以上に十三は歪んでいた。

「それに斬り殺したのはお前だ。他人のみに罪を擦り付けるな。俺の刀よ。」

 全てが分かった気がした。

そうだ。この男は何も与えなかった。

空に全てをくれたのは碧だけだった。

そしてその碧を全てを奪ったのは自分だ。

だが、自分だけ・・ではない。

 空はゆっくりと刀を振り上げた。

「そうだ……斬ったのは俺だ。お前の指示で俺が斬ったんだよ……。」

月夜の光が刀を振り上げた空の影を十三の目に映す。

「な、何する気だ!俺はお前の父親だぞ!」

振り向いた十三は怯えた様子で両手で顔を庇う。

その姿は最早獣でも何でもない。

まるで道化だ。

怒りに溺れた哀れな道化。

そして空もまた……意志を持たぬ道化だったのだ。

 「そうだよ……父親だ……だから俺も蛙なんだよ……。」

神の気遣いか。振り下ろしたその瞬間は雲が月を覆い隠した。

一人の男の倒れる音を残して。


 この日、何も持たずに育った空は初めて手に入れたモノを失った。

それも自らの手で手放してしまった。

手に入れたのは初めての【自由】と【意志】。

しかしその引き換えの重さは空にも分かる程に重い。

しかし【自死】する事は無かった。

それは空にとって幸運か不運かはまだ分からないが空は【自死】を知らなかった。

【無知】が空に【名前】と【言葉】を与え、【無知】が空から【友達】を奪った。

そしてまたその【無知】が今度は空の命を生き永らえさせた。

しかし今空の目に映る【色】は碧と共に見た世界と同じではないだろう。

空の世界はまたしても【色】を失ったのだ。

だがこれで空の物語が終わる訳では無い。

空にはまだ出会いがある。

そこで空がまた【色】を手に入れるかは分からない。

空がまた新しい【 】を覚えるのかも、まだ分からないのだ。


 空はふらふらと歩きながら上を見た。

「…………何色だっけ……。」

空は歩いた。

ただひたすら真っ直ぐ。どこかにぶつかるその時まで。




         章末

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