肆話「碧以外の人」
彼に名がついてから数週間。
空と碧はあれからも二人で言葉を覚えていた。
「あれは?」
「犬。」
「じゃああっちは?」
「【杉の木】。もうこの町の事はわかるよ。」
空は言葉をもう普通に話せる程になっていた。
町の中の事しか教わっていないがそれは碧も同じ。
この町を出たことない二人にとっては小さなこここそが【世界】なのだ。
「碧。ここにいたのか。」
背の高い馬の上から男が二人に話しかける。
碧の事を知ったふうのこの男は度々ここにいる二人に話しかけてくる。
理由は明白だ。
「
男の名は【
そしてこの町を仕切っている人間であり、都会で言うところの【町奉行】というやつだ。
青治郎は丁寧に馬から下りて駆け寄ってきた碧を抱き寄せる。
「今日も勉強か?精が出るな。」
碧は嬉しそうに父の問いに頷いた。
しかし空は青治郎の方を見ない。
青治郎は空にも視線をやるが空はその視線に答えなかった。
空の態度に碧は眉をハの字にしてため息をついた。
実は空のこの態度は青治郎に限ったものではなかった。
毎日のように子供が二人で人の行き交う場所で楽しげに話していれば否が応でも目立つ。
何より碧は父が知れてる事もあり碧本人もそこそこ顔が知られていた。
それならば当然話しかける人間も出てくる。
別に何かをしようとかではなく普通にあどけない子供二人を微笑ましく思う人間達だっているのだ。
しかしそういった人間達に空は一切反応を示さなかった。
怪訝な態度を取るのとは違う。
ある種無視をするのとも違う。
まるで碧以外の存在を認識していないように対応するのだ。
そしてそれは碧の父親、青治郎にでさえその反応を示した。
青治郎はフゥと息を吐き碧の頭を撫でて地に降ろした。
「私も彼と話してみたいのだがね……また今度の機会にしてみるよ。遅くならない様にな。」
優しく碧に笑いかけて青治郎はまた馬に跨って行ってしまった。
碧はトテトテと空に近づきムッと顔を覗いた。
「また父様のこと無視した。」
少し不機嫌な碧に空はまるで違和感などないかのように真っ直ぐと答える。
「なんで碧以外と話さなきゃ駄目なんだ?」
自身の特殊性に一切の違和感を持たない目前の少年に碧も少し不思議に思った。
しかしこの時代に碧の疑問の答えを示すモノはない。
空の心理状態。これは現代では〈愛着障害〉と呼ばれるものに分類される。
産まれて間もない頃に充分な愛情などを受けなかったり酷いネグレクトなどをされた人間が稀になるという。
愛着障害といっても種類もいくつかあるが彼はその中でも〈反応性愛着障害〉というものであると推測される。
簡単に言うと"人に対して過度に警戒する"というものだ。
周知の通り空は父親から刀の扱い方以外は教わっていない。
言葉を教わったのもひと月前碧に出会ったからであり、空にはそもそも【教育】というものが与えられていなかったのだ。
もしも空に改善の一縷の希望があるとすれば二つ。
彼が碧を
それと
現代社会において無知でいることは逆に難しい。
しかしこの明治初期という時代においては無知でいることは充分に可能な事なのだ。
小さな町。少ない人口。閉鎖された家。
空は名前すら持たずに育った。
即ち空の心には未だ大きな余白がある。
そこが空が人として大きく成長する事ができるかの最大のポイントなのだ。
碧はピシッと空の鼻に人差し指を当てた。
「いい?空。相手が私の父様でなくともちゃんと話さなきゃだめなのよ。」
空は首を傾げる。
「なぜだ?」
碧はそのままの体勢で続けた。
「それが【人と関わる】という事だからよ。」
「【人と関わる】…?」
空の疑問の様な物言いに碧は頷く。
「そう。私達はね。一人では生きていけないの。私を父様が育ててくれてるように。空に私が【言葉】を教えたように。私達はいつだって誰かに何かをしてもらって生きているの。」
空は碧の言葉をじっと聞き続けた。
「だから話しかけてくれた人にはちゃんと答える。笑いかけてくれた人にはちゃんと笑い返すものなの。いい?」
空は素直に頷いた。
「わかった。碧が言うならそうする。」
碧はニッコリと笑う。
「うん。まぁ父様の受け売り何だけどね!」
少し気恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうに碧は空に笑いかけた。
空も碧に笑い返した。
もう違和感など全くない【空の笑顔】で笑った。
この日また『空』は碧から教わった。
【人と関わる】という事。
そして実は空にとって碧の言葉に頷いたのは大きな分岐点でもあった。
二つ目の分岐点。
空は碧の言葉を受け入れる事を選んだ。
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