溺:彼の語ることには

「この辺で止めといた方がいいと思うけどね俺はさ、楽しいけど」


 狭いアパートの一室。つまみや缶が散乱するテーブルを挟んで、向かい合ったまま先輩は新しい缶を開けた。


「楽しいですか」

「そりゃあね。酒だってそういうもんじゃん。人と飲む酒なんてあれよ、極論どこまで一緒になってひどい目に付き合ってくれるかっていう話でしょ」

「ひどい目に遭うんですか」

「遭うね。だって毒だろ、酒。体にいいわけがないじゃん。だから楽しいんだけど」


 先輩は缶を傾け、逸らされた喉が上下する。

 俺は手にした缶のタブに指をかけたまま、それを見つめている。指先がやけに痺れていて、缶を開けることができない。


「がっぱがっぱ飲んで、ようやっとちょっと楽しくなって、でも酔いが醒めたら二日酔いだろ。頭痛吐き気悪寒目眩、なんであんなことしたんだって後悔する。俺一人で飲まないの、それがしんどいからだもんな。一人で辛いのってあれよ、地獄」

「他の人が二日酔いでも先輩の調子には関係ないでしょう」

「体はね。気分の問題だよ、稲谷。俺と同じ目に遭ってくれてるやつがいるってのはな、気分がいい」


 空になった缶を潰しながら先輩は口の端を吊り上げた。


「つまりあれよ、何ごとも限度と節度が大事、って話。自分のできる範囲を鑑みておかないと、引き時も分かんないもんだからさあ。辛いよ手遅れ」

「辛いんですか」

「真っ最中はそんなにね。あれよ、一番きっついの、気づいた瞬間だよね。逃げるには遅すぎるし終わるには早すぎる。映画のタイトルみたいだな。俺あれ結構好きだったよ、主演のやつが落語ヤクザやってるやつも好きだったけど──」

「先輩、あの」


 逸れていく話に歯止めをかけようと声を上げれば、先輩は一度頷いてみせた。


「そうだね。結局決めるのはお前なわけよ。選ぶのもね。俺としてはお前がちゃんと楽しいんなら構わないけどね、その辺はさ。分かってるかどうか知らないけど、結構瀬戸際だからさお前」

「分かってます。結構頑張ってますよ、俺」

「そうだな。でもこの程度だ。それくらいやってくれてちょっと楽しいくらいなんだよ俺は。悪いけど」

「でしょうね。でも、楽しいですよ、とても。それに」

「何だよ」

「──こうやって思い出せるんなら、覚えていられるなら、俺は」


 一度の瞬きで視界は暗く閉ざされて、先輩の姿は消え失せる。

 開いた視界には白い天井。カーテンを透って夏の日射しが裂け目のように伸びている。

 部屋の隅、既にインテリアと化しているテレビの上に置かれた時計に目をやれば、針は午後の一時を示していた。寝ているうちに右腕を下敷きにでもしていたのか、手首から先が痺れている。

 その指先にじりじりと血の通う感覚が広がるとともに、自分が夢を見ていたのだと理解する。


 安いつまみとチューハイの缶、薄汚れた天井と黄ばんだ壁紙、缶を片手にくだを巻く櫛田先輩。

 あの部屋で──先輩が帰らなかった部屋で、俺はその戻らなかった人と、いつかのようにだらだらとどうしようもない話をしていた。


 ただの記憶だ。怪奇現象でもなんでもない。知りえないものを見たわけでもなく、あのときに見たものを未練がましく夢に見ただけのことだ。

 櫛田先輩と話したことなど、それこそ覚えていないくらいにいくらでもある。サークル室で、大学の食堂で、サークルの益体もない企画で、飲みの席で。

 大学生活のおよそ意味もなくどうしようもない、実のあるものなど何一つ存在しない空白のような余暇の中にあの人はいた。

 くだらない話しかしなかった。実のある話など一度だって出てこなかった。精々が単位の取り易い授業や安くて量が飲める居酒屋を教えてくれたくらいだ。それ以外だって出所の怪しい与太話や古本屋でしか売ってないようなトンチキな本の話かベースがやたらとうるさいとうに解散したバンドの話など、覚えていても何の意味もないような代物ばかりだ。

 まともな人生において役に立つようなことは、ひとつだって教えてくれなかった。


 そんなことを今更思い出して何になるのだと自問する。自身の楽しみの動機にしておいて、そんなことを思い出せる立場でもない。一応僅かながらあったはずの罪悪感に、自分で言い訳を重ねただけのことだ。

 夢枕に立ってもらえる理由が俺にあるわけがない。だから、ただの夢でしかない。


 触れた額は濡れていて、ひどく汗を掻いているのが分かった。

 土曜の午後──特に外出の予定もないとはいえ、シャワーぐらいは浴びた方が良いかもしれない。二日酔いのときもシャワーを浴びて物を食えば治ると教えてくれたのは櫛田先輩だったかと、また過った面影を振り払うように首を数度振る。あのときは珍しく役に立つことを言っているようだったので、ならば吐き気がするときはどうすればいいのかと聞いたらもっと飲めと答えてきたのを思い出す。あの人は本当にろくなことを教えてくれなかった。


 軽薄な着信音が鳴った。

 昨晩の記憶を頼りに枕元を探せば、壁際で充電のコードを差し込まれたまま画面を光らせているスマホを見つける。

 着信画面にはこの数か月でもはや見慣れた名前があった。


『先輩。すぐ出てくれてありがとうございます。よかった』

「川野くんか。どうしたの」

『いい感じの話があるんですけど、今日の夜とかどうですか。急ですけど』

「今晩? 本当に急だな。いいけど、誰」

『僕です』


 窓に射す日が僅かに翳った。

 刃物のような光が走ったのは、鳥が窓を横切りでもしたのだろう。

 川野の声はやけに朗らかなのに感情が読み取れない。電話越しだからだろうと自身を納得させながら、俺は向こうの言葉を待った。


『もうそろそろ、前期も終わるじゃないですか。僕こないだ試験あるやつ全部済んだんで、夏休みなんですよね』

「それはお疲れ様。俺もそうだよ」

『ですよね。だから、あれですよ。いつもの怪談蒐集に慰労会も兼ねて、みたいな感じで。俺未成年なんで酒飲めませんから、ファミレスかどっかですけど』

「──いいよ。じゃあほら、駅前に集合しようか」

「場所指定してくるの珍しいですね。なんか推しの店とかあるんですか」

「近いだろ」


 言い切ってから唇を噛む。その痺れが消えないうちに、俺は言葉を続ける。


「ホワイトマンション。駅から近いから、都合がいいだろ?」


 僅かな沈黙に、風のようなノイズが混ざった。

 そのまま途切れた会話を繋げるように、ひどく朗らかな声が返ってきた。


『やだなあ。先輩、そういうことする人でしたっけ。ネタバレっていうか先回りっていうか、びっくりするじゃないですか』


 誰から聞いたんです、とは言わなかった。どうせ分かっているのだろう。

 杉宮先輩といい川野といい、俺以外の連中はよく現状を把握しているようだった。


『最初から思ってはいたんですよ。せっかく夏ですし。肝試し、定番でしょう。夏の夜ですから』

「前にも言ったけどな、俺は怪談を集めたいんであって、体験したい訳じゃない」

『今更でしょう』


 俺の悪あがきじみた言葉を一蹴して川野は続けた。


『先輩、それ通んないのは分かってるでしょう。これだけ聞いて集めてきたんだ、もう先輩も立派な当事者ですよ、ここまで来たら』

「──そう思うか、やっぱり」

『勿論。保証しますよ』


 川野の声と、先輩の言葉が重なる。

 瀬戸際だと櫛田先輩は言った。杉宮先輩がわざわざ示してくれた引き際は、とうに見誤った。

 何を振り返ろうとも手遅れなのだということだけは、たった今川野が保証してくれた。


『ひと夏の思い出ですよ。とっておきの話なら、ちゃんとした場所で話したいじゃないですか』


 シチュエーションにこだわる方なんですよと言うその声の端に、ひどく嬉し気な笑みが滲んでいるであろうことが電話越しにもよく分かった。


 俺は長い溜息だけを返す。

 思ったより静かな心臓の音を三つ数えてから、


「分かった。じゃあ、今夜」

『ありがとうございます、稲谷先輩』


 楽しみにしていてくださいと告げる川野の声は相変わらず穏やかだった。

 手遅れの病人を宥める医者もこんな口調になのだろうなと、そんなどうしようもないことを思った。

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