屋敷の幽霊の話(木内先輩・大学四年・女性:外)

 古い家なの。玄関にも鍵なんかなくって、開けっ放しの引き戸の横に心張棒が立てかけてある。土間? みたいなところには靴がごろごろ転がってて、上がり框の向こうに台所がある。台所は……フローリング、なんて良いもんじゃないの。シートを貼り付けたみたいな偽の木の床で、歩くと妙にべたべたする。くすんだ緑色の冷蔵庫には、沢山の磁石と変色した『危険な食べ合わせに注意』ってポスターが貼ってある。シンクには古い給湯器が据え付けてあって、曇りガラスの前に洗剤が並んでて──。


 ごめんなさい。不安になるよね。大丈夫、君のしてほしい話は分かってるよ。杉宮くんとか田津から聞いてるからね。古民家カフェレポとかじゃないよ。古民家カフェってこういうのじゃないかな、そもそも。ああいうとこ、量の割に好きじゃない味だからあんまり行かなくて、よく知らないな。いけないね、印象だけで知った風なこと言うのは。


 夢の家なの。

 いつもね、どうしようもないときに見る夢。スイミングスクールで頑張ったのに進級できなかったときとか、お気に入りの上着の袖引っ掛けて裂いちゃったときとか、鍋引っ繰り返してひどい火傷したときとか。そういう自分がどうやっても悪くて、人のせいにも何にもできないことをしでかしたときにね、見るの。


 いつも同じ家。玄関の土間が白っぽい砂で、転がってる靴の中に黒のゴム長靴があって、障子ガラスの一番右端にひびが入ってる。


 何をするでもないし、何もできない。ただそういうときに見る夢で、私は家の中を歩き回ってる。割ったり壊したり火を点けたり、何もできずにね。


 台所を抜けて、居間に行くこともある。黒字に緑や赤の鱗みたいな……繋がった水玉みたいな柄の大机があってね、端の方に落花生の大入り袋とビール瓶が置いてある。

 古いおっきいテレビと、黒電話。それから玄関と繋がる大戸の側に据え付けのストーブがあるの。そこから少し離れた壁際にソファが置いてあって、その後ろの黒木戸が開いてる。

 黒木戸の後ろに廊下があってね、奥に向かって部屋が三つあるの。一つはきっとお爺ちゃんの部屋、もう一つが物置。最後の一つが、子供部屋、なんだと思う。何もない部屋の中に、緑色のドラム缶──私の膝より少し上ぐらいの高さなんだけど──みたいなやつが置いてある。蓋代わりに被せてある新聞紙の束をどけると、玩具がぎっしり入ってる。他は何もない。窓が一つ、高いところについてる。部屋はいつも明るい。カーテン、掛かってないから。


 誰もいない。玄関にも台所にも、居間にも、どこにも誰もいない。人の痕跡、っていうか生活感みたいなものだけはあるのに、肝心の人間はどこにもいない。少なくとも、私は一度も会ったことない。見る歩き回るようになってもう十年以上になるのにね。子供部屋にあった玩具の怪獣も、ピアノの上に飾ってあった賞状の名前も、仏壇の遺影の顔まで覚えてる。

 でも、家の中には何もいない。干されたままの洗濯物も、コンロの上に置かれたホーロー鍋も、蓋が開いたままのピアノも、ただあるだけ。いつも同じような明るさで、薄く埃が着いたレースのカーテンに日が透けてる。


 でね、先に種明かしをするんだけど、お爺ちゃんの家なんだって。


 私のお爺ちゃん、寒いところに住んでてね。おまけに田舎だったから、子供は全員よそに出たの。出てった子供の一人が私のお父さん。

 別にね、喧嘩別れとかそういうんじゃなかったから、私が生まれてからは里帰りもよくしてた。毎年夏になると、夜の高速かっ飛ばしてお爺ちゃんの家まで帰省してたよ。昼間は車が混むから嫌だって、真夜中に知らない洋楽掛けて、お父さん車走らせてた。私も母さんも後部座席で眠ってて、時々サービスエリアで起こされてね。夏休みっても観光客なんか行かないような土地だから、夜中なんか誰もいないの。明かりだけ点いてて、売店もレストランも何も開いてなくって、駐車場のライトに蛾がひらひら寄り集まってる。


 稲谷くん、なんだただの記憶か、って思ってるでしょ。帰省したときに見た家を、夢で思い出してるだけのことを長々と、って。


 でもね、私が記憶してるはずがないの。

 私が馬鹿だからってわけじゃなくて……私が生まれた頃には、その家は無くなってたから。

 お父さんが高校生の頃にね、建て替えてるの。最初に建ってた家を取り壊して、新しい家を建ててる。お父さんが家を出たのは大学からで、私が生まれたのもその後。

 分かるでしょう。

 私が現実で知ってるお爺ちゃんの家は、建て直した後だけなの。


 夢に見てるのが古いお爺ちゃんの家だっていうのは、父さんに教えてもらった。

 ただの雑談で、たまにこういう夢を見るんだって話をしたの。そしたら冷蔵庫──食べ合わせのポスターが貼りついてたやつね──で引っ掛かったみたいで、珍しくちゃんと話を聞いてくれた。アルバムまで出してきてくれてね。

 面白かったな。夢でみた風景がそのままあるから……全部人がいたのも新鮮だった。そんなに髪が白くなかったころのお爺ちゃんに、私と同じくらいの伯父さんとかね。冷蔵庫もちゃんと撮ってあった。お婆ちゃんっぽい人がご飯の支度をしてるところを撮った写真もあって、件の冷蔵庫とその傍の台所に立ってる背中が写ってた。


 そうね。

 解決はね、してない。私が見ている家は確かにあったけれども、私がどうしてその家を知っているのかは分からなかった。


 アルバムをどこかで見たことがあるのかもしれないけど、写ってないものも見てるの。玄関の心張棒、とかね。玄関を外側から撮った写真はあったけど、土間は部屋側の方を映してたから、棒が写り込んでる写真は見つけられなかった。お父さん、恥ずかしがって教えてくれなかったから。平成にもなって鍵が心張棒の家があるもんか、って。往生際が悪いよね。実際住んでたのに。


 それにね、居間とか──三つの部屋の写真はね、ないの。


 二つまではね、父さんも覚えてた。それは爺ちゃんの部屋だろうって、納得してた。物置もそう。古い家だったから、外に蔵もあったんだけど……そっちには、洗濯機と冷蔵庫がいっぱい入ってたから、あんまり物は入れられなかったんだって。だから溢れた服とか本とか、そういうのがあったんじゃないかって言ってた。本当に大事なものは二階に置いてたらしいけど、大事だからお父さんも入れてもらえなかったって。台所から黒木の板階段があって、そこにたまにお爺ちゃんが上ってたらしいけどね。勿論写真も撮ってないし、新しい家にはなかったから、私は夢でしか見てない。見てはいるよ。上ろうとしたことはね、まだない。

 けど、子供部屋は知らなかった。父さんの部屋も伯父さんの部屋も、そんなところにはなかった。そもそも、そんな玩具に見覚えがないって、父さん首を傾げてた。父さんはそういうのを欲しがる子じゃなかったし、きっと伯父さんも一緒だって言ってた。


 で、これでおしまい。

 だってお爺ちゃん、私が大学に入ったときに死んじゃったし。伯父さんに聞いたらもうちょっと何か知ってるかもしれないけど、父さんが会いたがらないから駄目。嫌いなんだって、伯父さんのこと。父さん、身内のこと薄っすらみんな嫌いだから。嫌なんだって血が繋がってるのが。実の娘に言うことじゃない気もするけど、そういう人だから。


 うん。

 ──そうだね。稲谷くんの呼び方だとしっくりくるね。幽霊屋敷じゃないもの。幽霊屋敷っていうか、幽霊の屋敷だよね。


 だって幽霊、いないんだもの。

 そもそもが夢の話、っていうのをさておいても──もう存在しない家を勝手に私が夢に見て、どうしてか入り込んでうろついてるだけ。屋敷むこうからすれば、私の方がおばけだよね。知らないやつがいつのまにか自分の中をうろうろしてるんだから、そっちの方がよっぽど怖いと思うよ。


 怖い夢、妙な夢ではあるよね。多分真っ当じゃないのは分かってる。どこかが食い違って、知るはずのないものを見ているわけだから。

 でもね、私、この夢好きなの。


 安心するんだ。

 目覚めないで、外になんか出ずにここに留まれたら、きっともう何も怖くなくなるっていう……確信? みたいなものがね、ある。

 そもそも家ってそういうものでしょう? 外にある怖いもの、危ないものから身を護るためのもの。雨風が凌げて、怖いものも痛いものも全部防いでくれる。


 そうね、幽霊の屋敷だったら──家自体が怖いものかもしれないね。

 でも、どうでもいいと思う。家だって人がいなければただの箱よ。箱の中に、そこに人が入って初めて家として完成する。ううん、人じゃなくてもいいかもしれない。何かがそこにありさえすれば、訪れるものや住むものがいるなら、そこは家だよ。

 じゃあ、どっちでもいい話じゃない? 家の中にいる間、私は家の一部だもの。類は友を、っていうか。おばけがおばけを怖がるのも、おかしな話でしょう。少なくとも、私は怖くないもの。

 あの家に住めるのなら、幽霊になってもいいかもしれないな。そんなことをね、思ったりはしてる。どうすればいいのか、皆目見当がつかないけどね。

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