場外:協力者間交流
「何考えてんのお前」
「趣味ですよ。杉宮先輩も好きだって聞いてますよ、怖い話」
「普通くらいにはな。あるだろ常識の範囲ってやつが」
「俺も一緒ですよ。普通です。ちょっと友だちとか知り合いは多いんで、そういう話を集めやすいってのはありますけど」
先輩も顔広いですもんねと笑う川野に、杉宮は答えもせずカップの蓋を外す。肌寒いほどに効いている冷房のせいか、手元でゆらりと湯気が揺れた。
若者向けのファストフード店。普段ならひと気のない二階席も、学校帰りの学生や仕事帰りらしい大人でそれなりに混雑している。
窓の外に広がる夜はうっすらと眩しい。とうに沈んだ陽の残滓が薄赤くガラスに滲んでいる。
杉宮と川野。同じサークルの上級生と下級生であり、そして稲谷の怪談蒐集の協力者だ。
手を出したのは杉宮の方だった。
一度話がてら飯行かねえかという表現と含みによっては剣呑になりかねない誘いは、稲谷の仲介を通して諸々を緩和及び中和されて送れられたようで、あっさりと了解の旨が返ってきた。
待ち合わせた駅前で雑な挨拶を経てから、五秒と迷わずに目の前に見えていた店舗に入った。一応先輩らしく杉宮が財布を出し各々が名目のための軽食を互い購入してから二階へと上がり窓際の席を確保し向かい合う。
面白味もなにもない、平均的で一般的な夏の夜。無個性なBGMと客のざわめきが延々と流れるファストフード店の二階席で、協力者同士の交流会は始まった。
かたや大学生らしい主張も個性もない平均的なシャツ。一方はいつも通りのアロハシャツ──紫地に虎が描かれている──という組み合わせだが、そのテーブルに注意を払う人間は誰もいない。
烏龍茶に放り込まれている細かな氷を噛み砕いてから、川野は言った。
「怪談集め出す人がいるとは思ってなかったんですよ、大学で……じゃあどうせなら、先輩のお役にも立ちたいなってだけで。せっかく手持ちがあるんだから、役立てた方がほら、徳が積めるでしょう」
「年寄りみたいなこと言うな、川野くん」
「年寄りと暮らしてたんですよ。田舎からこっち来たんです」
「ああ、田舎にいたってのはサークルで……新入生自己紹介のときに言ってたな。宮沢から聞いたけどよ、その前にもともとここ住んでたんだって?」
「……そうですよ」
怯むような逡巡するような間を置いてから、川野はストローを噛んだ。
「宮沢、小学校まで一緒でしたから。仲良くしてたんですよ、引っ越しても、戻ってきてからも」
「引っ越すのはともかく、戻ってくんのは珍しいな。何か訳とかあんの?」
「訳ってほど重いもんはないですよ。言い方が──あれなんですけど。大学が、その、ちょうどよかったんで」
「別に怒んねえよ。偏差値でも立地でも、理由はいくらでもあるだろうしな」
杉宮が薄笑いを浮かべたまま包み紙を解く。三口ほどでバーガーの半分を齧り取ってから、川野に視線を戻した。
「どの辺住んでたんだよ。こっちいた頃は」
「駅の近くですよ。結構便利でした。学校通うにも、生活するにも」
「駅前いい感じの飯屋あるからな。交流会名目で散策企画上げてもいいな。お前今度来るか? 面子集まんないときついからな」
川野は曖昧に首を数度振ってから、ストローに口をつける。杉宮はそれを見つめたままバーガーを食べ切り、包み紙を畳む。
紙の鳴る音と周囲の雑音に紛れるように杉宮が口を開いた。
「引っ越した理由、聞いていいか」
「両親の都合ですよ。普通に仕事の都合なんで、言い方があれですけど円満な引越しでした。ほら、友達とも連絡だけは続いてたっていうか……現代、スマホありますからね。簡単に縁なんか切れませんし、なんとでもなりますよ」
杉宮は何も答えずにコーヒーを啜り、熱さを堪えるように目を伏せた。
限定メニューのパイは机に置いたまま、川野は椅子に凭れてみせる。
「何をそう──疑ってる? のか分かんないですけどね。俺も稲谷先輩も、ただの趣味ってだけですし。先輩怪談お好きなんですよね? 怪談集めたりとか、話したりとかしないんですか」
「しない」
短く言い切って、杉宮は一度深く息を吐いた。
「好きではあるからな、本読んだり映画観たりはする。けどな、あれだ、消費するだけにしてる」
「どうしてです」
「怖いからだよ」
川野が目を瞠った。
杉宮はしばらく自分の指先を見つめてから、淡々と続けた。
「話すの、難しいだろ。見た通りに話すのも難しいけど、その時点で間違ってない保証がないから、苦手だ」
杉宮が軽薄なのはいつものことだが、曖昧なのは珍しい。
何を言いたいのかを掴みかねて、川野が怪訝そうに眉を顰める。杉宮は指先で数度机を叩いた。
「その──例えばだ。俺が昨日レンタル屋の洋画棚で小指が割り箸のおっちゃんを見たって話をするだろ。もうこの時点で半々じゃん。ていうか、多分間違ってんだよ」
「先輩そんなもんを見たんですか」
「仮定って言ったぞ。……これはさ、俺が見たことを話してるわけじゃん。俺にそう見えたってだけで、本当におっちゃんの指が割り箸だったとは限らないじゃん。竹串だったかもしんねえし、おっちゃんとしては」
杉宮の目がゆらりと動く。川野の背後を何度か往復してから、緩やかに視点が戻った。
「ただ俺がこうして話して、お前は聞いたろ。そしたら、お前は『小指が割り箸のおっちゃん』だと思うわけだよ、俺が見たものをな。本当は中指が竹とんぼのお姉ちゃんなのかもしれないのに」
「……実態を正しく捉えていない語りが、伝播する、みたいな話をしてます?」
「自覚もなくな。だって俺はそう見たと思ってるもん。俺にはそう見えたから。おっちゃんだよあれは」
「仮定なんですよね?」
川野の疑問に重ねるようにして杉宮が続けた。
「あと、これをお前が誰かに話したとするだろ。そんときに、完璧に完全に俺が話した通りに話すかって言ったら微妙だろ」
「盛りませんよ。そこまで器用じゃないんで」
「そういうのを意図してやるならまだマシだろ。無意識にやっちまうんだよ、人間」
杉宮が目を上げる。黒々とした瞳に店の照明が一瞬だけ映り込み、何もかもが塗り潰されて真っ黒になった。
「再話って言葉があるんだけどな。分かるか」
川野は黙って首を振った。
「俺が二年ぐらいのときだったかな。風俗の方の民俗取ってたんだよ。そんときの教授が話してた。民話とか神話を採集して、そのまま記述すんじゃなくって、再構成して分かり易く書き直すんだ」
採集。記述。再構成。
単語の意味を噛み締めるように、瞬きすらせずに杉宮は続けた。
「自覚してやってんならいいさ。めちゃくちゃ乱暴に例えれば、『怒髪天を衝く』で伝わらねえから『マジギレした』ってやるような話だけど……大枠じゃあ合ってる。分かんないもんを分かりやすくするのは大事な技術だ。ただそれを雑にやるととんでもないことになるのは分かるだろ」
杉宮の言葉に川野が頷く。しばらく周囲の雑音に耳を傾けるように、言葉を探すようにあらぬ方を眺めてから、杉宮は一度深く息を吐いた。
「乱暴に言えば、似た枠に押し換えてるだけだからな。丁寧に誠実にやっても、それでも取りこぼしも変形もある──それが怖いと思ったよ。俺は」
杉宮は長い指をやけにゆっくりと動かして、がさがさと派手な音を立てて包み紙を畳んだ。
「つまりな、ちゃんと作業として業務として、自覚してやったって
俺はその責任を負うのが怖いんだよと言って、杉宮はどさりと椅子の背に凭れた。
そのままカップを一息に干して、がりがりと頭を掻く。馬鹿みたいなアロハの肩口を凍えたようにさすって、天井を眺めたまま黙った。
「先輩、いいひとなんですね。よっぽど──誠実だ」
「俺のことそんな褒めても何も出ねえよ。それどころかバチ当たるぞ」
それよりあいつはどうなんだとコーヒーのカップを握ったまま杉宮が尋ねる。
川野は二度、何かの確認のように瞬きをして、
「趣味以外は悪い人じゃないですよ。かわいそうな人ですけど」
杉宮は目を逸らす。薄っぺらなBGMとノイズじみた喧噪を裂くように、盛大に舌打ちの音が響いた。
「俺としてはですね、そう……そう悪いこととか大それたことは考えてないですよ。つうか、できるわけないじゃないですか。ただ怪談を話すだけで」
「そうだな。よっぽど馬鹿なことしなきゃ大丈夫だ。話し方を間違えたり内容を誤ったりしなきゃな」
「牛の首とか試してみます? あれも元は作家のデマじゃないですか。しかもSF作家の」
「古い作家知ってんな」
「父が若い頃に集めてたんですよ。それに、面白い話はずっと読まれますから」
俺の動機はそっちかもしれませんねと川野が言った。杉宮は黙ったまま、その目を正面から見ている。
川野は目を細めた。
「面白いからですよね、結局は。面白そうだから櫛田先輩は肝試しに行ったし、稲谷先輩はそこにかこつけて怪談を集めてる。そうやって面白いからってやったことで、話が生まれて広がっていく。当然ですよね、面白いって大事ですから。人間同士、よりよい日常生活のためには」
「……退屈するとロクなことしないからな、人間。忘れてた方がいいことを掘り出して、余計なことを始める」
「それは場合によりませんか」
穏やかな、それでいてよく通る声だった。
川野は口の端から八重歯をちらつかせながら、杉宮の目を見返した。
「忘れるべきじゃなかったことを、忘れてほしくないことなら、思い出した方がいいじゃないですか、絶対」
「だから面白いことをやってるってだけですよ。稲谷先輩も、俺も。趣味ですから、面白いですから怪談話。そうでしょう?」
あんただって面白がったじゃないですか。
川野の目が店の照明にぎらりと光る。
その光がひどく凶暴な色をして見えたのは、ただの錯覚の筈だと杉宮は考える。目は言葉を発しない。音声で出力されていないものは聞こえないのだから、存在するはずがない。内心も内面も、知覚されなければないものと等しい。
言われてもいないはずの言葉に背を刺されたような気がして、杉宮はゆっくりと目を逸らした。
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