伝播:後輩が言うには、
「怖い話、好きなんですか。先輩」
そんなことを言って、サークル室の入り口に仁王立ちした青年は、俺を真直ぐに見ていた。
ひと気のないサークル室。天文研究会歴代の観測記録や工具に出しっ放しの早見盤などに埋もれながら、俺が午後の授業に備えての昼食を取ろうと菓子パンを手にした矢先、ぼろっちい板ドアがおもむろに開いた。その途端にこの問いかけだ。前置きもフリも何一つない状態からの質問だ。訳が分からない上に、答えるべきかどうかも分からない。
お洒落なのか悪趣味なのか分かり辛い、この季節にはまだ寒そうな袖の長さの黒いシャツ。袖口から伸びる腕はやけに白い。
男は泣き黒子の目立つ右目を細めて、辛うじて笑顔と見てとれそうな表情を作ったまま、室内に入る様子も見せずにこちらを見ている。
「あー……後輩、だよね。新歓で会った、よね?」
「そうですよ、一年生です。例会でも挨拶しましたけど、名前覚えてます? 稲谷先輩」
慌てて記憶の中から似た顔を探す。
新入生の紹介は連休より前の例会でまとめて済ませたはずだ。似たり寄ったりの背格好の連中が、出身県や学科に学部のあたりさわりのない情報を並べては儀礼的な一礼を繰り返す無意味な時間の記憶を、どうにかして掻き集める。
前の席、名前を呼ばれて立ち上がる前の一礼。椅子の背を掴んだ手先のほの白さが、目の前の男のシャツから覗く腕の白さと重なった。
「……川野くんだ。史学科の」
「そうです、川野です。覚えてるんですね、意外でした。聞いといていうことじゃないですけど」
口の端を吊り上げて、川野は俺の真正面に座った。提げていたペットボトルを机に置いて、そのまま当然のように話を続ける。
「こないだの飲み会以来じゃないですか? あのときは俺、席も遠かったし一次会で帰ったんで、先輩とは顔合わせてないですけど」
失敗したなあと笑いかける川野の意図が分からずに、俺はとりあえず無表情よりは笑顔に近い表情を作っておこうと口元に力を込める。引き攣っていることが自分でも分かる頬を誤魔化そうと、掴んだままだった菓子パンを齧った。
「……その、未成年なら、そうだよな。二次会行くような理由もないしな」
「酒飲めませんからね。でも、心霊スポットには付き合えましたよ」
濁そうとした茶を真正面からぶっかけられたような気分だった。
川野は俺の表情をひとしきり眺めてから、どうしてか唐突に目を伏せた。
「あ、違うんですよ。喧嘩売ってるとかおちょくりたいんじゃなくって、ええと──本心ですよ。もっと駄目かもしれませんけど」
「駄目っつうか……何?」
「俺も心霊スポット行きたかった、ってことです。これも駄目でしょうけど」
真っ黒な目がこちらを捉える。一瞬乱暴な物言いを怒るべきか咎めるべきかを悩んだが、俺自身も偉そうなことを言えるような立場ではないことに思い至る。
心霊スポットの餌食になった先輩をきっかけに怖い話を集め出したなど、人によっては不謹慎だと感じて当たり前だ。
「……知ってんの、その、何があったかとか」
「山戸先輩から。先輩が怖い話集めてんのも聞きました」
山戸先輩──田津先輩から紹介された、ベランダの話をしてくれた先輩だ──の名が出てきて、俺は納得した。そういえばあの人も史学科だったなと今更思い出す。選択授業によっては接点があっても不思議ではない。
「川野くんも好きなの? 怖い話」
「興味があります。というか、必要があります」
迷いのない返答だった。
「必要……怖い話が必要になる状況って、あるの」
「先輩がそれを聞きます?」
間髪入れずに正論が返ってきた。どうしたって俺の分が悪いのは確かだが、年下にここまで言い負けているのも情けない。
川野は俺の醜態を笑うでもなく、まっすぐに黒い目で俺を見た。
「まあ、必要ってのは言い過ぎかもしれませんけど。一言でまとめれば趣味ですよ。俺田舎にいたんで、憧れなんですよ、心霊スポット」
「心霊スポットが憧れ……?」
「中高って多感な時期に田舎暮らししてたんで」
分かるようで分かり辛いことを言われて、俺はどう返すべきかを迷ってまたパンを齧った。
川野はペットボトルに口をつけてから一度だけ息を吐いた。
「子供って、怖い話好きじゃないですか。俺もそういう子供だったってだけです。そういう話に触れる機会が多かったんで、人よりちょっと好きなんですよ、怖い話」
川野の目がすっと細くなる。口元から微かに八重歯が覗いて、今は本当に笑っているのだろうと見当がついた。
「本で読むたび、気になってたんです。心霊スポットとか、事故物件とか、そういうやつ。だから今回の話を聞いて──あの、言わない方がいいのは分かってるんですけど、悔しかったので」
今までの流れからすると、『憧れの心霊スポットに行けなかったことが悔しい』ということになるのだろう。
こいつはとんでもないことを言っている。関わりが薄いとはいえ、同じサークルに所属していた人間が被害に遭っている事柄に対して適当な反応ではないだろう。
だからこそ、俺だけは川野を否定することができない。
同じ穴の貉同士で殴り合うようなものだ。それを選んだ瞬間、俺は俺自身にも同じだけの非難をすることになる。
盛大な自傷行為だ。そんな辛い上に無意味なことをしたくはない。その程度には、俺は自身の悪趣味具合を理解している。
つまるところ、川野も同罪だ。俺にも川野にも、互いが互いに投げるべき石を持てないはずだ。
「……俺が言えた義理じゃないけど、他の人には言わないでおきなよ、その辺」
どうにか絞り出した言葉に、川野はしっかりと頷き返した。
「同好の士っていうか、趣味が合うのは分かったよ。で、川野くんは何がしたいの。俺をいじめに来たってんなら逃げるよ」
窓の外を見る。室内で交わされる話題の暗さに反比例するように、眩い初夏の日が照っている。この快晴なら、サークル室を逃げ出しても非常階段あたりで用を済ませられるだろう。食堂は今更行っても座れるとは思えない。趣味の悪さを詰られるのはともかく、昼食を食い損ねると午後が辛い。
川野は泣きぼくろのある目元を細めた。
「違いますよ。どっちかというと、あれです。協力したいな、って」
俺はぎょっとしてその目を見返す。
川野はたじろぐ様子もなく、ひどく明るい口調で続けた。
「よかったら、なんですけど。俺も手伝いますよ、その趣味。話が集まればいいんですよね? 俺の友達とか知り合いとか、その辺当たってみますから」
どうですか、俺役に立ちますよと一転して食らいつくように身を乗り出す川野から反射的にあとずさる。下がった拍子に後頭部が壁にぶつかって、それなりに大きな音を立てた。
「俺としては、ありがたいけど……川野くんが自分で聞いた方がいいんじゃないの、それ」
「俺はそういうのはやらないんで」
「なんで?」
「俺、向いてないんですよ。直に人から聞くのは、ちょっと」
心霊スポットに行きたがるのに?
そんな疑問が浮かんだが、それこそ趣味の話なのだから聞くだけ野暮ではあるだろう。『車が好き』という人間でも、それこそその枠の中には乗って走らせるのが好きなやつから外観をただ愛でるもの、車の性能情報を眺めるのが好きなやつもいる。そういう嗜好の差だろうと、俺は疑問を飲み込んだ。
「山戸先輩から聞いたとき、嬉しかったんですよ。怪談集めてる人がこんなに近くにいるとか、マジかよって思いました」
実話怪談の本みたいですよねという後輩の言葉に曖昧に頷く。この間集め始めたばかりで、その手の本はあまり読んでいない。だがそういう反応が返ってくるということは、怪談を蒐集する方法としてはおよそ正しいことをしているのだろう。
怪談を集め、怪異がどういうものなのかを知りたい。そのためには数を集める必要がある──いつまでも田津先輩に頼るわけにもいかない。自分の知り合いを辿るにも限界がある。ツテやアテはあるに越したことはない。
とにかく話を集めたい現状で、川野の申し出はありがたいものだった。
「──手伝ってもらえるなら、お願いできるかな。俺としては、すごく助かる」
「よかった」
ありがとうございますと微妙にずれたことを言って、川野はスマホを机の上に置いた。
「じゃあ、連絡先交換しましょう。よろしくお願いします、って言っておいた方がいいんですかね。今更ですけど」
上手くいくといいですねと激励じみた言葉を吐く川野の口元から、白々とした八重歯の先が覗いていた。
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