禁断の果実

街田侑

第1話

 フライパンから肉が焼ける音がした。ジューっと音を立てて、香ばしい音を立たせて、肉が生まれ変わる瞬間を待っている。ひっくり返す。また音が鳴る。悲鳴なのか、それとも歓喜の産声なのか。食べる人間であるマックスは当然後者だと思っている。彼にしてみれば、肉を育て、小奇麗にし、鮮やかにドレスコードしてやっているのだから多少の傲慢は許してくれと、思いたいところだろう。失われた牛の命と牛の放屁によって促進される地球温暖化など、料理の労力と天秤にかければ些細な事に過ぎない。

 木製の平皿に緑を添えて、中央に添えたビーフステーキを見てマックスは思った。

「立派に育ったな」

 若干二十五歳の父性の萌芽であった。

 彼は慎重にテーブルの上に皿を運び、ゆっくりと腰を下ろした。

 そして肉に目の前で手を合わせる。祈るように。

 いただきます。

 彼は日本式の儀礼である「いただきます」をとても気に入っていた。食事に心血を注ぐ彼は食事の際は必ず手を合わせた。それは敬虔な信徒にも見えなくもない。マックスは儀礼を行う際に考えることがある。祈りとは何かと。祈りとは、誰かに助けを求めたり、何かを願うことではない。自己を強く思うことなのではないか。それは一切の他者が踏み込むことのできない境地であり、神の存在すらもそこには介入できないのではないか。

 無神論者である彼がこのようなことを考えるきっかけとなったのは、大学で考古学の授業に参加してからだ。ずっと昔には、宗教を、神の存在を誰もが信じていた時代があったという。その時代には、今ではもう存在しない国家や宗教といった古い枠組みがあり、人々は思想の違いによって対立し争っていた。しかし「神の死」が宣言されてから、宗教は終わりを迎え、宗教の代わりに科学が台頭してきたという。マックスは不憫な時代に生まれなくてよかったな、と思いつつ、昔の人間たちの馬鹿さ加減を嘲り、面白がって、考古学の授業を聞いていた。西暦3022年、平和な世界に生まれてきたことをマックスはうれしく思った。

 肉を堪能したあと、彼はすぐにベッドに入った。マスターベーションの時間である。時計の針は12時の方向を指している。大いなる正午とはまさにこのことだと彼は昔の哲学者を思い出しながら笑った。

 気が付くと、彼は下半身を露わにしながら眠りこけていた。彼は山積みになったティッシュを捨てるように掃除ロボットに依頼して、家を出た。時刻は午後9時を回っていた。

 New inn——その昔、新宿と呼ばれていた日本の繁華街に彼は来た。ここでは、「金」で買えるものが全て揃っている。電化製品、食品、女、男に至るまで。マックスは行きつけのショッピングモールに入った。

 ショッピングモールの中には多くの立ちんぼがいる。大体が女だが、男も少しいる。若い奴から婆までバリエーションは豊かだ。

 毎月政府から使いきれないほどの「金」を支給されているのに、彼らは何故か自分の体を売っている。マックスは思った、人間は増えすぎたのだと。ロボットの活躍で働く必要もなくなり、国家消滅後、その後釜に座った世界政府が企業を買収——もとい掃討してから、人も余って、やることがないのだ。やることがなくなった人間のやることはただ一つ、快楽を貪ることだ。ひたすらに気持ち良ければそれでいいのだ。結局セックスが男も女も一番気持ちいい。でもただ体を差し出すだけだと面白くないから、首にぶら下げたプラカードにてきとうな値段を付けてやっているのだ。人間の行動原理は快楽と面白いか面白くないかだけで説明がつく。

 マックスが目当ての商品を探していると、立ち並んだ「商品」の中から一つが飛び出してきた。おそらく未成年であろうかわいい顔をした男の子だ。男の子はつぶらな瞳でマックスに向けて、プラカードを差し出してきた。

「どう? 言ってくれれば値引きするけど」

「悪いが、ケツの穴は嫌いだ」

 マックスは愛想悪く吐き捨てた。マックスはセックスが嫌いな人間の一人だった。男でも女でも興奮しないのだ。好きなのは自分の右手だけである。

 マックスの今日の目当ては大麻だった。健康ドラッグとして認定された極上の草を吸った後に食う肉は格別だ。マックスは大麻が入った透明な袋を吟味した。大麻の塊がスカスカのやつを掴まないためだ。

 一袋50グラムの大麻を手に取り、マックスはレジまで向かった。大麻の袋についているバーコードを機械にかざしてスキャンする。ピっと音が鳴る。意味を持たない年齢確認ボタンを押して、支払いを済ませようとしたその時、レジの画面にポップアップが表示された。そこには書かれている文字を見るとマックスは顔を顰めた。

——この商品はお金では買えません——

 イラつきを隠せないマックスはすぐに連絡ボタンを押してロボット呼び出した。ロボットは30秒でマックスのもとについた。

「金で買えないってあんだけど、どういうことだよ」

「コノ商品ハ、オ金デハ購入デキマセン」

「なんでだよ」

「コノ商品ハ、オ金デハ購入デキマセン」

「わかった。とりあえず人間を呼んでこい。話せる人間だぞ」

「現在、人間ノスタッフノオリマセン」

「おいどうなってんだよこれ……」

 マックスはロボットを殴りつけた。ロボットの頭部は凹み、機械音声は濁っていった。それでもマックスのイラつきは止まない。

「お兄さん、どうしたの?」

 立ちんぼの男の子がマックスに声をかけた。こいつも殴ってやろうか、と一瞬思ったが、人間にはまずいと思って拳を緩めた。

「草が買えねえんだよ。機械の故障かなんかだと思うがよ」

「お兄さんきっとそれ、金じゃなくてアライバルじゃないと買えないよ」

「アライバル?」

 少年はマックスを見つめていた。魔性を秘めた瞳だったが、マックスは歯牙にもかけなかった。

「僕と寝てくれたら教えてあげてもいいよ」

「オーケー。そこまでやりたいならやってもいいが、俺にもちゃんとわかるように一から説明するんだ。意味のわからん妄想とかだったらぶっ飛ばすからな。」

 マックスと少年はショッピングモールを出てホテルへと向かった。マックスが履いているジーンズのポケットにはこっそり盗んだ大麻が入っていた。


 少年の名前はナギといった。マックスはベッドでの営みの後に少年の名前を知った。

 マックスは煙草に火をつけた。

「それで、アライバルってなんだよ」

「労働者(ワーカー)が得られる賃金のことだよ」

「労働者(ワーカー)って全人口の10%未満がなれるエリートのことだろ。じゃあ、そいつらだけが草を吸えんのかよ」

「草だけじゃない。今君が吸っている煙草だって、いつかアライバルでしか買えなくなる。嗜好品や高級品は全部アライバルでしか取引されなくなるんだ。」

 マックスは世界政府の情報規制に恐怖を感じた。生活に関する情報にもかかわらず、その情報はネットのどこを漁っても見つからなかった。

「お兄さんはこれを聞いて働きたいと思った?」

「ああ、働けるもんなら働きたいね。これじゃいずれ美味い肉も食えなくなる」

 マックスは三年前のことを思い出していた。大学卒業後に受けた職業試験で彼は不合格通知を受け取っていた。マックスは昔から働きたかったのだ。しかし、エリートの頭脳の前では、なす術もなかった。

「僕のおじいちゃんが研究所で働いているんだけど、働いてみる?」

 マックスはベッドの上で横になっているナギを見つめた。ナギの表情は真剣だった。

「本気で言ってるのか?」

「本気だよ」

「お前がそんなこと決められるのかよ」

「おじいちゃん、僕に甘いからね。その代わりに……」

 ナギはベッドで足を大きく広げた。それはまるで何かを待っているかのようだった。

「僕のこと好きになってくれたらね」

 マックスは笑った。こいつは狂っている。これは取引にすらなっていない。エリートにしか与えられない労働者のチケットと本当かどうかもわからない売春で手に入れた愛情なんて天秤にかけるのもおこがましい。しかし、こんなうまい話、乗っかるしかないじゃないか。

「お安い御用さ。朝まで使ってやるよ」


 朝になってマックスとナギはホテルを出て、研究所へと向かった。ナギは昨夜着ていたホットパンツではなく、ピンク色のロングワンピースを着ていた。

「似合うじゃねぇか」

「おじいちゃんの趣味なんだよ。僕も気に入ってる」

「俺といる時もその格好でいろ。そっちのほうが燃える」

 二人は手を繋ぎながら大通りを歩いた。手を差し伸べたのはマックスの方からだった。

 

 研究所に着くとマックスとナギは白衣を着た男たちからの手厚い歓迎を受けた。二人は研究所の奥へと通された。自動式開閉扉を10回ほど通り過ぎた先に白衣を着た白髪の男性が立っていた。

「ナギよく来たね。今日も本当に綺麗だ」

「おじいちゃんも相変わらずダンディだね。実はこの人を雇ってもらいたいんだよね。研究員が不足しているでしょ?」

「ナギの頼みなら仕方ない。今すぐ雇ってあげよう。それで……君の名前は?」

「マックスだ。よろしく」

「私は湯川だ。孫が世話になっているようだね」

 湯川はそういうと振り返って早足で歩き始めた。

「この奥に君が働く職場がある。ついてきなさい」

 湯川に連れられて奥へ進むと、そこには果樹園が広がっていた。室内の隅々までが草木で埋め尽くされ、天井の透明ガラスからは太陽の燦燦とした光が差していた。

「すげぇ。ホログラムでしか見たことない景色だ」

「すごいだろう。今ではほとんどが野生では見られない植物たちだ」

 三人は果樹園の奥へと進んでいった。先頭を切る湯川の足は速い。マックスとナギは植物たちを観察する暇もなく湯川についていった。

 進んだ先に一つの赤い果実があった。

「マックス君、君の仕事はこの果実——SWEETを育てることだ」

「もう十分実っているじゃねぇか」

「いいや違う。この果実はもっと大きく育つ。今はまだミニトマトサイズだが、いずれは掌に収まりきらないほどの大きさになるだろう」

「おいじいさん正気か? こんなのロボットにやらせた方がよくないか?」

「いいことを言ってくれた。このSWEETは、人間の愛情がないと育たないのだ。量子力学において、人間が観測するか否かによって観測結果が異なるように、SWEETもまた、人間が愛情を注ぐかどうかによって実る果実の大きさが異なるのだ」

 またくだらない愛ときたか。そんなもの、この果物が判別できるものなのか? しかしこのじじいと孫は他人の愛を必要としすぎている。しかも、求める理由が歪だ。この一族は頭がおかしいんじゃないのか? 

 マックスはそんなことを考えながらも、少しだけ期待を膨らませていた。彼は料理することと同じように何かを育てるのが好きだった。それは主に自分で食す目的として。


 マックスがSWEETを育て始めると、SWEETは瞬く間に大きくなった。湯川はその果実を超のつく富裕層に買ってもらう予定だった。無論、アライバルでの取引によるものだ。

 しかし事件は一か月後に起きた。マックスは大きく育ったSWEETの果実を食べて、ナギと共に行方を眩ませたのだ。

 SWEETには驚くべき三つの効力が備わっていた。一つ目は脳細胞の活性化により人間に高度の演算能力を与える効果。二つ目に人間の五感を最大感度まで高めさせ、筋肉繊維を伸縮させて、筋力を増幅させる効果。最後に食べた直後に見た人間に惚れてしまうという——つまりは惚れ薬の効果であった。

 湯川にとっては最後の効力が一番重要だった。大富豪の子息に、ナギの目の前でSWEETを食べてもらうことで、ナギの将来の安寧を確定させようとしていたのだ。心配性な湯川は孫が自らの性癖によって幸福を手にすることが出来なくなるのではないかと懸念していた。

 しかし、孫が自ら手を引いて連れてきた男と駆け落ちするなら、湯川にとって、それはそれで本望であった。彼はその事件のあと、探偵を雇ってナギとマックスの行方を捜した。思いのほかすぐに居場所が分かったので、彼はマックスに宛てて手紙を書いた。

 

 マックス君へ

 孫と一緒に行方を眩ませるなんて大胆なことをしてくれたね。とても気に入ったよ。ところで、果実を育てる才能を持っているマックス君に頼みたいことがあるんだ。実は今度、男性の肉体に子宮を作り出す果実を作ろうと思っているんだが、手伝ってくれないかね。私はひ孫が見たくて仕方がない。しがない老人の頼みだと思って、手伝いに来てくれ。


 追伸——これからも孫をよろしく。

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禁断の果実 街田侑 @gentleyuki

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