第17話
やがて、扉がノックされる。イーチナさんのした控えめなそれとはまるで違う、がしゃがしゃと金属が擦れる音を伴いながらのノックだった。
「時間です。フレザリオ様」
「ありがとう、すぐ行きます」
騎士にそう返して、僕は、仮面を付ける。視界の大部分が塞がれる安堵。それをゆっくりと自分の中に飲み込んでいく。
行こう。
部屋を出ると、辺りはしんと静まり返っている。まるで世界にひとりきり、いいや、たぶん実際にそうなのだろう。ソーマと僕以外は既に出番を終えている。客席にはざんざん降りしきっているだろう喧騒も、ここまでは届かない。
こつこつとブーツの底が床を叩く音だけがすべてだ。
舞台の入場口まで着くと、ようやく騎士ががしゃんと敬礼をする音が世界に響く。
光り輝く舞台と、それを取り囲む人々。彼らは口々に何かを論じていて、それは潮騒のように集合し、会場をひとつの巨大な音にしている。向かい側の四角い暗闇にはソーマの姿がある。そこに向けてにこりとほほ笑むが、彼女にはこちらの表情までは見えていないようだ。
騎士が入場を促す。僕は右足をそっと持ち上げ、光の中へ、飛び込んだ。
ざっ、と世界に広がる音と視線。それを仮面の外に受け取りながら、僕はゆっくりと息を吸って、吐き出した。土のにおいと木材に塗られた油のにおいに混じって、金属の冷たいにおいや、人の汗と香水のにおい。
ソーマが手袋を抜き、左手を掲げる。
「ソーマ・ヴィ・クライン」
彼女に勝つ。わたしが勝つ。
その先に、いつか夢見た未来があるから。
すべてを、打ち破れ。
「フレザリオ」
名乗りを上げて、けれど左腕を挙げる気配のない僕に、少しずつ困惑が向けられる。
「それは、囚われのお姫様を助けにどこまでも往く、おとぎ話の王子様。わたしの仮面。わたしの魔法。……だけど!」
フレザリオ。フィオーレ。そのどちらもわたしで、わたしはわたしにしかなれないから。
わたしは、わたしの誇れるわたしになりたい。みんなの隣にいられるわたしに。
だから、時間だ、フレザリオ。いまこそ、仮面の魔法を終えるとき。
その手に、幽閉の塔を暴け。そこに、救うべき本当のわたしが眠っている。
左手の先が扉を掴む。仮面の下から差し込む光。
目の前を塞ぐ仮面を外し、遥か天へと投げ捨てる。
「わたしの、本当の名前は……魔法使い、フィオーレ・オズ・ララベル・ハート!」
世界が鳴り響く。ちっぽけなわたしを取り巻く無数の視線。
痛い。それでも、ここに居たい。違う。
わたしが、ここに居る。
「今日こそ、わたしは、貴女を超える!」
ひとまとまりの雑音になっていく世界。その中心には、束の間浮かべた驚愕の表情を、満開の笑顔に変えたソーマがいる。
「君とこうして戦うことを、どれだけ待ちわびたか。私に、君の全部を見せてくれ!」
突き上げる左手。背後でからんと仮面が場外に落ちる音。
わたしの演舞が、はじまる。
狂乱に包まれた演舞場の中を、青と緑の光が何度も交錯する。互角ではない。徐々に。そして確実に、わたしが圧されている。
「転移はどうした!」
「っ!」
緑光は、最下段からの大きな振り上げ。がつっ、と噛み合った剣。噛み合い過ぎた。力を十分にいなしきれず、身体が中に浮きかける。視界に転移先を探すが、その中で無数の視線と目が合った。一瞬、思考が停止する。そこに肩を入れた強烈なタックル。流転保護が衝撃を変換し、互いの体をその場から弾き飛ばした。崩れた姿勢から動き出すのは、わたしが早い。
軽く踏み込み、その軽さのまま全身を前に出した足にひきつけ、重い一撃。流れるように足を踏み替え、続く三連、四連の剣撃。ソーマは激化保護を駆使し、逐一衝撃を弱化、受けきれると断じれば逆に強化して、こちらの体幹を崩しにくる。次で限界。大きく後方に飛び退きながら斜めに剣を振り下ろし、その手ごたえをバネに後退距離を延長する。
ハッと短く、腐った肺腑の息を入れ替える。
大丈夫、怖くない。ソーマのことは怖くない。前よりずっと戦えている。
だが、いつまでもこちらに付き合ってくれないこともわかっていた。
「……薄々感じていたが、君に接近戦は無謀だな。私は私らしく行かせてもらおう」
大きく跳躍、空中に静止、ではなく降下を限りなく緩やかに。浮遊の魔法。
ごう、と翠緑に変転しながらマナが渦巻き、魔法が顕現する。空気をかき混ぜる緑色の輝きは瞬く間に速度と密度を上げ、次にほとんど不可視の突風の連続が来る。
かつてフレザリオが負けた魔法。
輝くマナだけを頼りに風の到来を予測し、転移。転移、また転移。視界が広い。いつもは塞がれていた場所にも、逃げ場は多い。
しかし、次の転移の瞬間、集中が途切れ、魔法は発動せずマナが霧散。歯噛みするが、なぜか衝撃は来なかった。緑色に光り輝くマナだけがわたしを通過する。
「……おや、女神もなかなかいたずらだな」
ダミーだった。あの量すべてが本物ではないことは救いだったが、同時にひとつ気づいた。
ダミーで何をしたいのか。ダミーだってなんの消費もないわけじゃない。回避させるため。回避させて、どうするか。ソーマは。ソーマは、転移先を読んでいたのではない。
こちらの転移移動を管理して、行き詰まりに追い込んでいたのだ。
それは、ともすれば単に読まれているのと大差ない、絶望的な力量差だった。
けれどわたしにとって、それは大きく違うことだ。
「だが、タネが割れてもどうもできないだろう? 見分ける手段は──」
「ある!」
すう、と冷えるように視界が透明度を増す。視界一面にぼんやりとが浮かび上がり、ソーマの血潮を流れるマナすら、透けて見える。見えてはいけないもの。わたしだけが見えるもの。
ダミーと本物は、その発動の瞬間に反応するマナの量で見分けられる。
本物だけを回避し、ダミーは気にしない。その選択ができれば、わざわざ転移を使うまでもなかった。
「……ふむ。これは一番、いや二番目によくできた魔法だったのだけどね。コストパフォーマンスだけ見ればいまでも一番か」
名残惜しそうに魔法を閉じ、浮遊を緩めて着地。直後、空気が軋むほどのマナの収束。
「では、もう少し豪華にいこう」
目を開けていられないほどの暴風が地面をなぞり、マナタイト障壁にぶつかって混流する。
暴風の壁の中で、膨大な量のマナがひとつの魔法へ編まれていく。
「それは、させない!」
転移で無理やり嵐の壁を越え、マナタイトを振り切る。流転干渉が空気の流れに届き、ぐるぐると対流を生みながら淀んでいく。魔法を放棄し、火球を放ちながら退避するソーマに向けて再度転移。雷のように鳴る剣と剣、背後で風に巻かれた炎が巨大な火柱を立てる。
そのまま剣は火花を散らしながら切り結ぶ。炎、土塊、風。あらゆるものを手に離脱を図ろうとするソーマを、転移で猛追し逃がさない。
「調子が出てきたな、フィオーレ!」
「おかげさまで!」
背後への転移と、振り返る一閃。文字通りに鎬を削りながら、わたしたちは笑っていた。
「はッ!」
「それはもう見た!」
気合いと共に、剣筋を直角に歪める回転転移。けれど即座に動いた手が、不格好な構えながらそれを受けきる。こちらもどうしても力が入っていないのだ。むしろ足の浮いたところを風に押されて、距離を取られる結果に終わる。だが、と顔を上げた直後、彼我の中心で大爆発が起こる。ニアダールの爆炎。もうもうと立ち込める黒煙で視界を失う。
どこから来る、と構えてから、先ほどの比ではない、周囲のマナというマナすべてを吸い尽くすような大魔法の気配にぞくりと脅えた。しかしそれすらまだ途上であり、マナはさらにさらにと、どこまでも際限なく吸い込まれていく。
「これは、正真正銘、私の全力だ」
万能の魔女が、魔法を綴っていた。
周囲の煙が風によって晴らされる。吹きすさぶ風の中で輝くマナが、魔法操作を受けて色を変えていた。赤、青、黄、緑。四方を我が物とする、彼女だけの特権。
世界が、色とりどりにきらきらと。光を曳いて回転する。回る星々の中心で、ソーマは祈るようにマナタイト剣を胸の前、天へと向けて構えていた。
やがて現象となって現れたそれは、白緑に輝く、かたちなき光の隕石。
「さあ、お披露目だ。ソーマの流星。私の魔法」
視界のすべてを白が覆った。まるで、星が丸ごと落ちてきたみたいに。
「う」
目が焼き切れるかと思うほどの濃密な魔法反応。いったいどれだけの工程を経れば、そこまでの動乱を生むことができるのか。人間業とは決して思えない、魔法を超えた魔法。
回避を考える必要は、なかった。
「わたしは……勝つんだ……!」
打ち勝つ。それしかない。
目の前に亀裂が入るような感覚。限りなく時間の流れが遅くなっていく。
暴虐的なマナの大渦を眺めながら、わたしにできることはなんだと自問する。
わたしは激化が使えないから。創造も微妙で、破壊も心もとないから?
違う、そうじゃない。
「──わたしは流転が使えるんだ」
そうだ。突き詰めろ。突き詰めろ。
わたしにできること、ただそれだけを貫いて、わたしにしかできないことを成し遂げろ。
わたしは、流転使いフィオーレ。
ただ流転の属性にだけ、超一級の適性を持つ魔法使い。
あらゆる魔法使いが二級適性以上を持つありふれた属性だけに、これ以上なく、認められた魔法使い。そして、見ることだけに異常な能力を有する人間。
それはきっと、偶然ではないのだと思う。
流転適性とは、すなわち『認識力』。
より些細な、より極小の、揺らぐ世界のその機微を掴み、零を否定し、一を生む力。
見える。
マナの一粒一粒が、魔法を構成するその過程が、わたしには見えている。
見えるものになら干渉できる。
これが、わたしにできることの最奥。わたしにしかできないこと。
耳の先をぴんと張るような感覚。マナタイトが青く流転の反応光を放ち、脈動するように送り出される極大のマナ。扱う規模があまりに大きなせいか、少なくない量のマナが光や音、電気にロストして、歌う星々のようにわたしの周囲をまたたいた。
膨れ上がるマナは次第に収束し、ひとつの魔法を形どる。
眼は、世界に届いている。あと一歩。もう一歩。
叫べ。揺るがせ。
世界を越えろ、フィオーレ・ララベル!
しん、と、刹那静寂が舞い降りた。
直後、ふわりと極光のように広がる、流転反応の青い光。わたしに迫っていた流星、荒れ狂うマナの奔流は、そのベールに触れた先から、同じだけの光の束へ形を変え、わたしの剣を覆っていく。
流転の魔法。わたしの──フィオーレの流転。
既に発動したあらゆる魔法。それを構成するマナひとつひとつを転移、収束させる魔法。
見開かれたソーマさんの目も。なおも降り注いでは消えていく白緑の波濤も。この興奮も狂熱も、何もかも。
世界のすべては、それを認識するわたしのものだ。そして。
「これが、『わたし』だ──ッ!」
剣を振る。圧縮され、放たれた、青白い怪光の束。
空気を赤く熱し、電磁のきらめきを曳いて、つんざくような七色の声を上げながら、魔法は突き進む。全てを超えて突き進む。
そして光の束は、ソーマが多重展開した防御魔法を粉砕していく。
破壊防御。流転防御。創造防御。激化防御。そのどれもを飲み込んで、光は万能の魔女の姿を一色の内にかき消す──寸前、完全保護宝珠が起動した。光はぱっと掻き消えて、きらきらとまたたきながら、紙吹雪のように、ステージ上の決着へと降り注いだ。
地に仰臥するソーマのもとに歩み寄り、そっと手を差し出す。
「それが、君か」
「はい」
ソーマが手を掴んで、わたしが手を掴んだ。
いま、最後の光のひと雫が青いマナの輝きに還って、消える。
どこか遠くで、わずかなどよめきが確信の叫びへと変わり、そして、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
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