第15話
「さて……後片付けをしなくてはな」
「う」
腰に手を当ててぐるり周囲を見渡すソーマの視線を追ってみると、辺りは惨憺たる有様だった。校舎の屋根は所々剥げ、鐘楼に至ってはほぼ半壊しており、周囲にはその残骸が広く散らばっていた。
「ここは私が受け持つよ。そもそも、創造魔法が使えないと直しようがないしな」
「じゃあ、わたしは?」
「君は部屋に戻れ」
「え、でも」
「違う。君が片付けるべきものはそこにあるから」
あ、ああ……部屋は確かに、散らかってたっけ。片付けるべきなのは間違いない。
でも、別にいまでなくても。
疑問を表明してみるが、ソーマはそれ以上何も言ってくれなかった。行けばわかるの一点張りだ。不審なものを感じながら、校舎を飛び降りて自室へと向かう。
辺りは一面暗いのに、このところ見ていた風景よりもずっと色づいている気がした。植物園を構成する植え込みをとっても、その葉っぱの一枚までが瑞々しさに満ちている。
二か月前、学園にやって来たときのような新鮮さに目を見張りながら、わたしは寮舎までの道行きを進んだ。
玄関の扉はまだ空いているようだ。懐中時計を取り出すが、そういえばこれは止まっていた。
玄関ホールの時計を見上げながら時間を合わせる。時刻は八時十二分。そしてゼンマイを巻くと、間もなく時計は動き出した。誰にともなくひとつ頷いて、時計をスカートのポケットに戻し、階段を上る。
三階の自室は、なぜか鍵が開いていた。そういえば閉めた記憶がない。厳密に言えば部屋を出たときそれ自体の記憶があいまいなのだけど。
中に入ると、すっかり本の山に埋もれてしまった部屋がわたしを出迎えた。
片付けるか。
灯りをつけようかとも思ったが、結局燭台を取りには行かなかった。中身を見るならともかく、本の背表紙だけであれば十分確認できる。
とりあえず自分の本とソーマの本と図書館の本とに分けよう。目についた山を持ち上げたが、机がどうも使えそうにないので、ベッドの上に腰かけた。
「んー……」
これはわたしの本で、これは図書館の本で……。と、三冊目の本を持ち上げたところで、背後に視線を感じた。いや、はっきりと感じる。
のどがごくりと鳴った。なぜなら、その方向に窓はない。
おそるおそる振り返ると、そこには真っ白な少女がいた。
「え?」
だが、別に幽霊ではなかった。それは見慣れた白で、けれどいつもよりも一段と白い。元々血の気がないに等しい肌は本当に凍ってしまったかのように真っ白で、代わりに目元の赤い腫れが目立つ。
「イザベルさま?」
ベッドで寝ていたのだろう。その背にはわたしの布団がかかっている。
「……。そう。やっぱり、わたくしではないのね」
「何のお話ですか?」
するり、と細い腕が伸びる。わたしの頬を撫で、顎を、喉を伝い、鎖骨をたどって肩を掴む。
「く、くすぐったいです。それよりあの、わたし、イザベルさまに──」
肩にかかった指先はそのまま力を込められ、わたしをベッドへと押し倒した。ぎし、とベッドが沈み込み、緩やかに元のかたちへと戻っていく。
わたしの目の前には、重力に従ってぱさりと落ちてきたイザベルさまの髪と、その奥で蝋燭のように揺れる赤い瞳。唇は何度か開いては閉じてを繰り返して、けれど言葉は聞こえない。
「え、えっと……?」
とりあえず、その折れそうなほど細い腰に手を回し、ぎゅっと抱き寄せてみる。
わたしなら、そうされたら嬉しい。
「貴女は」
わたしの耳元にやってきた唇がぼそりと呟く。
「変わりましたわね」
「……そうですね」
思えば、イザベルさまとこうして触れ合うのは初めてな気がする。小突かれたり、頬をつねられたり、せいぜいそんな流れの一幕。互いの体温を感じ合うほどの静かで確かな接近は、どことなく避けていて、避けられていた。イザベルさまの身体は、思っていたよりも少し冷たい。
「ソーマのおかげかしら」
「そう、ですね。でも、イザベルさまがいなかったら、変われなかったと思います」
「どうして? ソーマに貴女をけしかけたのが、わたくしだから?」
「それもそうですけど。わたしが変われたのは、ずっと傍にいてくれたイザベルさまがいたからです。もし変わることがうまくいかなくても、帰る場所があるって。きっとわたしはそう思いながら、歩き出していたんです」
それは二か月、されど二か月、ずっとそこにあった歴史。
「だから、ごめんなさい。なのにわたしは、そこまで頼っておきながら、本当に頼るべきときに、イザベルさまに頼れなかった」
「…………そう。貴女は、本当に変わったわ。わたくしは変われないのにね」
「イザベルさまも、変わりたいんですか?」
「当たり前じゃない。わたくしは、黒い腹を探り合いながら、ずっと生きてきたの。貴族社会で繰り返される権謀術数に嫌気が差すと呆れながら、わたくし自身もそんな選択を繰り返してきた。何も、変われなかったの」
背中にまわされたイザベルさまの手に、ぎゅっと力がこもる。
「貴女とソーマを戦わせたのは、そうすれば貴女は嫌われるから。貴女は誰とも関わりを持てずに、ずっとわたくしの傍にいてくれる」
「えっ?」
思わずイザベルさまのほうを向こうとするが、そこに見えるのは白い髪に包まれた形のいい耳だけだった。
「ひどいでしょう。貴女にこうして抱きしめられている資格なんて、わたくしにはないの」
「いや……うーん。どう……でしょうね」
どこかで聞いたようなセリフに、苦笑いしながら天井を見上げる。
「何よ。煮え切らないところは変わっていないわけ? 正直に言いなさい」
「うまく言えそうになくて。ひどいとは思いますけど、少し嬉しいんです。イザベルさま、わたしのことをそんなに大事に思ってくれていたんですね」
「はい?」
「でも、どうして? わたし、イザベルさまが傍にいてくれるのが、ずっと不思議でした。家格もぜんぜん違うし、何かイザベルさまのお気に召すようなことをした覚えもないし」
「それは……」
イザベルさまがしばらく言いよどんでいたが、にわかにベッドに肘を立て、顔を上げた。まつげが触れ合いそうな距離で見つめ合う。
「最初は、打算でしたわよ。ララベル家の娘が超一級適性を持っているということは、知っていましたから」
「えっ?」
「当然でしょう。わたくしは、腹黒貴族ですわよ。同じ貴族のことなら、何でも調べるに決まっています。だから、なにか恩のひとつでも売って手元に飼っておこうかと。そういう特異性は、ここぞと嵌まるところには最強の駒になりますから」
「か、飼われてたんですね、わたし……」
言われてみれば、確かに。イザベルさまとの思い出はどれもわたしの首にリードがついていても不自然なものではなかった。
「でも、違うのよ。違ったの。貴女はひどく傷ついていて、だからこそ誰をも傷つけようとしなかった。誰もを無垢に尊重して、いつも正直に、わたくしの傍にいてくれたの。貴女は……わたくしの」
光だったの。その言葉には悲壮が混じり、後には抑えきれないというような嗚咽が残る。
「……ありがとうございます。教えてくれて」
「勝手に終わらせないで」
イザベルさまの目元からこぼれてきた雫が、ぽたりとわたしの頬に落ちた。
「何も言わないで、ただ、聞いていてちょうだい。わたくしは、変わりたいの」
頷くと、髪とシーツが擦れてささやかな肯定を伝える。
「貴女が好き。魔法使いオズの血を引く、ハート領主たるララベル家の、フィオーレ。貴女を、愛している」
はっと短く零れた息はどちらのものだったのか。
イザベルさまはすっと身体を引き、わたしの腰の上から重みが消える。身体を起こすと、イザベルさまは最初と同じようにベッドの端で背を丸くしていた。
「これで、終わりね。正直な心を言うのも悪くないけれど、貴女を失ってしまうのは残念だわ」
「へ?」
「……なによ。その顔。理解してないというわけ?」
イザベルさまが手負いの野良猫みたいに飛び掛かってきた。
「いふぁい、いふぁいです!」
引っ張られた頬を押さえながら、鼻息荒く目尻を吊り上げるイザベルさまを見上げる。
「わたしを失うって……?」
「……はぁ。まったく、もう。そういうことね。貴女、たまに本当に大物ね。……そう。わたしも好きです、なんて展開なら夢見なかったわけじゃないけど、これは予想していなかったわ」
「イザベルさまのことは好きですけど」
「紛らわしいですわね! その好きがわたくしのものと違うことくらいわかります!」
「す、すみません。イザベルさまみたいな、その……恋愛というか。それって、どういう認識なんでしょう。まだ、わたしにはよくわからなくて。どういう風に思ったら好きってことなんでしょうか。こうしてイザベルさまとハグしていて、どきどきは、してます。ちょっと幸せです。でも、それはソーマとも同じだったし……」
「は? ちょっと、ソーマと同じってどういう意味ですの! というか! いつの間に、呼び捨てに!」
頭を抱えて左右に揺れる。
なんだかイザベルさまらしからぬ言動で少し面白かったが、いつまでも続けていてはまた怒られてしまう。イザベルさまに怒られるのは嫌いじゃないけど、怒らせるのは好きじゃない。
「え、えっと、とにかく、お気持ちは嬉しいです!」
「それ断るときのセリフじゃなくて? ……はぁ。まあ、わかりました。わたくしとしても不都合ではありませんし」
まったく本当に、とぶつぶつ呟きながら、イザベルさまがベッドを降りる。
「さて、それでは、これからも貴女とわたくしが一緒にいるために。……そして、少々憂鬱ですが、恩もありますし。貴女とソーマが一緒にいるためにも。いろいろと処理をしませんとね」
「処理?」
「また何か手を出されても困るでしょう。まあ、任せなさい。この辺りはわたくしの領分です」
「い、いや、それは」
妙にやる気に満ちて部屋を出ていこうとするイザベルさまの腕を掴む。
「何よ。また頼ってくれないの?」
「イザベルさま、そういうのはやりたくないんですよね? ……わたしにやらせてください。もっといい方法があると思うんです」
「……聞いてもいいかしら?」
ベッドを降り、イザベルさまと向かい合う。
「わたしが、お二人に並び立っても、不釣り合いではないようになればいい。ですよね?」
「それは、そうでしょうけれど……」
「来月の白竜冠。わたしが勝ちます。だから……見ていてください、イザベルさま」
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