第14話
重い足を引きながら、あてもなく構内をさまよう。本校舎をしらみつぶしに下から上へと、やがてわたしは最上階から続く階段を上り、鐘楼に向かっている。
歩きやすいように間隔を調整されていたこれまでとは異なり、横板を並べるだけの簡素なものになったそれを、一段ずつ上っていく。まるで、と思いかけて、思考を閉ざした。
こんなわたしがフレザリオだなんて、笑えない冗談だ。
みじめで、ちっぽけで、よわよわしく、愚かな少女。
どうして、わたしはこうなんだろう。
こんなわたしに、ソーマさんは、イザベルさまは、何を期待していたのだろう。
そこに居たいのに、わたしはただ痛いだけだ。
塔を上り、たどり着いた巨大な鐘の元に、イザベルさまはいなかった。
かくりと膝が折れ、わたしはその場に座り込む。
イザベルさまを探していたのは嘘だ。わたしはただ、あの場から逃げ出したかっただけだった。諦めて、何をも守らず、ただ自分のためだけに塔を上った。
身を丸め、折り曲げた膝の上に顔を塞ぐ。
こんな『わたし』は、いなくなってしまえばいいのに。
かつてはしっかりと理解していたはずのそんな事実は、いつの間にか、こんなにも痛ましい。
イザベルさまとソーマさんに手を引かれて、引かれたその手を、わたしが掴んだと勘違いしていたからだ。掴んでいたのはイザベルさまであり、ソーマさんであり、わたしの手の中にはなにもない。わたしはいつも、いつも手が届かない。いつも。
見上げた世界は、ひたすら青い。
魔法使いの適性を問う儀式は、六歳で行われるのが慣例だ。
別に十歳でやっても一歳でやっても結果は変わらないが、遅すぎるのは当然困るし、あまりに早いことにも、恵まれない適性だった子供を川に流す親が頻出したという過去の教訓がある。
だが、思えばわたしはその六歳を迎えられたことを、その前に川に流されることがなかったことを、感謝すべきだったろう。
幼いころから色んなものが見え過ぎていたわたしは身内にも奇妙がられており、それでも放任主義程度に収めて最後の一線を超えなかった家族は、実にまっとうな人間だった。
けれどそれもその日まで。
告げられた適性は、三級破壊適性。六級創造適性。激化適性なし。
そして、超一級流転適性。
同席していた家族が、まず聞き慣れなさに首を傾げた。それは観測されている一級適性の範疇よりもはるか高次の段階にあり、そうとしか呼べないという何かだった。
人間としての外れ値──異常値。
ようやくその事実を飲み込んだ家族の反応は、きっぱり二分された。
やはり悪魔の子であった。よりにもよって流転適性一極など、魔法使いとして格好がつかないにも程がある。父をはじめとする何人かがそう嘆いた。
やはり奇跡の子であった。この子は家の血名を変えうる、稀代の魔法使いとなるに違いない。母をはじめとする何人かがそう喜んだ。
ララベル家は、そこで壊れてしまった。
わたしを巡ってだけではなく、何かと争いが絶えないようになり、怒声と罵声がいつもどこからか聞こえてくる。最初のうちこそ、わたしは自分に優しくしてくれた母たちを慕い、自分に厳しい父たちを嫌っていたが、すぐに間違いだったと気が付いた。
わたしが嫌うべきは争いそれ自体であり、父や母や嫌うべきなのは、互いではなく、幸せな家族のかたちを壊した異物だった。
十六歳。それはハート領をはじめとした国内の多くの地域で、親の監督下にない行動が広く認められるようになる歳。わたしが、家のために家を逃げ出せる歳。ひたすらに暗い部屋の隅で目を瞑ったまま、その瞬間を待ち続けた。
そして王都への進学は、最高の幕引きとなった。
対外的にはむしろ貴族の娘として誇りある進学であり、もちろん内部的には争いの種が消えてなくなる。かつて幾度となく見上げた丘から見下ろした家は、わたしが物心つく前の、おぼろげに覚えている、あの幸せだった家族のかたちに包まれていた。呪いが解けるように。
そうだろう。そうだったろう。
白いもやに顔を覆われたわたしが、にたりと三日月のような笑みを浮かべる。
お前に手を伸ばしてよかったことが、一度でもあったのか、と。
「……ぐす」
鼻を鳴らしながら、顔を上げる。
どれだけここでこうしていたのか、青空だったはずのそこは、すでに暗闇に閉ざされている。
夜の絨毯の上には星の織模様が輝いていて、一筋の流星がそれを横切るように駆け抜けた。膝を手で押しながら立ち上がり、塔のへりまで歩いていく。空だけではない。見下ろした世界もまた、命という星に満ちている。
暗い街の窓のひとつひとつで、その中で起こった暖色の明かりがカーテンの隙間から漏れ出て、ぼんやりと街全体を照らし上げている。あれは料理をする大きな炎。あれは書物の相伴に据えられた燭台の火。あの揺らめく影からは、何かにはしゃぐ子供の姿が見えるようだ。その光のどれもが小さな物語。星明りにも負けない、まばゆい光。
空も、大地も、こんなにも美しいのに。
わたしは違う。わたしの世界は違いすぎる。
わたしは同じになりたかった。
それでも。わたしは、違う。
「気づいてみれば、なるほどという場所だったな」
イザベルさまを見つけなかったわたしと、わたしを見つけた彼女は違う。
きらめくマナの緑光を曳きながら空を飛んできたソーマさんが、わたしを鐘楼の中心に押し戻しながら着陸する。星々を背負った逆光の中、その緑色の視線がわたしを射すくめる。
「君は塔の上のユーレリア姫というわけかい」
「……違います。そんなんじゃ」
言いかけた言葉が、ぱしんと何かに叩かれた。
手の中に落ちてきたそれは、白いシルクの手袋だ。
「私はフレザリオじゃない」
「え……?」
思わず見返したソーマさんは、はっきりと怒気に包まれていた。
「なぜ、決闘を汚した。なぜイザベル・リンデ・イナスチア・ノルボースの矜持を踏みにじった。なぜ、君のために戦うことを認めず、君を本当に大切に思うその言葉を受け取らなかったんだ」
ソーマさんが剣を抜いた。
キン、と鋭い金属音の果てに、わたしの首元にその先を突き付ける。
「剣を執れ。魔法使い、ソーマ・ヴィ・クラインが、君に決闘を申し入れる」
腹部に衝撃。蹴り上げられた。反射的に発動した流転保護が衝撃を散らすが、直後、背後の大鐘に後頭部を強打したのは認識外だ。認識していなければ魔法は発動しない。思いきり硝子が割れるような保護宝珠の発動と同時、ごうううん、と鐘楼が聞いたことのない悲鳴を上げる。
だが、それにはまるで構わず、燃え盛る炎を穂先に灯した石槍が殺到してくる。身をよじって鐘楼を転がると、槍は鐘楼の床面を抉り、瞬く間に周囲に火勢を伸ばす。
「ソーマさ──」
「さん、はいらない!」
返答に伴う魔法は、声も火も一挙にかき消されるほどの突風だった。再び宝珠が発動しながら、わたしは鐘楼から突き落とされる。
右手袋の宝珠の色はほとんどくすみ切っており、その奥底にわずかな光を残すのみだ。
鐘楼から崩れ落ちたレンガの群れとともに、落下するわたしをソーマさんが追いかけてくる。
「あと何回だ」
「あと一回ですよ! やめてください!」
「少ないな。まあ、最近君は寝てなかったしな。そうか。あと二回殺せば、君は死ぬのか」
冷え切った声だった。ぞくりと背筋を走った悪寒が全身を動かし、腰のマナタイトを抜く。
「どうして!」
横目に認めた校舎の屋根の上へと、転移。直後ソーマさんも追転移、ふたつのマナタイト剣に照らされ、屋根瓦はさんざめくようにライトグリーンの光沢を返している。
「どうして、いまソーマさんと戦わなくちゃいけないんですか!」
「私が君に挑んだからだ。君は生き残るために私を下さなければならない」
踏み込んできた剣に剣を合わせる。がきんと重い手ごたえ、わずかに圧される。体勢を維持するため、後ずさりながら受ける力を逸らしていく。
「ソーマさんがやめてくれれば、それで終わるでしょう!」
「私はやめない。君が勝つか、私が勝つか。楽しみだな」
ふっとソーマさんの身体が縮む。腰を落とし、剣を引き、ならば次に放たれるのは、神速の刺突だろう。わたしはそのマナタイトを握る右手に防御の意識を向け、けれど直後、胴体の裏に隠していた左腕から、炎の魔法が飛んできた。すべての状況を捨てて横っ飛びに回避。爆風で揉みくちゃにされながら、三半規管を頼って着地姿勢を取り、斜面の屋根瓦をガリガリと削ってどうにか静止する。
「それと、さっきも言ったが、いまの私に本当に敬称をつけるべきかどうか、君は考えたほうがいい」
立ち上る黒煙が、その背の星を覆い隠した。
「……っ。本気、なんですか?」
「これが本気でなくて何だ。君も本気になれ。出し惜しみに後悔する機会はないよ」
「なんで……どうして」
緑色のマナタイトの周囲に散発する暗黒、直後放たれる一条の光線。ケイロスの光線。かつてイーチナさんが使ったそれとは比べようもない密度と速度。
「どうして!」
がちり、と眼球の奥で歯車が軋む。万能の魔女ソーマの背後を取って転移、当たり前に飛んでくる第二撃をさらに上方への転移でかわす。そのままケイロスの光線を乗せたマナタイトを振り抜き、それに命中するように、ソーマの身体を上空へと転移させる。
がちんとかち合う緑と青のマナタイト。それを認めるか否かで再び転移。ソーマの頭上に踵を蹴り落とすが、糠に釘を打つような奇妙な手ごたえ。激化保護魔法の弱化防御だ。
彼女はそのままふわりと滑り落ちるように屋根に降り立ち、わたしもそれを追って足場の上に戻る。剣を構えながら、再び正対。
「……ふふ。やはり、君がフレザリオか」
「やはり?」
ここまでやっているのだから、気づかれること自体に無理はない。ただその一言は違う。
ソーマはちょんちょんと首元を叩きながら端的に告げる。
「香水が同じだった」
わたしの香水を嗅いだときはわかる。先週の月曜日、一緒に眠ったとき。けれど、と少し迷い、だが思い至る。ヴィ・ステルメン演舞場の前で、イーチナさんの居場所を聞いたときだ。
「それに背格好も、黒髪も同じだしね。けれどそれでも偶然はあるし、正直違うと思っていた。だって、君と、フィオーレと初めて会った日の決闘、君はいかにも限界だった。あれは流石に、フレザリオにしては負けが早すぎる。演技だったのかい?」
「まさか」
「だろうね。君はそういうことはできないだろう。なら、どうして?」
「わたしは……見え過ぎる、から」
魔法の前提は認識だ。認識できなければ魔法は発動できない。けれど魔法使いにとって、認識できるものが多いことは純粋なメリットにはならないというのも、また事実だった。
気が散るのだ。対象物を認識できなければ、ほかの何を認識していようと無駄だった。
「みんなの視線が、気になって、気になって、気になって仕方がないんです」
様々な感情を載せて飛んでくる無数の弓矢。
見られている、という感覚が、フィオーレ・ララベルを捕らえる重力で。
「それを覆い隠してくれる仮面が、わたしにとっての魔法だった」
「じゃあ、いまは見られていないから?」
静かに頷くと、何がおかしいのか、くつくつと泡立つように笑われる。
「馬鹿だな。だったらどうして、魔法演舞を始めたんだ。演舞だぞ。見られるのが大前提だ」
「だって!」
だって。だって、だって、だって。
何もかもを諦めて、自分を終わらせるためにやってきた、王都ウェステティアで。
わたしは見たんだ。いままで見たこともなかったその光を。わたしとはまるで違う、自信も称賛も一身に背負って、空を飛んでいくそのひとを。
「わたしは、あなたと同じになりたかったの!」
ソーマ・ヴィ・クライン。万能の魔女。わたしが憧れ、敗北し、そして諦めた魔法使い。
そんな彼女はわたしの言葉に、フッと冷笑で答えた。
「それこそ、馬鹿だ」
「っ──!」
転移。眼前のソーマに向け、大きく横に振ったマナタイトを全身のばねを使って叩きつける。きらめく緑光のマナタイトがそれを受け止める瞬間、自身の身体を九十度ひねって転移。
今日はじめて、その顔に鋭い驚愕が浮かぶ。即座に軌道修正に動く緑色のマナタイトは、しかし間に合わず、激化保護を貫通。その胴を大きく縦に青い反応光が走った。保護宝珠を発動させながら、屋根の上を跳ねていく。
……勝った?
いや、これは演舞ではなく、決闘。緩みかけた身体を引き締め、マナタイトを構え直す。
しかし、ゆるゆると立ち上がってきたソーマさんからは、どうやら戦意が消えているようだった。マナタイトも納刀されており、空いた手は軽快な拍手を奏でている。
「いやあ。ずるいじゃないか、それは。そんな間際に突然転移するなんて、君にしかできないことじゃないか」
「ば、馬鹿なんて言うから……」
「いや、馬鹿だよ。間違いなく」
浮遊の魔法で大きく跳躍してきた彼女が、わたしの眼前にすたんと着地する。
「君は私にはなれないよ。私が君になれないように、私が私になるしかないように。君は、君にしかなれないんだ」
とん、と心臓の上を突く。
「違うからこそ、価値があるんだ。君は君で、君だから価値があるんだ」
その真っすぐな視線を直視できずに、わたしは静かに俯いた。
「……言いたいことは、なんとなくわかりましたけど。わたしには、やっぱりソーマさんの隣にいるだけの資格が……」
「……あれかい? 君はもしかして、私がこの二週間、君と嫌々一緒に過ごしてきたとでも思っているわけか? 自慢じゃないが、私は嫌なことはやらないぞ」
「そうとは言いませんけど、でも実際として」
「だから。君と私が一緒にいるのに、君と私の意思以外なんて、どうでもいいだろう?」
どうして、そんな風に思えてしまうのだろう。きっとわたしは一生かかっても得られないような、諦めとはまるで違う何か。眩しさに目を細めながら、ゆっくりと顔を上げる。知らず込み上げた涙が一筋頬を伝う感触。
「……ソーマさんは、強いですよね」
「それ」
「はい?」
頬に当てられた手の親指がすっと動き、わたしの目元をぬぐった。
「いまの私は、本当に敬称をつけるべき相手なのか?」
「…………。ソーマさん」
「おい」
「ソーマさんは、わたしのことを……えー、あー、いい感じに捉えてくれているらしいですけど」
「……うん」
「どうしてですか? ソーマさんは、こんなわたしに何を望んで、わたしと一緒にいてくれたんですか? わからなくて……痛いんです。期待に応えられてない、って」
「それは、あれだ。もちろん、細かい期待はその時々にあるかもしれないな。ちゃんと寝てほしいとか」
言って、ソーマさんはわたしの目元をぐりぐりと指の腹で押した。
「でも、一番の期待は、隣にいてほしい、だよ。私が君と一緒にいたということは、君が私と一緒にいてくれたということだ。その時点で、私の希望は叶っている」
「な、なんで隣にいてほしいんですか……?」
「おい、頑固だな、君。そこはそういうものでいいじゃないか」
ソーマさんがぎゅっと眉を寄せて唸る。
「ううん……そうだな。なぜだろうな。言葉にしようとすると、難しい。君が隣にいてくれると、楽しい気がする。毎日が私の知らなかった方向に引き寄せられていく気がする。……幸せ、というと大袈裟になるが、間違ってはいない。そんな感じかな」
そっと目を瞑る。そこには熱と物語がある。そこに向かって伸びていく小さな手を追って、わたしは、一歩、前に踏み出す。
「わたしも……わたしも貴女の、ソーマの隣にいたいです」
ばっと差し出した手を、小さく笑いながらソーマの手が包み込む。
「私の隣にいてくれ。君だから、そう思う」
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